Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
十字架の死に至るまで従順でした

2004.4.4)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章6〜11節

6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

1.佐倉惣五郎の話
(1)イエスは神に等しい方

 今週はイエス・キリストの苦難と十字架上での死を記念し、その出来事を思い起こす「受難週」に入ります。そこで、私たちもこの礼拝でパウロの記したフィリピの信徒への手紙の中からキリストの苦難と十字架上での死の意味と、その出来事と私たちとの関係について再び考えて見たいと思います。

 小さい頃、私は近くの公民館の庭である映画を見た思い出が脳裏に残っています。その映画は「佐倉惣五郎」という人物を主人公にしたものでした。惣五郎は村の庄屋であったのでしょうか、当時、領主の過酷な年貢の取立てに苦しむ村人を救おうと考えます。そのため彼は将軍に直訴してその惨状を知らせ、救いを求めたのです。ところが当時、将軍に直訴するということは硬く禁じられていた大罪でした。そこで、彼は最後に磔にされ刑場の露と消えていきます。あまりその映画のストーリは覚えていないのですが、最後に主人公が磔にされて殺されるシーンはよく覚えています。そのシーンは子どもの私にはあまりにも残酷でとても怖かったからです。

 調べてみるとどうも、この物語は史実というよりは脚色されて江戸時代の歌舞伎で演じられていた出し物だったようです。歌舞伎では主人公の惣五郎を殺した悪い領主は、死んだ惣五郎の祟りによって非業の死を遂げるのだそうです。いずれしても惣五郎は自分の命と引き換えに、村民の苦しみを救おうとしたことから後に「義民」と呼ばれ、その地方の英雄のような存在になりました。

 さて私たちが読むフィリピの手紙にはイエス・キリストの苦難と死の意味が簡単に記されています。彼もまたその地上の生涯の最後に佐倉惣五郎と同じように処刑されています。しかし、同じような死であってもイエスの死は「義民」佐倉惣五郎とは全く違うものであることをこの聖書は私たちに教えているのです。

 なぜなら惣五郎は義民と呼ばれる英雄にまで祭り上げられましたが、彼はあくまでも一人の人間にすぎませんでした。つまり、彼はこの世の権力の犠牲になって死んだだけの無力な人間でしかなかったのです。ところがこのフィリピの信徒への手紙ではイエスは「神と等しい者」(6節)、つまり神ご自身であったと語られているのです。イエスの生涯を記した福音書を読むとイエスがただの人間ではないことがよくわかります。大自然を、また人の命まで支配することのできる力を持った方がこのイエスでした。その力をイエスとともに生活していた弟子達はよく知っていたのです。つまりイエスの十字架の死は地上権力の犠牲になった一人の無力な人間の死ではないことをこの言葉ははっきりと私たちに教えているのです。

(2)イエスの十字架は失敗ではない

 霊感商法で有名になった「統一教会」という異端の教団があります。その教祖は、イエスの十字架での死は失敗であって、自分こそがその失敗を乗り越えることのできる本当の救い主だと主張していると聞いています。確かに弟子に裏切られ、最後に一人ぼっちで十字架に釘付けられて死んでいったイエスの最後の姿は、どうみても無力な人間の姿にしか見えません。このとき十字架の周りを取り囲んでいた人々はイエスに向かって「自分の力でそこから降りてみろ」という罵声を浴びせかけました。しかしイエスは神としての力を一切使われずに十字架上で死んでいかれたのです。

 ところがこの聖書のみ言葉が語るようにイエスは「神と等しい方」でした。つまり、彼はこの窮地から抜け出すことができる力を十分にもっていたことになります。そしてそれだけではなくイエスは自分の思う通りに歴史を支配する力を持っておられる方だったのです。このことを考えるとイエスの十字架での死の意味は大きく変わります。イエスは「十字架から降りられなかった失敗者」、「無力な人間」なのではありません。なぜなら、イエスは「神に等しい方」として自分を救う力を十分に持っておられたからです。ですからむしろイエスはこのとき「十字架から降りようとされなかった」と考えるべきなのです。つまりイエスが神であるという告白は、彼の十字架が弱い人間の失敗ではなく、神の偉大な計画のうちになされたことを私たちに教えていると考えることができるのです。

