1.新しいエルサレムを示されるヨハネ
先日のフレンドシップアワーで旧約聖書のコヘレトの言葉に登場する次のような箇所を学びました。
「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ」(7章1〜2節)。
葬儀に参加するのが好きだという人はあまりおられないと思います。むしろできれば結婚式のような楽しい交わりに参加したいと思うのが多くの人の持つ気持ちです。ところがコヘレト(「会衆の前に立って語る者」の意)は私たちに「弔いの家」、つまり葬儀に出席することはとてもよいことだと薦めているのです。なぜなら「そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ」と教えるからです。葬儀に出席することは私たちも自分が死を迎えなければならない存在であることを思い起こす機会になるからよいのだと言っているのです。
人は普段は自分が死ぬべき存在であることを忘れてしまう傾向があります。忘れてはいなくても自分の死は遥か彼方にあると思い込んでしまっているところがあるのです。しかし、この思い込みが私たちの人生にいろいろな混乱を与えている原因になっているのです。その混乱が与える一番深刻な問題は「今の自分にとって何が一番大切なことか」が分からなくなってしまうことです。もし私たちの命があとわずかだと知らされるなら、私たちは残された命の時間の中で自分すべき最も大切なことを選択して、それを実行しようとするのではないでしょうか。コヘレトの言葉はそのことを私たちに教えていると言えるのです。ですから弔いの家に行くことは、自分の命の日々の大切さを再認識するためにもっともよい機会であると言えるのです。
ルターの言葉に「死は人生の終わりではなく、人生の完成である」とものがあるそうですが。そのような意味で私たちは人生の完成図を思い浮かべながら、今日一日の歩みをすることが大切なことだと言えるのです。ところで私たちが読んでいるヨハネの黙示録は全人類、あるいは全宇宙の終結、つまり完成図を私たちに語っている書物だと言うことができます。そしてこの書物はこの完成図を私たちに示すことで「今の私たちに何が一番大切なのか」を教えていると言ってよいのです。今日はこの神様によって示された完成図から、今を生きる私たちに関係する描写を追って、その意味を考えてみようと思います。
2.信仰を第一としていい理由
(1)天からのエルサレムは私たちの集められるところ
「この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた」(10節)。
黙示録はこの前の17〜18章で「大淫婦、大バビロン」という呼び名を使ってキリスト教徒を迫害し、苦しめているローマ帝国の崩壊を描いています。そしてその後、神の創られる「新天新地」の姿を読者に示しながら、その最後の完成として天から「新しいエルサレム」が下ってくる姿を描き出しているのです。
「都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(11〜14節)。
ここにはさまざまな数字が記されていますが。読んでお分かりのようにすべての数が「十二」と関係しています。十二の天使、十二の部族、十二の使徒、そして都の門もすべてを足せばちょうど十二になります。すべては聖書が用いる「完全数」で数えられ、「完璧」、「申し分がない」という意味がここには示されています。これは以前学んだ箇所の十四万四千人(7章)と同じように、イエス・キリストによって救われた人々の集められるところが、この「新しいエルサレム」であることが表しています。そして読者に、「あなたたちはこのゴールに向かって今、歩んでいる」と教えているのです。
(2)完成図の違いから生まれる、異なる優先順位
私がわずかな社会人生活を送ったときの思い出です。ある日、ウイークデーに行われる教会の集会に参加したいために、私は会社の上司に休暇届けを出したことがありました。そのときその上司は私に「お前のことを食べさせているのは会社であって、教会ではない。会社の都合をまず優先させろ」と説教されたことがありました。おそらく、皆さんもこのような経験をたくさんお持ちであると思います。このようなとき、信仰を持っていない人と話しをしても最後まで平行線で、私たちの考えが少しも理解してもらえないことが多いものです。それはどうしてなのでしょうか。おそらく、その人たちと私たちとの人生の完成図がまったく違っているからであると思います。だからこそ、そこで選択される優先順位が違ってしまうのです。
