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礼拝説教 桜井良一牧師
「命の水の泉へ導く」

2004.5.2)

聖書箇所:ヨハネの黙示録7章9〜17節
9 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、
10 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」
11 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、
12 こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」
13 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」
14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。
16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。
17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」

1.殉教者とはどのような人か
(1)居間に飾られた「獄中聖徒」の写真

 私が始めて韓国に行ったのは神学校を卒業する直前のことでした。初めての外国旅行、そして初めて飛行機に乗るという初めてづくしの少し緊張する旅でしたが、当時、神学校で一緒に学んでいた韓国の牧師たちが私たちをいろいろなところに案内してくださり、とても楽しい思い出が残っています。その韓国の牧師の中で、年齢は私の父と同じくらいの方でしたが、やはり神学校で一緒に生活をしていた先生がいました。私は神学校在学中この先生にいろいろと励まされ、教えられることがたくさんあって今でもとても尊敬しています。実は私が韓国語を勉強して、韓国語の本が少し読めようになったのは、「この先生の書いた本を読んでみたい」という思いを私が抱いたからでした。

 この韓国旅行の際、その先生は私たち神学生を自分の奉仕している教会に招待してくださいました。そのとき私は牧師館の居間で何人もの人の顔写真が並べられている一枚の掛け軸を発見しました。今まで一度も見たことのない人たちの顔写真でした。私が疑問に思って、「先生、この写真に写っている人たちはどのような方たちですか」と尋ねると、先生は「この人たちはみな、戦争中に信仰を守って牢屋に入れられて、獄死した殉教者たちです」と教えてくださったのです。ご存知のように韓国は第二次世界大戦の前、独立を奪われ、日本の支配下にありました。日本政府はその支配を維持するために、韓国の人々をさまざまな形で弾圧したのです。その中のひとつとして神社参拝を拒否し、天皇への忠誠を表さないキリスト教徒たちが迫害され、牢獄に入れられるという事件が起こりました。その写真の人々はそのときに自分の信仰を貫いて、牢屋の中で死んでいった「獄中聖徒」たちの写真だったのです。先生はその写真を私たちに説明しながら「私もこの人たちのように、イエス様のために死ねたら幸せだと思っている」と言われたことを思い出します。

(2)キリストの福音を証しし続ける生き方

 今日も先週の礼拝に引き続いてヨハネの黙示録を学びます。私たちがこの礼拝で前回学びましたように、この書物を記した伝道者ヨハネも、この書物を受け取った教会の人々も同じようにローマ帝国の迫害の中にありました。ヨハネの周りにも信仰のゆえに命まで失っていく人たちがたくさん存在していたのです。そのため、この書物はそのような迫害の中にある信者たちを慰め、励まして、彼らが信仰のための戦いを貫くことができるようにと記されたものと考えることができます。

 私たちは「殉教者」と聞くと何か、遠い昔の人々のことを連想してしまいますが。わずか50年ほど前にも私たちの身近なところで信仰を守って死んでいった人々がいることを私はこのときの韓国訪問で知ることができました。ただ、私たちは「殉教者」という存在を考えるとき、どちらかと言うと彼らの「劇的な死に方」だけを連想してしまう傾向があります。しかし「殉教者」という言葉が意味するものの大切な部分はその「死に方」にあるのではなく、もっと他のところにあるように思えるのです。そもそも「殉教者」とはその生き方を通してイエス・キリストの福音を死ぬまで証した人々のことだと言うことができます。ですから、この場合はむしろ死ぬことではなく、その人の生き方全体を通してどのようにキリストの福音が証しされていたかが大切になってくるのです。キリストの福音を証しする人生、そのような意味で「殉教者」たちのことを考えることができるなら、彼らの存在は私たちにももっと身近なものとなります。また、私たち自身もこの殉教者たちの生き方を手本として学ぶことができるのではないでしょうか。

2.天使によって刻印を受ける人々
(1)封印が解かれるたびに巻き起こる災い

 先日読んだ箇所に登場する、神様の右の手に置かれていた七つの封印で封じられていた巻物(5章1節)。その巻物はこれからこの世界に起こる神様の計画が書き記されたものであることを私たちは学びました。さらにこの5章ではこの巻物を開く資格を持つ、「屠られた子羊」である私たちの主イエス・キリストが登場し、全被造物の賛美を受けています。そして、次の6章ではいよいよ「屠られた子羊」イエスによってこの巻物の七つの封印がひとつずつ解かれていきます。イエスがこの封印を一つずつ解いていくごとに、地上にはさまざまな災いがもたらされます。それは神に背を向け、またその神の教会を迫害する世界への神様の裁きであり、神様がこれから作られようとする新天新地に至るための大切な過程でもありました。