2.神らしさとは
(1)神らしさの現れ

 「キリストは、神の身分でありながら」。 
 ここで使われている「ありながら」という言葉はギリシャ語原語では、この新共同訳のように「譲歩」の意味として考えることができますが、同時に「理由」や「目的」を表す言葉としても用いられます。つまりこの言葉は「キリストは、神の身分であったからこそ」とこの後に続くイエスの生涯と十字架の理由と目的を説明する言葉としても読むことができるのです。フィリピの信徒への手紙はこう説明します。「…神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6後半〜8節)。ですからここに記されている内容は、キリストが神であった証拠、彼の「神らしさ」が最もよく表した出来事だとこの手紙は言っていると考えてよいのです。

 今日の福音書の朗読箇所ではイエスの十字架上での死を目撃したローマの百人隊長が「本当に、この人は正しい人だった」(ルカによる福音書23章47節)と告白し、神を賛美したことが記されています。ここで語られている「正しい人」とは「神との正しい関係にある人」と言う意味を持った言葉です。百人隊長はここでイエスを神とは告白していませんが、その十字架上の死を通してイエスの「神らしさ」を垣間見ていたと言えるのです。

 かつて、イエスの弟子の一人ペトロはイエスがこれから起ころとするご自分の受難と死を予言されたとき「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16章22節)と言って、イエスをいさめたことがありました(同16節)。このときペトロはイエスが神様から遣わされた「救い主=メシア」であることを告白したばかりだったのです。しかし、その後ですぐにペトロはイエスの言葉をさえぎって「そんなことがあってはなりません」と語りました。このペトロの行動の原因は、おそらく彼の考えていた「神らしさ」、「救い主らしさ」がイエスの言葉と大きく食い違っていたからだと思います。ペトロにとって本当の神とはその全能の御力を使って不正な者、自分に敵対する力を完全に滅ぼされる方というイメージが強かったのです。だから彼はこのイメージとは大きく異なるイエスの発言を受け入れることができなかったのです。

(2)真の神は傍観者ではない

 私の長男が幼稚園に入る年頃になったとき、私たち夫婦は息子をどの幼稚園に入学させるかで迷いました。「できればキリスト教の幼稚園に入学させたい」と言う希望だけははっきりしていましたので私たちは近所のキリスト教主義の幼稚園を探しました。あるときカトリック系の幼稚園に行ってそこの入園案内をもらってことがありました。その入園案内を読んで私が一番気になった言葉は「誰も見ていなくても、神様は見ておられます」という言葉でした。多分この幼稚園はこの精神を子供達に教えて、正しい人間を作りたいと願っているのだと思います。ただ、私の誤解なのでしょうけれども、私はこの言葉を読んであまりよい印象を持つことができませんでした。なぜならば何かこの言葉だけなら、神様はまるでいつも天国から私たちの行いを見られて、私たちがいつ失敗するか、いつ悪いことをするのかを待っておられるような方であると思えてならなかったからです。おそらくこの言葉を読んだ私がそのように感じてしまったのは、私が子供のときから教えられ、神様について抱いていた印象も大きな原因になっていたのかもしれません。神様は私たちがよいことをしていれば口をださないが、ひとたび悪事に手をそめたなら罰をあたえる厳しい方、そんな印象を神様について持っておられるかたが結構、私以外にも多いのではないでしょうか。つまり、私たち日本人が持つ神様についての考えた、「神らしさ」はこのようなイメージが強いといえるのです。

 しかし、聖書が語る神様はそのような方ではありません。真の神は私たちの人生を天の高見からご覧になられ、私たちに懲らしめだけを与える方では決してありません。むしろ進んで私たちの人生に介入し、私たちのために死をもいとわず、救いのみ業を成し遂げて下さる方なのです。