ヨハネの黙示録の読者たちは、信仰のためにたいへんな問題にぶつかっていました。その信仰のために命を失う人も多くいたのです。「ローマ皇帝とキリストとどちらが大切なのか」。「社会の慣習と神の掟のどちらが大切なのか」。そのような厳しい選択を迫られている人々にこの黙示録は全宇宙の完成の姿を示します。そしてこの完成図から「あなたたちが今選び取ろうとしていることは間違いがない」と励まし、信仰を守り抜こうとしている人々に力を与えているのです。私たちのゴールはマイホームでも、公園墓地でもありません。このすばらしい新しいエルサレムが私たちを待っているのです。
3.戦いの中で生きる人々に希望を与える知らせ
(1)神の戦いの勝利と永遠の平和を示す都
「わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである」(15〜17節)。
ここには新しいエルサレムの都の寸法が記されています。その都は「長さも幅も高さも同じ」ですから、ちょうど立方体の形をしていることが分かります。「一万二千スタディオン」とは現代の寸法でいうと「二千二百二十キロメートル」になります。ついでに「百四十四ペキス」は「六十五メートル」になります。この都の寸法を計算しながら、ある聖書注解者はこの都の高さから比べるとその城壁は決して「高い」ものではなく、むしろ低すぎると解説しています。そして城壁の低さの理由を、もはや神様によってすべての敵が滅ぼされてしまった以上、高い城壁を作る意味がなくなっているからだと説明しているのです。つまり、この都の寸法は読者に神の戦いの勝利と、その勝利がもたらす永遠の平和を示していると考えることができます。それではこの神殿の姿が、今、「終わることのないような激しい戦い」の中に生きている人々に語られているのはどのような理由があるのでしょうか。
(2)戦う者へ希望を与える
先日、テレビで大変面白い外国映画を見ました。第二次大戦中にナチス・ドイツに迫害されるユダヤ人たちの映画です。ポーランドのあるユダヤ人ゲットーに暮らす人々はドイツ兵に何もかも奪われ、毎日激しい強制労働を強いられて生活していました。少しでも不平を言い、抵抗をすれば彼らはすぐその場で殺されてしまいます。そうでなくても彼らはやがては強制収容所に送られて殺される運命を背負っていました。生きる希望をまったく失ってしまった人々がこの映画の最初に登場します。ところがこの映画の主人公はある日、自分の仲間に「自分はひそかにラジオを隠し持っていて、BBC放送を聞いている。その放送によればこの町のすぐそばまでソ連軍が迫って着ていて、もうすぐ自分たちは解放されるのだ」と言ううそをつく羽目になってしまったのです。そして彼が一人の仲間に語ったこの話が、あっという間に町中の人々に広がってしまうのです。しかし、彼の語ったこのうそから町の人々の姿は一変していきます。まず、その町から希望を失って自殺を選ぶ人々がいなくなってしまいます。そしてついには毎日を自暴自棄に生きていた人々が組織を作り、ドイツ軍に抵抗しようと考え始めるのです。
この映画の主人公はやがてドイツ兵に逮捕され、彼が言っていたことがうそであることを告白しろと迫られます。しかし彼はそれを最後まで拒否して殺されてしまうのです。ところが、この映画の最後では、町の人々が強制収容所に送られるために乗せられた貨車がソ連軍の戦車部隊に止められて、彼らが解放されるところで終わります。主人公の語ったことが現実に変わるのです。
希望を失ってしまう人々からは生きる力が奪われてしまいます。そして逆に希望は人々に生きる力を与えるのです。ヨハネの黙示録は神の示される真実、やがて私たちに与えられる完全な勝利と永遠の平和を描いています。そして、その希望が激しい戦いの中で、今にも倒れそうになる人々を励まし続け、また力を与えるものとなったのです。
4.神殿がない=イエス・キリストが神殿
(1)犠牲はもう必要ない
「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」(22節)。
かつてエルサレムの町には大きな神殿が建てられていました。現在「嘆きの壁」と呼ばれてユダヤ人たちの祈りの場とされている場所はこのエルサレム神殿の一部だと考えられています。このエルサレム神殿では昔、祭司たちによってたくさんの動物犠牲が捧げられ続けてきました。なぜなら罪と汚れを持つ私たち人間はそのままの姿ではまことの神にお会いすることも、礼拝することも許されていないからです。つまり、この神殿は神を礼拝しようとする人間には無くてはならない大切な場所であったち言えるのです。
