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礼拝説教 桜井良一牧師
「倒れないように」

2004.3.14)

聖書箇所:コリントの信徒への手紙第一10章1〜12節

1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、
2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、
3 皆、同じ霊的な食物を食べ、
4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、
この岩こそキリストだったのです。
5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。
6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。
8 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。
9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。
10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。
11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

1.いつわりの確信の上にたつもろさ

 この1月に私たちの仲間の何人かの牧師たちと宣教師たちがともにアメリカの教会を訪問して、そこで開かれた礼拝についてのシンポジュウムに参加して来ました。実は私も誘われていたのですが飛行機に何時間も乗るということだけで怖気づいて、アメリカ行きを断ってしまったのです。しかし、彼らの興味深い報告を聞いて「やっぱり行っておけばよかったかな」と私も今では少し後悔しています。

 この礼拝シンポジウムとは直接関係のない話なのですが、このときにアメリカに行った友人の一人がこんな話をしてくれました。この旅行で飛行機の上から広大なアメリカ大陸を始めて見た彼の脳裏にそのとき最初に浮かんだことは「どうして自分たちの父や祖父たちはこのアメリカと戦争をしようと思ったのだろうか。こんなに広大で資源の豊かな国と戦ったところで、日本は勝つわけがないのに…」という疑問だったと言うのです。それを聞いて私は思わず「それは彼らがアメリカのことをほとんど知らなかったからじゃない…」と答えたのです。なぜなら50年以上前にアメリカに実際、行って、その国の大きさや、豊かさを感じることができた日本人はごくわずかしかいなかったはずだからです。つまり相手の国をあまりにも知らなすぎたことが、日本があの無謀な戦争に突入して行った原因の一つだと私は思ったのです。

 しかし、原因はそれだけではないと私は思います。おそらく当時の日本はもう一つ、自分たちの国の本当の力を知らなかったのではないでしょうか。ちょっと前に、戦前に作られた映画を見る機会がありました。その中で一環して描かれていたのは「日本は神の国であって、戦争に負けることはない」というテーマでした。現代の私たちにとってそんなことをどうして私たちの父や母たちがまじめに信じられたのか疑問でなりません。しかし当時の日本ではおそらくたくさんの人がこの「偽り」の信仰の上に立っていたのではないでしょうか。これもまた日本が無謀な戦争に手を染めて行った原因の一つであると言えるのです。

 自分が戦う相手をよく知らないこと、またそれと反対に自分の本当の実力を知らず、自分がより頼んでいるものが本当に確実なものであるかどうかが分からないなら、私たちは戦いに勝利することができません。そして最後には悲惨な敗北を味わうしかありません。実はこの原則は私たちの信仰の戦いの上にも共通するものだと言えるのです。

2.コリント教会への警告
(1)競技場のランナーのように

 私たちは今日もコリントの信徒への手紙を学ぼうとしています。以前にも何度か学びましたようにこのコリント教会には信仰上のさまざまな混乱と問題が起こっていました。私たちはこの混乱と問題がどこから生まれてきたのか、その原因についても何度もこの礼拝で取り上げて学んできました。当時、たいへん繁栄した商業都市であったコリントの町は、一方で退廃した文化の満ち溢れる町でもありました。そして、このような町の中に建てられたキリスト者の群れであるコリント教会はその町の影響をまともに受けて、さまざまな混乱がその内部で生じていたのです。現代社会に生きる私たちも信仰の故の戦いがあります。さまざまな価値観や文化が満ち溢れたこの時代の中で私たちが自分の信仰を守り続けることは決して容易なことではありません。おそらく、この礼拝に集っている皆さんも様々な戦いに直面しながら信仰生活を送っておられるのではないでしょうか。コリント教会の信徒たちも私たちと同じような厳しい状態の中で信仰を送っていたと考えることができます。そこでパウロは今日の箇所の直前でコリント教会の人々に次のように勧めています。