 この6章の最後ではイエスが第六の封印を解くと、宇宙的な規模での天変地異が起こることが記されています(12〜17節)。そしてこの箇所の最後は、この出来事を受け継いで「だれがそれに耐えられるであろうか」(17節)という問いのような言葉で終わっています。到底、誰も耐えることができないような危機がイエスによって第六の封印が解かれるとともに起こるのです。しかし、今日の7章の内容を見ると、この恐るべき出来事はすぐに起こるのではないことがわかります。ここでは神に選ばれた人たちの額に天使によって刻印が押されるまで、その災いが猶予されると教えられているのです。そこで、今日はここに登場する天子によって額に刻印を押される人たちとはどのような人たちなのかについて聖書を読んで考えてみたいのです。

(2)四方に立つ天子によって災いから守られる

 「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」(1〜3節)

 この聖書が記された当時の人々は地球が丸いという事実を知ってはいませんでした。ですからこの黙示録の記事から推測できるように、彼らはどうやらこの世界が真四角な正方形のような形でできていると信じていたようです。聖書学者たちの見解によれば、当時、この世界の四隅から吹いてくる風は人々に災いをもたらす、恐ろしい出来事を象徴するものだと考えられていたようです。そこでヨハネはこの世界の四隅に四人の天使が立って、その恐ろしい風をしっかりと押さえこんで、地上への災いを防いでいる姿を幻の中で見たのです。天使たちが風を押さえ込んでいるために世界はかろうじて滅びを免れているのです。四人の天使がそのように地上に災いが襲うのを防いでいた理由は、東からやってくるもう一人の天使の活動を助けるためでした。そのもう一人の天使は地上の聖徒たちの額に刻印をつけるためにやって来たのです。

3.神の救いから洩れる人はいない
(1)「十四万四千人」の人々

「わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた」(4節)。

 ここにはエホバの証人の話を聞いたことのある人には大変に馴染みのある「十四万四千人」という数が登場しています。エホバの証人もそうなのですが、聖書のここの数字から文字通り解釈して、終末の激しい裁きを耐えることができる人たちの数、つまり、神の救いを受けることのできる人の数は最初から限定されていると考える人がいます。しかし、その解釈はある意味で聖書が用いる数字の意味を無視した乱暴な考え方だと言うことができるのです。

 この7章の記事を読むとこの「十四万四千人」の数の意味が明らかにされています。そこではイスラエルの十二部族の各部族ごとに「一万二千人」の人々が選ばれ、天使に刻印を押されています。その上で彼らの数を合計すると「十四万四千人」となると言われているのです(4〜8節)。

 ですから「十四万四千人」という数を分解すると、一万二千人を十二でかけた数になっていることがわかります。皆さんもご存知のように聖書ではこの十二という数がたびたび登場します。十二部族や十二使徒と言ったようにです。聖書ではこの十二という数は特別な意味を持ち、「完全数」といって、「パーフェクト」とか「申し分がない完璧なもの」という象徴的な意味を持った数として使われているのです。ここでは十二を十二でかけていますからその完璧さはさらに強調されていることになります。

 それではここに登場する「十四万四千人」という数は、その何が完璧だと聖書は教えているのでしょうか。それを解く鍵はこの章の前の6章10〜11節に登場する殉教者たちの叫びと、神様の彼らへの答えと深く関係してくると言えるのです。6章で白い着物を着せられる人々、つまり信仰のゆえに迫害を受けた殉教者たちは「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」と問うています。そして神様の彼らの質問への答えが次のように記されているのです。「すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた」。この箇所の言葉から考えるとき「十四万四千人」はこの「仲間の僕である者たちの数が満ち」たこと、つまり神の救いにあずかる人々が一人も洩れることなく集められたということを意味していると考えることができるのです。

(2)神に守られて信仰を貫いた人々

 だからこそ、この白い衣を着た人々、つまり天使に刻印を押された人の数が7章の後半では次のように数えなおされているのです。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って…」(9〜10節)。ここでは白い衣を着た人の数が「数え切れないほどの大群衆」という言葉で表現されています。おそらくこの7章の前半と後半に登場する二つの人々の群れは同じ人々のことを語っていると考えることができるのです。神の救いにあずかることのできた無数の信仰者の群れ、しかも神はその救いに選ばれた人々が一人も洩れることがないようにしてくださることが「十四万四千人」という言葉で説明されていると言ってよいのです。ここで神はこの数が完全に満たされるまで、この地上への厳しい裁きを猶予しておられると教えているのです。