しかし、ヨハネの見た新しいエルサレムにはこの神殿がありませんでした。そしてそのことが「主と小羊とが都の神殿だからである」と説明されているのです。これは救い主イエス・キリストの十字架の贖いの結果を最終的な形で描き出したものと考えることができます。キリストの贖いによって私たちの罪と汚れは完全に清められました。そのためにもはや私たちにとって動物犠牲を捧げるべき神殿は必要がなくなってしまったのです。キリストを通して神様に会うことができ、神様を礼拝することができるからです。そのことをこのヨハネの見た幻は私たちに教えているのです。
(2)私たちの礼拝も同じ
イエスはかつてサマリアというところに住んでいた一人の婦人の「私たちが礼拝を捧げることのできる場所はどこですか」という質問に次のように答えました。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」。(ヨハネによる福音書4章23節)。
この言葉は救い主イエスご自身が私たちの神殿となってくださるので、私たちはどこででも神様を礼拝することができることを教えています。私たちが今このように、エルサレムの神殿に行かなくても神様を礼拝することができるのは、このイエスが私たちの神殿となってくださるからなのです。ですから私たちが今、この礼拝で経験している恵みは、ヨハネの目撃した新しいエルサレムと同じことでだと言うことが分かります。つまり、私たちの捧げる礼拝はこの新しいエルサレムの祝福を先取りするような出来事なのです。このように激しい戦いの中で礼拝を守る人々にヨハネは「今、あなたたちは新しいエルサレムの姿を先取りして体験している」と教え、私たちの礼拝が新しいエルサレムの中心となる主イエス・キリストの力で今も支えられていることを教えているのです。
5.子羊が都の明かり
「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(23節)。
童謡のフレーズに「絵にも書けない美しさ」という言葉がありますが、ヨハネはここで神の栄光と子羊イエスのもたらす光のすばらしさのために、「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない」と語ります。
私はこのみ言葉からだいぶ前にクリスチャン新聞で読んだ中国のカトリック教会の司教の証しを思い出します。中国は今でも共産党政権の支配下にあります。今はさまざまな自由が許されては来ていますが、思想や信教の自由にはまださまざまな制約がつけられていると言います。キリスト教会も国の政策に進んで協力する「国家公認教会」とそうでない「地下教会」に分かれているのだそうです。この司教も「共産党か主イエスか」という選択に迫られ、主イエスを選び取ることによって長い間、投獄され自由を奪われた人物でした。その司教が獄中の中でいつも自分を励まし、支えたみ言葉は旧約聖書のミカ書7章8節だと語っていたのです。
「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」。
この方がどのような獄中での生活をされたのか詳しくは分かりません。もしかすると「闇の中に座る」ような体験を長い間、されてきたのかもしれません。しかし、それでも彼が希望を失うことが無かった理由は、「主こそわが光」となられるからだと言うのです。
黙示録は私たちに同じような慰めと力を語ります。私たちの人生にたとえ「闇の力」が襲って来ても、主が光となってくださる、主ご自身が私たちの希望となってくださると教えているのです。そしてこの希望はひと時の気休めではなく、私たちの救いの完成された姿「新しいエルサレム」を通して今、はっきりと示されているとヨハネの黙示録は私たちに教えているのです。
【祈祷】
天の父なる神様
天から下ってきた新しいエルサレムの姿を目撃したヨハネと同じように、私たちにも私たちの救いの完成された姿をいつも覚えることができるようにさせてください。私たちもこの信仰生活の中でさまざまな困難に出会い、重要な選択に迫られ、勇気と力を必要としています。どうか私たちにあなたにある勝利と平和を確信させ、私たちを希望で満たしてください。特にこの礼拝の中で、私たちがイエス・キリストの恵みを深く覚えることができるようにしてください。
私たちを照らすまことの光であられる主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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