1.恐怖ではなく希望を与える書物
(1)誤解されたメッセージ
以前、私と同じようにラジオ伝道の奉仕をされていた一人の牧師から聞いたお話しです。ご存知のように私たちはラジオを通して神様の福音を伝えることを目的としてこの働きに加わっています。そのため短い時間のメッセージの中で当然ですが私たちはラジオを聴かれている人に神様の愛を伝えることができるようにと心がけます。「神様はあなたを愛しておられます」。ですから私たちはラジオを通して不特定な人々にこのような言葉を繰り返し語りかけるのです。ところがその牧師のラジオを聴いていた一人の婦人が、その言葉を聞いて「この先生は私を愛していると言うメッセージを密かに私にラジオを通して伝えようとしているんだは…」と思い込んでしまったというのです。多分、その婦人の心が病んでいたのだと思いますが。それからと言うもの、その婦人から熱心なラブレターがその先生に届くようになりました。とにかく、その先生がラジオで「神様はあなたを愛しておられます」と話すたびに、その婦人は「先生はやはり私を愛しているんだは…」と解釈してしまうのですから大変です。語られたメッセージが正しく理解されずに、誤解して受け取られてしまうのです。この婦人の場合にはあまりにも極端ですが、同じようなケースを私たちもたびたび経験することがあるのではないでしょうか。
(2)迫害下の教会に慰めと希望を与える書物
実は今日、私たちが学ぼうとするヨハネの黙示録のメッセージも多くの人々に極端に誤解されてきたと言ってよいでしょう。本屋さんにはヨハネの黙示録を題材にした書物が今でも並んでいます。世界はどのように終末を迎えるか、どのような混乱がそのとき起こるのか。そのような内容を記す本が一般書店で売られているのです。そしてヨハネの黙示録といえば人々を恐怖に陥らせる、何か物騒で近寄りがたい書物というイメージがいつのまにか植えつけられてしまっているのです。
そこでまず私たちがヨハネの黙示録を学ぶときに大切なのはこの書物が誰に向けて何のために書かれているのか。それを正しく理解することが求められるのです。
この黙示録を記したヨハネはキリストを信じる信仰のためにパトモス島というところに追放された伝道者でした(1章9節)。そこで彼は幻の中でこの啓示を受け、それをこの書物に記したのです。ヨハネが信仰のために追放されたように、当時、多くのクリスチャンたちはキリストを信じる信仰を守るために厳しい戦いの中に立たされていました。当時の地中海周辺の諸国を支配していたローマ帝国が組織的にキリスト教会を迫害していたのです。
「あなたこそ私の主。生ける神です」。私たちクリスチャンは祈りの中でイエス・キリストにこの言葉を使って呼びかけます。しかし、当時のローマ皇帝はこの同じ言葉を自分に向かって語り、ローマ皇帝への忠誠を表すようにと支配地域の住民に求めたのです。当然、クリスチャンは信仰的良心にかけてもそのような告白をすることはできません。ですからキリスト教徒たちはローマ皇帝への忠誠を誓うことのできない反逆者としてのレッテルを貼られて、激しい迫害を受けることになったのです。礼拝をささげることも命がけ。そのように言ってもいいような厳しい状況に立たされた教会の人々にこのヨハネの黙示録は書き送られています。つまり、この書物は人々に不安や恐怖を与えるために書き記されたものではなく、戦いの中にいるキリスト教徒とその教会に慰めと力を与え、真の希望がどこにあるのかを示す書物として与えられていると言ってよいのです。
ですからヨハネの黙示録を読む私たちはこのことを先ず心にとめてこの書物を理解していく必要があるのです。
2.歴史の主権者イエス・キリスト
(1)キリストのためにささげられる天上の礼拝
今日の部分は4章から始まるヨハネが幻の中で見た、天上での礼拝の光景を記しています。ヨハネはそこで玉座に座る栄光に満ちた神の姿と、その神を賛美する獣や長老たちの姿を目撃します。そしてこの5章では主イエス・キリストが「屠られた子羊」という象徴的な姿を通して登場し、同じように獣や長老たち、そしてすべての被造物から賛美を受け、礼拝をささげられているのです。それではどうしてこのような礼拝の光景が地上で権力者によって弾圧を受けて苦しんでいるキリスト教会の人々を励ますことになるのでしょうか。そのことを解くいくつかの鍵をこの5章の部分から拾いながら、私たちはこの天上での礼拝の意味について少し考えてみたいのです。
(2)封印された巻物とそれを開く者
「またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。また、一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見た」(1〜2節)。
