1.旧約と新約を結ぶ最後の預言者ヨハネ
待降節の第二週に入りました。私たちは先週の礼拝でクリスマスの喜びこそが私たちに再臨の主イエス・キリストを目覚めて待つことができる力を与えるものであることを学びました。今日はバプテスマのヨハネの伝えたメッセージをマタイの福音書から学ぶことで同じくクリスマスを待つ準備をしたいと思います。
さて、バプテスマのヨハネは新約聖書に登場する人物ですが、多くの人によって「旧約の最後の預言者」と呼ばれています。新約と旧約の違いを分けるのはもちろんイエス・キリストであり、イエス・キリストの出現以前の神様の約束が記されているのが旧約だとすれば、ヨハネの活動はイエス・キリストの出現の直前に行われたものであるため「旧約の預言者」と彼を呼んでいいのかもしれません。ただ彼は、「旧約時代の預言者」というだけではなくて、正確には「旧約と新約を結ぶ預言者」であると呼ぶべきかもしれません。
たとえば私たちの元にパーティーへの招待状が届いたとします。ところがその招待状を持って会場のホテルに行ったのはいいのですが、肝心の会場はそのホテルのどこにあるのかよくわからないでまごまごしています。するとそのホテルの案内人が来て、持って来た招待状を見ながら、「このパーティーの会場はこちらです」と案内してくれます。簡単に言ってしまえばバプテスマのヨハネはこの案内人のような役目を果たしています。旧約聖書は神様がイエス・キリストを通して与えられる救いの計画に私たちを招いてくださっている招待状のようなものと考えることができます。旧約聖書はとても厚くて読むのになかなか骨の折れるものかもしれませんが、そこには私たちの救いのために神様がイエス・キリストを遣わしてくださること、そして私たちはそのキリストなしには滅びるしかない絶望的な状態にある罪人であることが詳しく書き記しています。ですから、旧約聖書を熱心に読む人は誰でもイエス・キリストの救いの出来事を喜んで、受け入れ、それを信じることができるようにされるのです。ヨハネはこの旧約聖書の招待状にすべての人が答えて、イエス・キリストを救い主として受け入れるようにと案内した人物でした。ところが、彼が実際にその案内をしたとき、当時のユダヤの人々は神様からいただいた旧約聖書という招待状を持っていたのに、その招待状を読み間違えて、大変な誤解をしていたことが明らかになります。
2.心の方向転換する
(1)神の支配が実現する
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」(1〜3節)。
ヨハネのメッセージはとても単純です。「天の国は近づいた」と彼は叫びます。マタイによる福音書の著者はユダヤ人が「神」という言葉を畏れ敬って、日常はあまり使わないことを知っていました。ですから、彼らの習慣に合わせて「神の国」という表現を「天の国」という言葉に置き換えて言い表したのです。つまりヨハネのメッセージの本当の意味は「神の国」、神が支配してくださる国がもうすぐ実現すると言うことでした。現在の世界でもある国では一人の独裁者の支配によって、たくさんの国民がひどい苦しみに出会っています。私たちの世界の苦しみの根源は人間の行う正しくない支配にあるのかもしれません。そのためこの世界の問題は一向に解決しないと言えるのです。しかし、ヨハネはこの世界を神ご自身が支配してくださると語ります。唯一の正しい支配者が私たちのためにやってきてくださるというメッセージをヨハネここで語っているのです。
この預言の通りに主イエス・キリストが神の元からやってきて、その支配を始められます。もちろん、彼の支配は地上に王国を立てることではありませんでした。むしろそれは私たち一人一人の心を聖霊の力によって支配してくださるという意味です。そして、この聖霊の支配は私たちを今まで支配していた罪と死を打ち破り、私たちをその支配から解放するものでもあるのです。
(2)悔い改めよ
ここで興味深いのはヨハネが「天の国は近づいた」と私たちに呼びかけていることです。彼は私たちに「天の国に近づきなさい」とは言っていないのです。なぜならば罪と死の闇の支配の中で苦しむ私たちには自分で自分を救うことができないからです。だからこそ、私たちは神様のところに近づくことができません。そのために神様ご自身のほうから私たちに近づいてその手を差し伸べ、私たちを救い出してくださることをこの言葉は教えているのです。だからこそヨハネはここで「悔い改めよ」と単純な勧めを語っているのです。
この「悔い改めよ」という言葉は「方向転換をしなさい」という意味の言葉です。たとえば新幹線に乗って旅行をしていると静岡あたりで天気がよい日には富士山がよく見えてきます。ところが天気はよいのに窓の外を眺めていても一向に富士山が見えてこないとしたら、その人はまず方向転換して新幹線の逆側の窓を眺めてみる必要があります。富士山とは全然違う方向を眺めながら「富士山がない。富士山はいつなくなってしまったのだろう」と考えるような愚かな人はあまりいないと思います。しかし、今日の部分を読むとこの当時のユダヤの人々は神の救いが近づいてきているのに、その救いとは全く別の方向を向いているという愚かな誤りを犯していたことがこのヨハネの指摘から分かってくるのです。