 「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい」(24節)。

 パウロはここで私たちの信仰生活における戦いを競技場で走るランナーにたとえています。以前、高橋尚子選手のインタビューの中で彼女が自分のお腹を見せているシーンを見て私はびっくりしてしまいました。おそらく皆さんのお腹はどちらかというと脂肪がついて、ふっくらとされているのではないでしょうか。ところが高橋選手のお腹は筋肉だけのごつごつとしたものだったのです。パウロはここでランナーは自分が競技に勝利するために節制すると教えています。おそらく高橋選手が世界のトップランナーになれたのは、自分の全生活をマラソンという競技だけに目標を絞り、他のものを切り捨てて節制をしているからだと思います。私には高橋選手のお腹がそんな彼女の生き方の象徴のように見えてしかたがなかったのです。

 いずれにしてもパウロはここでコリントの信徒に対して、地上での信仰の戦いを走り通して、神様に「よくやった」と賞をいただくためには、自分たちも節制してゴールに向かって一生懸命に走らなければならないと言っているのです。

(2)コリント教会員の間違い

 どうしてこんなたとえをパウロはコリントの教会の人々に向けて語る必要があったのでしょうか。そのことは今日の聖書箇所を読んでも少し伺い見ることができます。どうもコリント教会の人々は信仰者として、決して益にならいこと、いや信仰生活をかえってだめにしてしまうようなことを進んでしていたのです。そして彼らは信仰者でありながらこの世の習慣や価値観にどっぷりとつかってしまっていたのです。それではどうして彼らはキリストに救われた者たちでありながら、救われた者の生活とは似つかわしくないそのような生活に陥ってしまったのでしょうか。その原因は先ほど少し触れましたが、彼らが自分の信仰生活の戦いの中で対峙している敵の正体をよく知っていなかったこと、そしてそれと同時に自分の力を過信し、偽りの確信の上に生きていたことにあると考えることができるのです。

 コリント教会の人々は「自分たちはキリストによって救われている。だから何をしても大丈夫だ」という思い込みをして、信仰生活に益になるとは思えないようなこの世の価値観と習慣の中に入り込んで行ってしまったのです。さらに彼らは「もう自分たちは救われているのだから、そんなに熱心に信仰生活をしなくてもよい」とまで考え、日常の信仰生活さえ軽視していきました。つまり彼らの偽りの思い込みは、彼らの信仰への熱意を奪い、彼らをこの世的な生き方へと誘っていったのです。昔、「何にでも効くよい毒消しがあるからと言って、毒薬を進んで飲もうとすることは愚かなことではないか」と言った人がいますが。まさに、彼らの誤った思い込みは自分から進んで毒薬を飲もうとする愚かな行為そのものだったと言えるのです。そのためにパウロはこの手紙の中で彼らに警告を発しなければならなかったのです。「あなたたちは誤った思い込みをしている。何よりもあなたたちは自分が今、対峙している敵の力を知らない。その上であなたたちが今抱いている確信は誤ったものでしかない」と語り、その上でパウロは「この信仰の戦いを勝利するために、偽りの思い込みを捨てて真の確信の上に立った信仰生活を送るように」とコリントの教会の人々に勧めているのです。

3.イスラエルの民から学べ
(1)荒れ野の教会

 今日の部分では旧約聖書に登場するイスラエルの民の失敗が語られています。その失敗を語った上でパウロは結論部分で次のように言っています。

「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(12節)。

 いままでのことを考えればわかるように、ここで「立っていると思う者」と呼ばれているのは、誤った思い込みによって「自分はだいじょうぶだ」と考えているコリントの教会の人々のことでした。パウロはここで彼らが「倒れないように気をつける」ために、実際に「倒れてしまった」人々の実例を旧約聖書の中から上げています。それはせっかくエジプトの奴隷状態から解放されたのに、荒れ野で40年の間さ迷いながら、約束の地に入ることができなかったイスラエルの民のお話です。私たちは旧約聖書の出エジプト記などに記されているこの出来事を詳しく振り返ることは今日はいたしません。ただここで興味深いのは、パウロがここでイスラエルの民の過去の失敗を語るだけではなく、彼らが洗礼を受け、聖餐式にあずかることができた信仰共同体であったと説明しているところです。つまりイスラエルの民は今、教会生活を送っている自分たちと全く同じ立場にありながら、失敗してしまった人たちなのだとパウロは教えているのです。

