Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
「栄光ある体に」

2004.3.7)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章20〜4章1節

20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

1.私たちの国籍は天にある
(1)アメリカと日本の国籍法の違い

 アメリカでは隣国のメキシコから不法に入国して働く人々をどう取り扱うかがたいへん難しい問題だそうです。そんなニュースを先日見ていて、私は改めて確認できたことがありました。それは国籍の取り扱い方についてのアメリカと日本両国の違いです。そのニュースによればアメリカでは不法移民の子供であっても、本人がアメリカで生まれたということが確認できればアメリカ国籍を持つことができます。ですから、親は依然として不法移民ですが、その子供はアメリカ国民として取り扱われることになるのです。ラジオ伝道部の山下牧師のお子さんの中で二番目の娘さんが今、アメリカに留学しています。彼女だけは山下牧師がアメリカ留学中に誕生していますからアメリカ国籍を持っています。そんな理由からアメリカに留学するのは他の日本人よりも簡単であったと聞いています。

 ところが日本の場合の国籍の取り扱い方は大きく違います。日本の場合、両親のどちらかが日本人でなければ国籍を取得することができません。つまり逆に言えば、世界中のどこで生まれたとしても日本人の親が決められた手続きを取れば、その子供は簡単に日本国籍を取得することができるのです。ペルーの元大統領だったフジモリさんが今は日本に住んで、保護されているのは彼の両親が日本人であり、しかもその親がペルーの大使館に彼が生まれたときに国籍取得の手続きを取っていたからなのです。ですからたとえその人が日本に今まで行ったことがなく、日本のことを何も知らなくても日本人として認められ、日本人としての権利が与えられるのです。

(2)神様に属する民

 今日の聖書の箇所では「わたしたちの本国は天にあります」(20節)というパウロの言葉が登場します。新改訳聖書ではここのところは「私たちの国籍は天にあります」と訳されていますが、こちらのほうがギリシャ語原語を直訳した形をなっています。ここではイエス・キリストを信じる私たちの国籍が「天」にあると説明されているのです。「天」というと聖書にあまり馴染みのない方は何か死んでから行く「天国」というイメージを持つ人が多いかもしれません。しかし、聖書が語る「天」とは神様がおられるところ、あるいはイエス・キリストがおられるところを意味していると考えたほうがいいと思います。つまり、「私たちの国籍は天にあります」とパウロがここで語る場合、これは「自分たちは神様の国の民」、「神様に属する者」と言っていると考えてよいのです。

 さて、あまり法律のことに詳しくないのでお話しすることができませんが、日本で外国人が日本国籍を取得するのはたいへんに難しいと聞いています。国籍を取得したい人はそのためにたくさんの条件を努力して、クリアしなければならないわけです。

 それでは私たちはどうして「天の国籍」を持つ者となれるのでしょうか。私たちは生まれながらに天の国籍を有するものだったのでしょうか。そうではありません。私たちはこの国籍をイエス・キリストの救いの業を通して、恵みによって与えられた者たちなのです。つまり、「私たちの国籍が天にある」と言える場合は「私たちはイエス・キリストの恵みによって救われた者たち」という言葉と同じ意味を持つと考えてよいのです。

2.キリストがもう一度やってくる
(1)全く違う韓国と日本の評価

 それでは私たちの国籍が天にあるとしたら、私たちはそこからどのような特権、あるいは権利を受けることができるのでしょうか。パウロは続けてこう語っています。

「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(20節後半)。

 私は小学生の頃、切手を集める趣味を持っていました。当時の子供たちの中では切手を集めるのが今の子供がカードゲームを集めるように流行していたのです。私は日本の切手だけではなく、世界のいろいろな国々の切手をコレクションしました。その切手を集めることでまだ行ったことのない国々の知識に触れることができるような気がしたからです。切手を集めだしてだいぶ月日がたった頃だと思います。切手には景色だけではなく、さまざまな人物が描かれています。その多くはその国の国王であったり、歴史的な偉人とされ、尊敬されている人たちです。あるとき、韓国の切手を集めているときに「安重根(アン・ジュングン)」という人の肖像が描かれていることに私は気づきました。はっきり言って韓国の切手に描かれている人物で他に分かったのは当時のパク・チョンヒ大統領だけでしたが、歴史が好きだった私は「アン・ジュングン」という名前に見覚えがありました。それは朝鮮総督府の初代総督であった伊藤博文をハルピン駅で暗殺した人物だったからです。私はこの切手を見つけたときにたいへん不思議な気持ちになったことを思い出します。なぜなら、その当時、わたしが使っていた日本の千円紙幣には伊藤博文の肖像が印刷されていたからです。ご存知のように日本で伊藤博文といえば、明治維新の功労者、また最初に議会がつくれたときに総理大臣に選ばれた人物として尊敬されています。日本では伊藤博文が紙幣の肖像になるような偉人とされているのに、韓国ではその伊藤博文を暗殺した人物が日本統治に反対した愛国者として尊敬され切手にまでなっているのです。国が違うとその見方は全く逆になってしまうのです。

 ご存知のように日本では8月15日は太平洋戦争が終わった「終戦記念日」あるいは「敗戦記念日」になっていますが。お隣の韓国ではこの日は「光復節」つまり「解放記念日」として祝われているのです。同じ日なのにその人がどの国に属しているかでその評価は全く違ってしまうのです。