4.この人たちは誰か
(1)あなたの方がご存じです

 先週の箇所でもヨハネが天使の質問の答えに窮して激しく泣き出した場面がありました。実は今日の箇所でも同じように天上で神に仕える一人の長老からヨハネが質問を受けて、それにヨハネが答える場面が登場しています。

 「すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(13〜14節)。

 長老の「白い着物を着た者たちは誰で、どこからきたのか」という質問に、ヨハネは「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えています。かつて、復活された主イエスはガリラヤ湖で漁をする弟子のペトロたちのところに現れてペトロに「私を愛しているか」と三度質問されたことがありました。十字架の出来事の以前でしたら「イエスのためならどこにでも、命まで捨てる決意を持っている」と豪語したペトロでしたが、イエスの十字架の出来事から逃亡し、イエスを三度も「知らない」と言ってしまった経験を味わったこのときの彼はイエスに「主よあなたは何もかもご存知です」と答えざるを得ませんでした(ヨハネ福音書21章15〜17節)。ペトロはもはやイエスに従って生きるためには、自分の力を頼ることができないことをよく知っていました。しかし、彼はそれ以上に十字架の主と出会って、主イエスがその彼の弱さを十分知った上で、もう一度自分を弟子として召し出し、自分を用いてくださろうとしていることを知っていたのです。ですからペトロが今できるのは、自分のことをすべて知っておられる方、主イエスに自分を委ねることだけだったのです。この答えはペトロのそのような気持ちを表現しています。

(2)あなたもその中にいる

 おそらく、ヨハネもこのときのペトロと同じような立場に立たされていたのではないでしょうか。地上で巻き起こっているローマ帝国の激しい迫害の中で、彼は信仰者たちを励ます使命をゆだねられていました。しかし、彼は自分の力を見つめるとき到底、「自分も白い衣を着ることができる」と胸をはって言うことができなかったのです。ヨハネだけではなく、神様のこの質問の前では「自分は最後まで勇敢に信仰の戦いを戦い抜くことができる」と言える人は一人もいないのです。だからヨハネは「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」としか言うことができなかったのです。

 しかし、そのヨハネに長老は答えています。

「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

 彼らの衣が白いのは子羊の血によって洗われたからなのです。言葉を変えて言えば、彼らが生涯を通して信仰を全うすることができたのは主イエスが十字架上で流された贖いの血のおかげだとこの言葉は教えているのです。誰も自分の力で信仰を全うすることができる人はいません。ただキリストの贖いの恵みこそが彼らをそのように生かすことができたのです。そしてこの言葉は「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」としか答えることのできなかったヨハネに次のような意味を持って語られているのと考えてよいのです。「ヨハネ、あの白い衣を着ている人たちの中にはあなたも確かに含まれている。そしてあなたがゆだねられている教会の人々もその中に入っているのだ。なぜならあなたも彼らも主イエスの十字架の贖いの恵みのゆえに信仰を全うすることができるからだ」。

 黙示録を読む読者にこのメッセージは同じように語りかけています。主イエスを信じ、その贖いのみ業によって救われた人はこの白い衣を着た人々の中に必ず入れられることができると黙示録は教えます。なぜなら私たちが生涯を通して主イエスの福音を証しできるのは、私たちを十字架の贖いをもって救い出してくださった主イエスの恵みのゆえであり、その主が聖霊を遣わして私たちを導いてくださるからなのです。このような意味で黙示録は今も問題や迫害の中に生きる信仰者を励まし続けていると言う事ができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
主イエス・キリストによって巻物の封印が解かれすでに始められた終末のときの中で生きる私たちに、今日もみ言葉を通して慰めを与えてくださりありがとうございます。あなたはその選ばれた聖徒の数が一人も洩れることなく満たされるまで、その裁きを猶予してくださっています。そのため私たちは今、このときを主イエスの福音を証しするために用いることができることを感謝いたします。私たちがあなたの福音を証しして生きた聖徒たちのように生きることができるように聖霊を遣わして私たちを導いてください。あなたは私たちの何もかもご存知の上で、信仰を与え、今、あなたに従う者としてくださいました。どうか私たちがそのあなたの十字架の贖いのゆえに聖徒の群れに加えられていることを確信することができるようにしてください。特に信仰のゆえにさまざまな困難を持って生きている兄弟姉妹の上に、あなたが特に働いてくださり慰めと力、そして喜びを与えてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

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