 まず「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ…」(1〜2節)とイスラエルの民が洗礼を受けて救われた者たちであったことが語られています。また次には「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」(3〜4節)と彼らもまたキリストの体と血にあずかる聖餐式の恵みを受けた人々であると言うのです。つまり、彼らはコリントの町にある教会の人々と同じように、荒れ野にある教会に属する人々だったとパウロは教えているのです。

(2)神を道具とする過ち

 荒れ野をさ迷ったイスラエルの民は目に見える形は違いますが、荒れ野の教会の中で信仰生活を正しく送っていたのです。つまりそれぞれの宗教的な義務をそこで果たしていたのです。それは私たちが日曜日ごとに礼拝に参加し、信徒としての義務を十分果たしていると考えることと同じであると言えます。しかし、問題なのは私たちがそのような信仰的義務を果たしているだけで本当によいのかどうかと言うことです。

 子供のときに毎年、お正月になると私は父と一緒に成田山に初詣に連れていかれました。参道一杯に埋める人盛り、家内安全を祈ってもらうために買い求める守り札(護摩札)を受け取るための行列の思い出が今でも私の脳裏に残っています。ところが初詣でたいへんな思いをして買い求めたその守り札も家に帰って神棚に飾ればそれで終わりです。これで一年の義務は果たし終えたと、あとの364日は我が家の中には成田山との関係は全くなくなってしまいます。

 もし、私たちが礼拝に参加し、そこでせっかく聖礼典に参加しても、それが成田山のお守りのように私たちを単に日ごとの禍から守るためだけのものであるとしたら、私たちの信仰とはどのようなものになってしまうでしょうか。出エジプトのとき、シナイ山に登ったモーセがなかなか帰らないのを知ったイスラエルの民はアロンに「自分たちを守るための神様を作ってくれ」と願います。そこで作られたのが金の子牛です。この物語の問題点はイスラエルの民が単に偶像を作ったということだけで終わるものではありません。彼らが神様を「自分たちを守る」道具のように考えていたことが大きな問題なのです。神様を自分たちのために働く便利な道具として考えていたからこそ彼らは簡単に真の神を捨てて、金の子牛を拝むことができたのです。

 もちろん、神様は私たちを守って下さる方です。毎日の生活の中で私たちを禍から救い出してくださる方です。しかし、肝心なのは神様が何のために私たちをキリストにあって救ってくださったかです。それは私たちが神様から離れて、思い思いの勝手な生き方をするためではありません。私たちが神様と共に生きるためではないでしょうか。私たちを愛して下さっている神様は、私たちにご自身と豊かに交わり、真の命を私たちが得ることができるようにとキリストを遣わして、私たちを罪から救い出してくださったのです。ですから私たちの神様への信仰は私たちの日常生活を守る手段ではなく、私たち人生の目的そのものなのです。コリントの教会の人々はこの信仰生活の目的を見失っていました。それはゴールを忘れてしまっているランナーであったとも言えるのです。だからこそパウロは彼らに自分たちの信仰生活は競技場で走るランナーと同じようにはっきりとしたゴールがあると教えているのです。