ここで王座に座っている方、つまり神ご自身の右の手に巻物が置かれているのをヨハネは目撃します。「七つの封印で」固く封じられたこの巻物は、この後、このヨハネ黙示録が展開していく世の終わりに至る歴史を書き記した巻物であると考えることができます。しかし、この書物は簡単に誰もが開いて読むことのできる書物ではありません。天使はそこで「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と呼びかけています。特別な資格も持つ方以外にこの封印された書物を開くことはできないのです。さらにこの場合、「封印を開く」と言う言葉には単にその巻物の内容を明らかにするという意味以上に、そこに記されている歴史、つまりこれから起ころうとする終末に至る神様の計画を実行することができる者という意味が同時に表されていると言ってよいのです。そう理解するなら、次に記されているヨハネの涙の意味も分かってくるからです。つまり、この巻物を建築物の設計図にたとえれば、これを「開く者」とは実際にその設計図通りに建物をたてることのできる施工者を意味していると言ってよいのです。
(3)ヨハネの涙の意味
「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた」(3〜4節)。
私が子どものころ日本では学生運動が盛んでした。私の故郷の近くには成田空港がありましたらからそこでヘルメットを被って機動隊と戦う学生たちの姿をテレビで熱心に見た思い出があります。その影響があったためでしょうか、多少、時代遅れという感じではあったのですが、私も大学生になったときに同じような学生運動に参加し、ヘルメットを被って成田空港反対運動にも加わりました。当時の私は真剣に「自分たちは日本を、そして世界を変える力を持っている」と信じていました。ところがやがて私はこの活動の中でいろいろな挫折を経験し「自分の力は無力で、日本や世界は愚か、自分自身さえ変えることができない」という空虚な思いに支配されていくようになったのです。そして結局はそれが間接的なきっかけとなり私は聖書を読むようになりました。
ヨハネは巻物を開く者がいないことを悲しみ激しく泣きました。なぜなら神の計画をこの地上に実現する力を持っている者がこの地上に一人も存在しないことを彼は知っていたからです。彼も他のキリスト教徒たちもローマの激しい弾圧の中で自分の信仰を守るだけで精一杯であり、その信仰さえ明日どうなってしまうか分からない不安の中に立たされていました。ですからヨハネは自分自身の内には神の計画を実現する力も、そして希望もないことを痛切に感じていたのです。このように巻物を開く資格を持つ者が一人も自分には見出せないからこそヨハネは激しく泣き出したのです。ところがこの悲しむヨハネに次のような言葉が天上にいる一人の長老から続けて語られるのです。
3.屠られた子羊
(1)歴史の主権者イエス・キリスト
「すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」」(5節)
自分たちにも、またこの地上にいるほかの人々にも到底、実現することのできない神の計画の記された巻物を前に激しく泣きだしたヨハネ。そのヨハネにこの計画を実現することができる方が現れたと言う呼びかけが天上で神に仕える一人の長老の口から語られるのです。「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得た」。長老が語る巻物を開くことのできる方こそ、私たちのためにダビデの子孫としてこの地上に遣わされた救い主イエス・キリストであることをこの言葉には明らかに示しています。神様の計画をすべて実行に移すことが出来る方こそ私たちの主イエス・キリストです。彼は今や十字架と復活を通して勝利を受け、この世界に神の計画を実行することができる者として、つまりこの世界の歴史の主権者として登場しているのです。
(2)贖われて王、祭司とされた私たち
ヨハネはこの主イエスの姿をここでは「屠られたような子羊」の姿で目撃しています。屠られた子羊とは神殿で神のために生けにとして捧げられ、殺された羊のことを意味しています。一度は死んでしまった羊でありながら、今やその羊は歴史の主権者としてここに登場しているのです。イエス・キリストはこの言葉の通り、一度は死なれましたが、復活して天に昇り、今も生きておられる方です。そして、ヨハネの黙示録はこの屠られた子羊であるイエス・キリストと私達との関係を次のように記しています。
