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礼拝説教 桜井良一牧師
力強く証しするようにと

2004.4.11)

聖書箇所:使徒言行録10章34〜43節
聖書箇所:使徒言行録10章34〜43節(新P.159)
34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、
37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。
38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、
40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。
41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。
42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

1.ペトロの異邦人への説教

 今日はイエス・キリストが復活された出来事を記念して行われるイースターの礼拝です。先週の礼拝で私たちはキリストの受難と十字架の出来事の意味と私たちとの関係について学びました。そこで今日は同じようにキリストの復活の出来事の意味と私たちとの関係について学びたいと思います。ただ、私たちは十字架の出来事を語るとき、すでにそこにはイエスの復活の勝利を語る必要がありました。ここでもイエスの復活を語るとき、キリストの十字架の出来事が当然のように結び付けられた上で考える必要があるのです。なぜなら死んだ人がただ甦ったということなら、それは私たちと遠く離れた世界で、しかも二千年以上前に起こった出来事でしかなくなってしまうからです。キリストの復活が今を生きる私たちと関係があるとしたら、それはこの甦った方がどのような方であるかという事実に基づいていると言えるのです。今日のところでは使徒ペトロがイエスの復活の証人として説教をしています。そこでペトロはイエス・キリストの復活を証言しながら、このイエスがどのような方であり、このイエスの復活が私たちとどのような関係があるのかを簡単に述べているのです。

 先日、クレス宣教師の説教でイエス・キリストが異邦人の女性の願いをなかなか聞き入れることをされなかったこと、その理由としてイエスが「イスラエルの家の者のために遣わされている」と述べたところを学びました。この部分はたいへんに誤解されやすい箇所ではありますが、神様の救いの計画を、家を建てる建築工事にたとえてみると少し分かりやすいかもしれません。どんな建物でもそうですが建物を建てる場合に最初に肝心なことはしっかりとした土台を築くことではないでしょうか。どんなに立派そうに見える家でも土台の部分が欠陥工事であるなら、家はたやすく傾き、壊れてしまう危険があります。この教会も比較的に地盤の柔らかな土地の上に建てられていますから、建築会社は30メートル近い長さの杭を地中に打ち込みました。もし、土台の工事を中途にして、建物部分の工事を始めてしまったら、それは大変なことになってしまいます。神様の救いの計画もそのようなものであると言えるのです。最初神様は地球上の人々の中から小さなイスラエル民族を選ばれました。それは世界の人々を救うためにイエス・キリストをこの民族を通して遣わすためだったのです。キリストの十字架と復活はこの基礎工事の完成を意味しています。ペトロは今日の最初のところで「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34〜35節)と語っています。ペトロは以前、イエス・キリストはイスラエル民族のためにやってきてくださった救い主だとしか考えていなかったようです。しかし、キリストの十字架と復活の出来事を体験し、また天に昇られた主イエスが自分たちのもとに聖霊を遣わしてくださっていることを知ったペトロは、今、この救いの土台の上に全世界の人々の救いが成就することを知らされ、確信してこう語っているのです。

 この理解に促されてペトロは実際にここで異邦人であるローマ軍の百人隊長コルネリオの家でイエス・キリストの福音のよき知らせを語り始めています。

2.ペトロの説教の要点
(1)キリストによってもたらされた神との平和

 「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう」(36〜37節)。

 キリストによって実現した救いが全世界の人々のためであるとするならば、全世界の人々は皆、同じようにキリストの救いを必要としているということをも意味しています。なぜなら、私たち人間はすべて神様によって作られた作品だからです。ところが最初の人間アダムとエバの犯した失敗により人間はその作者である神様に背を向け、あげくはその神様の存在さえ忘れてしまいます。その結果、私たちの人生に大きな混乱が起こってくるのです。

 今月号からまじわり誌の表紙のデザインが変わりました。今回は抽象画というのでしょうか、いつも表紙に採用するような絵とはすこし趣向が違っています。最初にこの絵を書いた方に評しの絵を依頼したとき、何枚かの表紙にする絵の原案が編集員会に出されました。ところが編集員は渡された絵を見ても、いったいその絵に何が描かれているのか分からないのです。挙句の果てには、いったいその絵のどちらが上なのか下なのかも分かりません。校正の段階でも絵についている汚れのようなものを作者が意図してつけたものなのか、それとも後から本当についた汚れなのかも分からない始末です。結局そのたびに私たちは作者にその絵の意味を説明してもらい、どちらが上か、どれが汚れなのかを教えてもらう必要がありました。

 私たちの人生に起こっている混乱もこのようなものではないでしょうか。作者から離れてしまった私たちは自分の人生の意味を見失っています。ですから、本当は自分の人生で大切ではないもののために時間と労量を傾けてしまったりするのです。また、自分の人生に豊かな持ち味をつけるために神様が与え下さった賜物を不必要な「傷」や「よごれ」と勘違いしてしまったりするのです。この人生の混乱、そして世界の混乱を解決する方法は私たちがこの世界とそこにあるすべてのものの作者である神様のもとに立ち返り、その方に導かれながらこの人生を送ることにあるのです。そしてイエス・キリストは私たちの混乱した人生と世界に平和をもたらすためにやって来られた救い主なのです。