3.私の人生にとって最も大切なこと
(1)私たちに代わって死なれたキリスト

「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(7節)。
 真の神であられるイエス・キリストは私たちのために「僕の身分」となられたと聖書は語ります。この僕とは「奴隷」と言う意味を持つ言葉です。すべての者に仕えられるにふさわしい「神の身分」であられたイエスが、すべての人に仕えるべき「奴隷の身分」となられたとここでは説明されているのです。つまりイエスが人間と同じ者となり、十字架の死に至るまで従順であったのは、私たちに仕えるためであったことがこの言葉から分かるのです。

 さらにこの「僕」という言葉にはイエスの死の意味を明らかにする旧約聖書の預言を指し示す役目があるとも考えることができます。この言葉が指し示しているのは今日の礼拝の最初に読まれたイザヤ書の預言です。イザヤ書には「主の僕」と呼ばれる人物が受ける苦難と死の姿がはっきりと記されています(53章)。イザヤ書が語る「主の僕」の苦しみと死は神に罪を犯した人々のためであり、彼はそれらの人が受けるべき罰を代わって受けることで救いのみ業を成し遂げられると預言されているのです。イエスの死はこの旧約聖書イザヤ書の預言が成就した出来事なのです。イエス・キリストは私たちの罪と背きの罰を担って、人間と同じ方となり私たちのために十字架にかけられたのです。神であるキリストは確かに十字架から降りる力を持っていました。しかし、彼は神であったからこそ私たちを救うために無力な人間と同じ姿となられ十字架の上から降りることなく、私たちに代わってその苦しみと死を担われたのです。

(2)私の人生に起こったこととして

 「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(9〜11節)。
 この9〜11節の箇所を引用してイギリスの19世紀の説教家チャールズ・スポルジョンは『キリストの高挙』という題名の説教をしています。実はこのお話は「説教」と言っても、スポルジョンの通常の説教とはいささか様子が違っています。スポルジョンはこの説教の最初で「自分はいつものように説教することができない」と許しを請うことから始めているのです。この説教の最初には編集者によって短い次のような但し書きが付け加えられています。「この説教は、王立サリー公園内の《音楽堂》における惨事の後で、スポルジョンが初めて語った説教である。『この事件では、スポルジョン氏の説教中に数名の悪漢たちが故意に恐慌を引き起こしたため、七名の人命が失われた』」と。スポルジョンの伝記を調べてみると、ここに指摘されている事件は1856年に起こっています。当時、一度にたくさんの人々に福音のメッセージを伝えたいと願ったスポルジョンは完成したばかりの大劇場を借り、そこで最初の集会を行いました。ところがその集会に紛れ込んでいた何人かの人々が「火事だ」と騒ぎ出し、一万人以上の人々が集まった会場をパニックに陥れます。その大混乱の中で多数の負傷者と七名の死亡者まで出てしまったのです。スポルジョンはその出来事から間もなく、この事件からのショックから癒されないままに説教壇に立ってこのお話を語っているのです。

 スポルジョンはこの説教の中で次のようなことを語っています。「自分の人生においてたとえどんなことが起こったとしても。それよりも重要なことがあることを皆さんには知ってほしい。それは私たちの救い主イエス・キリストの人生の上に何が起こったかということである。なぜなら、その出来事こそが私たちの人生に希望と慰めと力を与えるものだからである」と彼は語るのです。そして彼はその理由をこの説教の中で続けて語って行きます。私たちはすでにこの主イエス・キリストと信仰によって一つとされているのですから、彼の人生に起こったことは私自身の人生に起こったことであると言っていいとスポルジョンは教えているのです。

 彼が語るようにイエスを信じる私たちは彼の十字架上での死を自分自身の人生の上に起こった出来事として受け取ることができるのです。そしてさらに、イエスがその死によって受けた勝利をも、私たちは今、自分の人生に与えられたものとして確信することができるのです。

 私たちの人生にも様々な出来事が起こります。しかし、私たちの人生にとって最も重要なことはこのイエス・キリストが私たちのためにしてくださった出来事なのです。フィリピの信徒の手紙が語るように確かにイエス・キリストは私たちのために僕となり、十字架の死を受けられ、私たちを罪と死の呪いから解き放ってくださっているからです。

このページのトップに戻このページのトップに戻る