「あなたは、巻物を受け取り、/その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、/また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します」(9〜10節)。
イエス・キリストの十字架の贖いを通して私たちは神に仕える者とされ、また同時にこの地上を治める者とされたことがここでは教えられています。今、私たちが厳しい状況の中でも礼拝を捧げ、神に使えることができるのは、私たち自身の努力によるのではなく、この御子イエス・キリストの贖いのみ業によると黙示録は私たちに教えるのです。さらに、私たちはこの神様のために今や支配される側ではなく、地上を治める者とされていると黙示録は語るのです。なぜなら、歴史の主権者である主が私達をその支配のために用いてくださるからです。
4.天上で巻き起こる賛美
(1)残された傷跡
ヨハネの黙示録はこのように今や歴史の主権者として、これからこの世界に起ころうとするすべてのことを導かれる方が私たちの主イエス・キリストであることを教えます。このようにヨハネは今まで誰も見たことのないような栄光に輝く主イエス・キリストの姿を天上の礼拝の中で目撃したのです。そこでは神の計画の実行者であり、歴史の主権者となられたイエスに被造物のすべてが賛美を捧げ、大いなる天の礼拝が繰り広げられているのです。
このように黙示録に登場するイエス・キリストは私たちが福音書で学ぶような方としてではなく、力と栄光に満ちた勝利者として表されています。しかし、唯一つ私たちはここに登場するイエスが私たちのよく知っているイエスであるということを確認することができる印をこの方に見出すことができるのです。それが屠られた子羊に残されたその傷跡です。天上ですべての被造物に賛美を捧げられる栄光に満ちた方には、十字架にかけられたときに付けられた傷跡が私たちに分かるようにはっきりと残されているのです。このイエスの傷跡は私たちにどのような意味を教えるのでしょうか。
(2)わたしの主、わたしの神
ヨハネの福音書はイエスが復活された後、弟子たちの前に現れたときに彼がその傷跡を弟子たちに示されたことを伝えています(ヨハネ福音書20章20節)。また、そのときその現場に立ち会うことが出来ずに復活を信じることができなかった弟子の一人トマスのために主イエスが再び復活の姿を表されたときも、この傷跡をトマスに示されたと言っています(27節)。このときトマスはイエスに次のように告白したと伝えられています。「わたしの主、わたしの神よ」(28節)。このときトマスはイエスの十字架の前に逃げさることしか出来なかった自分のために、復活されたイエスを信じることのできない弱さを持った自分のために主イエスが十字架に付けられたことをこの傷跡を通して悟ったのです。だからこそこの事実を示されトマスは「わたしの主、わたしの神よ」とイエスに向かって叫ばざるを得なかったのではないでしょうか。このトマスと同じようにイエスの傷跡を見る者は誰も、イエスが私たちの弱さや醜さのすべてをよく知っていてくださった上で、私たちを愛し抜かれために十字架にかかってくださったことを悟り、「わたしの主、わたしの神よ」と叫ばざるを得なくなるのです。
このように私たちのことをよく知り、また愛してくださっている方が、この天上の礼拝を通して神の計画を実現する歴史の主権者として私たちに示されています。その事実を知るとき私たちは今起こっていること、またこれから起ころうとすることから不安や恐怖を感じる必要がないことを知らされるのではないでしょうか。私たちの主イエスがこの歴史を支配されるのならむしろ、これから起ころうとすることは私たちのためにあり、私たちを慰め、私たちを勝利させるためにあることを信じることができるのです。
ヨハネが天上で目撃した礼拝はこのように地上にあって礼拝を捧げ続けている信仰者を励まし、勇気づけるものであったと言えるのです。つまりここにはキリストを信じる者たちが激しい迫害の中でも希望を持ち続けることが出来る根拠が豊かに示されているのです。
私たちの日本キリスト改革派教会が創立60周年のために今準備している「終末の希望についての宣言」の草案の中でもこの黙示録5章の天上の礼拝を根拠に、私たちの「教会は、栄光の王国に向かって歩む希望の共同体なのです」(宣言草案・1)と宣言しています。
このようにイエスを「わたしの神、わたしの主」と呼び、礼拝を捧げる私たちは、歴史の変化の中でも揺るがされることがない希望を持つことができることをこの天上の礼拝は教えくれているのです。
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