3.どこを向いていたのか
(1)着飾らないありのままの姿
「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(4節)。
普通私たちは、新しく教会を作ろうとするなら「人の集まりやすいところ。人口がたくさん集中する住宅地」などという条件をつけてその候補地を探します。ところがバプテスマのヨハネが選んだ伝道の候補地は私たちの考える条件と全く違った「荒れ野」でした。荒れ野とは人が住むことのできない不毛な地を指しています。あまりよいたとえが浮かびませんがこれはまるで見沼田んぼの真ん中に教会を建てるようなものと言ってよいかもしれません。ヨハネはそんなところで神の言葉を語ったというのです。しかも、彼の身なりや生活も当時の人々からはかなり変わったものであったことがこの記録から分かります。彼は「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」と言うのです。
つい数ヶ月前、まだ残暑の厳しい頃、私は地下鉄に乗って東京に出かけました。ところが、たぶん新井宿あたりの駅だったと思います。今まで四、五人しか乗っていなかった私たちの車両に突然、どかどかとたくさんの人が乗り込んできたのです。そのため一瞬のうちにその車両が満員になってしまいました。それだけなら「ちょと変だな」と言うくらいにしか思わないのですが、私が驚いたのはその人たちが着ている服の身なりでした。乗ってきた人は男女も年齢も別々なのですが、すべての人が厚いオーバーやマフラーなど防寒具を身につけているのです。夏服一枚でそこに乗り合わせていた私は「あれ、急に外が寒くなったのかな…」などとのんきなことを考えてしまいました。ところが電車が次の駅に着くなり、その人々は一斉に降りて行ってしまったのです。後で考えるとあれは何かテレビの撮影のためのエキストラのような人たちだったのではないでしょうか。おそらく、冬の場面か何かを撮影していたので彼らはまだ残暑の厳しいおりにもあのような冬の格好をして電車に乗り込んできたのだと思います。
ヨハネの活動した場所、またヨハネの姿とその暮らしは当時の人々から見ても大変変わったものでした。しかし、実は変わっていたのは彼ではなくて、当時の人たちのほうであったことをこの聖書は教えようとしているのではないでしょうか。荒れ野もヨハネの身なりも、自分には「なにもない」ということを表しています。それは神様の前に立つとき私たちは何ももっていない、何も誇ろうことができないということを表す姿だったのです。ところが、当時の人々は神様の前で人間的な誇りや、さまざまな心の衣装を身に着けて出ようとしていのです。これが彼らの勘違いであり、彼らが方向転換をすべき第一の問題であったのです。
私たちは神様の前にそのままの姿で出る必要があります。「こんなに立派なことをしている」。「私はあの人とはここがちがう」。そのような人間的誇りは神様の前には一切通用しないものなのです。言葉を変えて言えば、私たちが神様の前に出る準備とは、準備をしないままにそのままで神様の前に出る必要があるということです。このことを忘れて私たちが何かを準備しようとするなら、それはおそらくいつまでも不完全なものになり、結局は神様の前に出る機会を私たちは失ってしまうことになります。そしてこのことに気づかないで心の方向転換しない人は「富士山はどこに行ってしまったのだろう」と語る愚かな人と同じになってしまうのです。
(2)アブラハムの子孫とは
「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(7〜9節)。
ここにはファリサイ派とかサドカイ派と呼ばれる当時の宗教家たちが登場しています。ファリサイ派は民衆に旧約聖書に記されている「律法」と呼ばれる戒めを厳しく守るようことを教えました。一方、サドカイ派の人々はその旧約聖書の律法の中でも特に神殿で行われる様々な儀式を強調し、その儀式に参加するようにと民衆に呼びかけた人々でした。両派の人々は当時、旧約聖書の解釈を巡って激しく対立していました。ところがこの両派の人々はある一つの点では共通するところがありました。それがここでヨハネが指摘している「我々の父はアブラハムだ」という確信でした。つまり彼らは自分たちの先祖はアブラハムであり、そのアブラハムの子孫である自分たちこそが神の約束の通りに救いを受けることができるという確信を持っていたのです。