(2)「油注がれた」救い主

 「ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(37〜38節)。

 ペトロはイエスの生涯を大変簡単に要約して語ります。イエスの生涯で大切なことは彼が聖書に約束された救い主であるということです。ここに登場する「油そそがれた者」とはイエスが救い主として神様から選ばれたことを物語る言葉です。そしてイエスが救い主である証拠は彼自らがそう語ったからだというだけではありません。ペトロはキリストが救い主である証拠としてここでは「神が一緒だった」と言う事実を上げています。先週の礼拝でも学びましたが、キリストの受難と十字架の出来事の意味はこのことを抜きにするなら単なる人間の失敗の出来事に終わってしまいます。もし、そうならイエスの語られた言葉やなされた行動がたとえ立派であったとしても、結局はその言葉と行動は人生に失敗した敗北者の言葉と行動になってしまいます。キリストが私たちの救い主であることを否定するなら、私たちは聖書からどのような益も受けることもできなくなってしまうのです。

(3)人間の失敗が神の救いに用いられる

 「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました」(39〜40節)。

 それではイエス・キリストは私たちの救い主として何をされたのでしょうか。彼は人々によって木にかけられて殺されました。「木にかけられる」とは聖書では呪われた者の死を意味しています(ガラテヤ3章13節)。キリストは私たちが負っていた呪いを一身に引き受けて十字架で死なれたのです。この死によって私たちは自分たちの人生を支配していた呪いから解放されるのです。そしてイエスは三日の後、墓から甦られました。それはこのキリストの十字架によって神の救いが実現したこと、イエスの死が無意味なものではなく、その死を通して神の計画が実現したことを私たちに確証させてくれるものなのです。

 ここで興味深いのはイエスの死が人間の犯した罪の結果、つまり人間の犯した最大の失敗によって起こったとペトロが語っているところです。神の計画はその人間の犯した最大の失敗を用いて成就され、キリストは神様によって甦らされたのです。

 私が尊敬するユダヤ人の心理学者アルフレッド・アドラーは「人間はたとえ自分が死ぬ数時間前になったとしても、自分の生き方(ライフスタイル)を変えることができる」と語ったと言います。しかし、本当の意味で私たちの人生を変えることの出来る方はこの救い主イエス・キリストではないでしょうか。彼は強盗の罪を犯して自分と同じように十字架刑にされて死のうとしている一人の人の願いを聞き入れて、彼を天国へと導きました。このイエス・キリストによるなら私たちが自分の人生を変えていただくことで「遅すぎた」、「もう取り返しがつかない」ということは一つもないのです。たとえ私たちがどんな失敗を犯した者であっても、その人生を救いへと導く力をイエスは持っています。なぜなら、彼自らが人間の犯した最大の失敗を用いて、すばらしい救いを成し遂げてくださったからです。

3.キリストの復活の証人

 「しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです」(41節)。
 復活されたキリストに出会うことができたのはごく少数の人々に限られていました。世界の歴史の中でイエスを救い主と信じ、その復活の事実を信じて生きたクリスチャンの中で実際に復活されたキリストに出会った人々はほんのわずかでしかありません。それでは大多数のクリスチャンはどのようにしてキリストの復活を信じることができたのでしょうか。それはここで語られているように選ばれた証人のたちの証言を通してです。新約聖書に登場する「使徒」と呼ばれる人々はこの証言を残すために特別に選ばれた者たちでした。そして彼らの証言を土台にして新約聖書が記されたのです。彼らが復活されたキリストに出会うことができたのは自分たちのためと言うよりは、彼らの証言を通じて世界の人々がキリストの復活を信じるためだったのです。それは神がその救いの計画を実現するために最初にイスラエル民族を選んだと同じように、使徒たちは私たちがキリストの復活を信じるために選ばれた人々だったのです。

 このペトロの説教を聞いていたとき、「聴衆の上に聖霊が降った」と聖書は続けて語ります(44節)。これは天で今も生きておられるイエス・キリストがペトロの説教を聞く人々に聖霊を送ってくださったのです。そしてこの聖霊こそが彼らの心を開き、イエスが甦った証拠をはっきりと刻み付けて下さるのです。使徒の証言が聖書を通して語られる今も、キリストは私たちに聖霊を送り続けてくださっています。私たちがイエスを信じることができるのは、このイエス様が今も生きて働き、私たちに聖霊を遣わしてくださるからなのです。つまり、キリストが復活されたからこそ、私たちはキリストから遣わされた聖霊によってこのイエス・キリストを信じることができるようにされているのです。ですから、私たちの信仰は復活されたイエスを信じるというだけではなく、復活されたイエスによって与えられたものだと言えるのです。

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