(2)最後の日への評価

 パウロがここで語っているように私たちが天に国籍を持っている神の国の民であるならば、全く評価が変わってしまう日があると言うのです。それは「最後の日」、「終末のとき」と呼ばれる日についての評価です。ご存知のように聖書は至るところで、やがて神様が造られたこの世界を厳しく裁かれる日がやってくると語っています。そしてたくさんの人々は聖書のその部分だけを拾い読みしてたいへんな不安を覚えています。しかし、聖書は一方でその日のことを別の呼び名でも呼んでいるのです。それは「主イエス・キリストがやってきてくださる日」、「主の日」であるということです。

 それでは主はその日、私たちの世界に再び来られて何をされるのでしょうか。それは私たちのために約束してくださった救いを完全な形で私たちの上に実現してくださるためなのです。私たちはイエス様の救いに今、既にあずかっています。しかし、イエス様が十字架の上で勝ち取ってくださった恵みのすべてをまだ私たちは全部受け取っているわけではありません。ですから、その祝福を携えて、主イエスが再び来てくださる日を私たちは待っているのです。しかし、主イエスを拒み、その救いを受け入れない人たち、つまり天に国籍を持っていない人たちにとってはその日は厳しい裁きの日であり、絶望と恐怖の日になってしまうのです。

3.キリストと同じ栄光の体に

 パウロはその日に私たちが主イエスから受け取ることのできる祝福を続けて次のように表現しています。

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(21節)。

 ここで「わたしたちの卑しい体」といわれている言葉は原語の意味から解釈すると「わたしたちの死に定められた体」と読んでもよい言葉です。ご存知のように私たち人間は最初に神様に創造されたときには「死」を知りませんでした。人間は最初から「死に定められた存在」ではなく、むしろ「命に定められた存在」であったのです。ところが人間が死に定められるようになったのは最初の人間アダムが神様との約束を破り、罪を犯したためだと聖書は説明しているのです。私たちの世界に罪が入り込んできたとき、同時にこの世界に死が入り込み、そこに生きる私たちを支配するようになったのです。そしてイエス・キリストの救いはその死を打ち破り、私たちに命を回復させるものでした。ですからキリストが再び地上に来られる日とは、この罪と死の支配がこの世界から全く一掃されて、私たちが解放される日、「解放記念日」でもあとも言えるのです。そのとき私たちはイエス・キリストの支配の下で命に移されるのです。

 キリスト教会の持つ墓地の墓碑にはよく「私たちの国籍は天にある」というこの聖句が刻まれています。この言葉が墓碑に刻まれる理由は、私たち信者が、すべてキリストが再び来られる日を待ち望んでいるからです。そのとき、私たちの死に定められていた体は「御自分(イエス)の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」という約束にあずかることができます。つまり死から最初に復活された主イエス・キリストと同じ姿に私たちもしていただけると聖書は教えているのです。だからこそ、この日は私たちの希望の日であり、喜びの日と言えるのです。

4.固くされなさい

「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(4章1節)。

 パウロは私たちがイエス・キリストによって天の国籍を有する者とされたこと、そしてイエス・キリストの再び来られる日を喜びと希望を持って待ち望む者とされていることを語った後で、今度は読者たちの目を今の現実に、自分たちの足元へと向けています。このようにパウロが語る神の祝福は私たちの地上の苦しみをひと時忘れさせるだけの気休めでありません。そうではなく、私たちのこの地上での生活を確かなものとさせ、私たちを「しっかりと立たせてくれる」人生の土台となるものなのです。

 この間、テレビドラマでこんなお話が放送されていました。そのドラマの主人公が怪我をして入院していた自分の父親を見舞いに行ったときのお話しです。病室を訪れた彼に父親と同室にいる入院患者が「お父さんのために花でも持ってきてあげなさい」と彼にアドバイスするのです。なぜなら、彼の父親のところには一人も見舞い客が訪れず、花の一つも飾られていなかったからです。ところで主人公はこの出来事から自分の子供だったころの父親についての思い出を甦らせます。そのとき何かの病気で入院した父親のベッドには後から、後から途絶えることなく見舞い客が訪れて、たくさんの見舞いの品や花が並べられていたのです。そのとき子供心に「自分のお父さんはすごい」と主人公は思ったと回想して言います。ところが主人公は続けてこう語るのです。「でもあるときから、あの花は自分の父に贈られたものではなかったことに気づいた」と。「その花は父ではなく、会社の上司で自分の出世や評価に繋がる権限を持つその肩書きに送られていただけなのだ」と、その証拠に定年退職した彼の父親の病床には誰も見舞いに訪れる人はいません。主人公はそんな父親の生き方に批判を覚えながら、いつの間にか自分もそんな父と同じ生き方をしていたことに気づき、反省するのです。このように私たちが地上の人々から受ける賞賛は、自分の置かれている変化によってすぐなくなってしまいます。

 今日の聖書の直前ではパウロに「彼らは…、この世のことしか考えていません」(19節)と批判されている人が登場します。この人たちが具体的にどういう人なのか今は詳しくここで説明することはできません。しかし今日の箇所のパウロの言葉を反対にすれば、この人たちの生き方が分かると思います。彼らはキリストの恵みによる救いを拒絶し、天に国籍を持たない人々、ですからその人たちには最後の日は裁きと恐怖と絶望の日となり、またキリストと同じ栄光の姿を受けることができないのです。彼らの立っている足場は神様の裁きによってやがてなくなってしまう地上的なものなのです。それは決して確かなものではありません。

 しかし、天の国に国籍を持つ私たちはたとえ、私たちの置かれている状況がどのように変化したとしても変わることのない祝福をキリストから受けることができるのです。私たちはキリストの救いによって、未来を、そして今を変えられた者たちであることをパウロはこの箇所で教えているのです。

このページのトップに戻このページのトップに戻る