しかし、聖書が「アブラハムの子孫」と語る場合には二つの意味があることを私たちは理解する必要があるでしょう。一つは、神様が「アブラハムの子孫」であるイエス・キリストを通してその約束を実行してくださるという意味です。この場合のアブラハムの子孫とはただお一人イエス・キリストを指すということになります。またもう一つの意味は「アブラハムの信仰を受け継ぐ者こそ」が彼の真の子孫であるということです。アブラハムは神様の約束を通して救い主を信じていました。ですから「アブラハムの子孫」とは彼と同じようにイエス・キリストを救い主とする信仰者を指し示すと言ってよいのです。しかし、ファリサイ派やサドカイ派の人々が「我々の父はアブラハムだ」と呼ぶのは自分たちの血統がアブラハムにつながるものだと言うことで、聖書の語る「アブラハムの子孫」の意味とは大きく違っています。だからこそヨハネはここで「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と彼らの誤った確信を攻撃しているのです。彼らの確信は荒れ野にころがる石のように無価値なものにすぎないとヨハネは語っています。大切なのは「アブラハムの子孫」としてお生まれになったイエス・キリストを信じて信仰によるアブラハムの子孫となることです。神様の約束はイエス・キリストを信じる真の「アブラハムの子孫」たちの上に必ず実現するのです。
4.イエスによって実現する実
「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(10〜12節)。
バプテスマのヨハネは人々に悔い改め、つまり心の方向転換を薦めた上で彼らに「水の洗礼」を授けました。当時のユダヤ人たちにとってこの「洗礼」という儀式はあまり一般的なものではなかったようです。なぜなら、この洗礼は異邦人、つまりユダヤ人でない人々がユダヤ人となって真の神を信じる、その入信の際の儀式として執り行われたものだからです。つまり、最初からユダヤ人として生まれた彼らにとってはこの洗礼は必要のないものだと考えられていたのです。ですから、ここでバプテスマのヨハネの施した「水の洗礼」とはユダヤ人たちが「自分は旧約聖書の律法を厳格に守っている」とか、「旧約聖書に記された犠牲を神殿で捧げている」とか、「私たちの祖先はアブラハム」だという一切の誇りをすべて捨てさせるものだったと言ってよいのです。神様の前にはこれら一切のものは無価値であり、何も通用しないことを認めることがこのヨハネの施した「水の洗礼」の意味であったのです。まさにそれは彼らの生き方を180度方向転換させるものであったのです。
しかし、その意味を無視して形ばかりの洗礼を受けにきた人々にヨハネは「悔い改めの実を結べ。そうでなればあなたたちは必要のない木と見なされて、切り倒されて火に投げ込まれる」と激しい裁きのメッセージを語ったのです。私たちはこのヨハネのメッセージを聞いて「悔い改めの実」とは何であろうか。本当に私はその「実」を結ぶことができるだろうかと疑問に思うかもしれません。しかし、もしそこで私たちがユダヤ人たちの考えていた律法主義や旧約聖書の儀式に戻っていくなら、私たちの方向転換は360度になって、最初の誤りに戻って行ってしまいます。
先日、キリスト教綱要を学んでいるとき、聖書が激しい裁きを要求するのは、キリストの救いのすばらしさを際立たせるためであるというところをちょうど学びました。実はここでもその用法が用いられていると考えることができるのです。なぜなら、ヨハネはここで激しい裁きのメッセージを語る一方でイエス・キリストによる救いを明確に示しているからです。
「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
ですから、ここでヨハネの求める「悔い改めの実」とはこのイエス・キリストが私たちに与えてくださる信仰の実であると考えることができるのです。イエスはこの実についてヨハネの福音書の中で次のように語っています。
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」(ヨハネによる福音書15章4節)。
このようにヨハネは厳しい言葉で私たちに悔い改めを迫った旧約最後の預言者でした。しかし、彼は同時にその悔い改めの実を私たちがイエス・キリストを通して結ぶことができることを預言した人物でもあるのです。私たちもまた、この待降節の時期にもう一度、心の方向転換をして、キリストにある救いを見つめ、その喜びで満たされたいと思います。
【祈り】
天の父なる神様
待降節の第二主日を迎えることができて感謝いたします。私たちがクリスマスの祝福を喜びに満たされて祝うことができるように、私たちの心を救い主イエス・キリストに向かわせてください。自分の力では、自分を救うことのできないことを知らされているのに、自分の力に頼り、次にはその自分に失望することを繰り返すわたしたちです。私たちの心の向きを聖霊によって変えてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいします。アーメン。
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