4.救いはキリストにのみ
(1)キリストからすべて与えられる

 宗教改革者のカルバンはこの箇所の解説の中で「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」というパウロの言葉を使って「だから私たちは最後のときまで自分が救われているかどうか確信できないのだ」と教える人々に反論を加えています。彼によればこの手紙の中でパウロの批判を受けている人は「偽りの確信の上に立つ人たちであって、彼らはむしろ、キリストにある真の確信の上にたつべきであった」と教えています。また19世紀の有名な説教家であったスポルジョンは同じようにこの箇所を取り扱う説教の中で、「このパウロの言葉を使ってカルバン主義の原理を批判する者がいるが、それは誤った愚かな批判でしかない」と語っています。ここでカルバンやスポルジョンが想定している批判者たちは「もし、私たちの救いが100パーセントキリストの恵みによっているとしたら、私たちはそれ以上に何もする必要がなくなってしまう。それでは私たちの信仰生活に何の緊張感もなくなってしまい、人間は怠惰な生活を送るようになる」と教えるのです。つまり、彼らはあたかも「コリント教会の誤りとはカルバン主義者が強調する『キリストの恵みによってのみ救われる』という教理が原因である」と言っていると言うのです。

 しかし、スポルジョはその説教の中で続けて次のように反論しています。キリスト教会の歴史をよく調べているがよい、神様のために生き、悪魔とこの世の力に熱心に戦い続けた人々はみな「キリストの恵みよってのみ救われる」という教理を信じていた人たちであると。そしてこの教理こそが彼らが激し信仰の戦いの中でも自分の信仰を守り抜き、勝利することができた秘訣だと言うのです。私たちの信仰を勝利に導く力は愚かな私たちの内側にはありません。すべて救い主イエス・キリストから与えられるものなのです。だからこそ、私たちは欠かすことなく礼拝を続けます。また、聖書を読み続け、キリストに目を向け続けるのです。また毎日、神様に祈りをささげつつ、私たちのために天で執り成してくださるキリストに100パーセントの望みを置いているのです。

(2)キリストへ逃げ込め

 中世のキリスト教伝道者はこのようなたとえ話を語って教えています。

 ある日、狐と猫が森を歩いていました。狐は大切そうに大きな袋を肩に担いでいます。そして狐は得意そうに猫に語るのです。「猫君、僕が背中に担いでいる袋はすごいよ。この中にはいろいろなものが入っていて、それを使って僕は何でも出来るんだ」と狐は自慢するのです。狐は猫に尋ねます。「ところで、君は何を持っているんだい。いったい君は何ができると言うんだい」。すると猫は少しはずかしそうにこう答えます。「そうだな、僕はこの脚で木に登ることができるよ」。その答えを聞いた狐は猫を蔑んで、ますます自分の胸を張っています。ところがそこに突然、狼が現れて狐と猫に襲い掛かろうとしたのです。とっさに猫は近くにあった木によじ登り、その難から逃れます。ところが狐はどうしていいか分からずにまだうろうろしているのです。猫は木の上から「狐君、今こそ君の袋の中身の出番じゃないか」と呼びかけます。ところが、狐は猫にこう答えたというのです。「猫君、ぼくは今始めて木に登れることが一番すばらしいことだということがわかったよ」と。

 このたとえ話を語る説教者は聴衆に訴えます。たとえあなたがどんなに優秀で素晴らしい才能を持っていても、たくさんの財産を持っていても、それはあなたの救いのためには何の役にもたたない。大切なのは猫が木に登って狼の難から逃れたように、私たちもキリストの十字架の上に逃れることだと…。

 私たちは聖書の中心的メッセージの一つである「キリストの恵みによってのみ救われる」ことを信じるものたちです。だからこそ、私たちは他のものに目を向けるのではなく、信仰生活の中でいつでもこのキリストに目を注いで生きることが求められているのです。そしてパウロは私たちの信仰生活がそのゴールに集中されるとき、競技場のランナーと同じように勝利を受けることができると教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちのこの世での信仰の戦いは毎日続きます。もしその中で私たちが自分を過信したり、目標を見失ってしまったら。それは大変なことになってしまいます。私たちが私たちを救ってくださる主イエスに集中して目を向け、戦い続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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