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礼拝説教 桜井良一牧師
「聖霊による洗礼」

2004.5.23)

聖書箇所:使徒言行録1章1〜11節
1 -2 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

1. イエスの昇天の意味
(1)昇天と召天

 今日は教会暦では「主の昇天」と呼ばれる日です。私のコンピューターの文字変換で「ショウテン」と打ちますと必ず最初には「商店」という文字が現れます。「昇天」はあまり普通の社会生活では用いられていない文字なのかもしれません。

 以前、私たち牧師の会議の報告書にある牧師の死を知らせる項目がありました。そこにこの「昇天」と言う文字が書かれていました。質問者が「「昇天」というのはイエス様が天に昇られたときにだけ使う言葉で、このような場合は「召天」と書くのではないか」とその誤りを指摘していたことを思い出します。私たちクリスチャンが死を迎える際には、神様に呼ばれて、神様の身元に行くのですから「召天」と呼ばなくてはなりません。しかし、イエスの昇天は文字通り、弟子たちの目の前から復活した肉体を持って天に昇られたのですから、私たちの「召天」の場合とは大きく異なるわけです。しかし、この二つの出来事はまったく関係の無いことではないことが、この礼拝で毎週交読しているハイデルベルク信仰問答書には記されています。

(2)私たちをとりなすために

 この問答書の問49には「キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらすか」という問いに対して、三つの益を教えています。第一にイエスは天に昇られることで、そこで私たちのためにとりなしをしてくださっているということです。私たちの祈りが確かに天の父なる神様に届けられること、またその祈りに「アーメン」=「確かです」と唱えることができるのは、このイエスが天におられ私たちのためにとりなしをしてくださっているからなのです。私たちは祈るときにときどき「この私の祈りなど神様は聞いてくださらないのではないか?」と思ってしまうことがあります。それはある意味で当然のことだと思います。なぜなら、私たちは神様に自分の願いを聞いていただけるような人間ではないからです。神様のみ名とその栄光を汚すようなことを私たちは毎日のように行ってしまいます。そんな私たちが神様に何かをお願いできるとしたら、それはとても都合のよいことになってしまうでしょう。しかし、この問答書はそんな私たちの祈りが神様に必ず聞いていただける根拠は私たちとは別のところにあると教えているのです。それは天で主イエスが私たちのためにとりなしてくださるからです。そしてその場合、イエスが示されるとりなしの根拠は、イエスご自身がなしてくださった十字架の死に至るまでの従順の業なのです。ですから、私たちの祈りは天において、あたかも神の御子イエスが父なる神にお願いしているような形で聞き届けられることができると信じることができるのです。

(3)私たちの召天の保証

 昇天の第二の益はまさしく私たちの「召天」とイエスの「昇天」との深い関係を語っています。信仰によって私たちはイエスとひとつの体にされています。その体の頭の部分であるイエスが天に昇られたということは、私たちの体の一部がすでに天にあるということであり、私たちもまた必ずそこに「引き上げられる」、つまり「召天」できる証拠だと信仰問答は教えているのです。これも本当にすばらしいことです。私たちが地上の旅路を終えて、神様の身元に行き着くことのできる根拠はイエスが天に昇られたときに確定されていると教えているからです。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(ヨハネによる福音書4章2節)。

 私は来年度の中会信徒修養会の委員に選ばれていますが、この委員の仕事で最も重要なのは修養会に集まる人たちを迎え入れる施設を確保するということです。せっかく、会場に行ったのに宿泊する所が無かったとなれば大変なことです。私たちの主は私たちが困ることのないように私たちの先に天に昇り、私たちのための場所を確保してくださると約束してくださっているのです。だからこそ私たちは心配することなく、この信仰の旅路を最後まで全うすることができるのです。

(4)私たちに聖霊を遣わすために

 さて信仰問答が教える昇天についての第三の益は今日の箇所とも深いつながりをもつものだということできます。なぜなら、キリストは天に昇られることで私たちに聖霊を送ってくださるからだと教えているからです。信仰問答ではこの第三の益を先ほどの第二の益と関係付けて解説し、私たちが天に引き上げられる保証のしるしとして聖霊を遣わしてくださるとも教えています。つまり、私たちが必ずイエス・キリストの待っておられるところにいけるのは私たちの信仰生活をこの聖霊なる神が導いてくださるからなのです。私たちがイエスを信じ、イエスと共にこの地上の生涯を歩むことができるのは、私たちが強い信念の持ち主で、何事にも動じない精神力があるからではありません。むしろ、私たちは小さなことでも心を騒がし、明日、自分がどうなってしまうかもわからない頼りのない者なのです。しかし、そのような私たちが必ずイエスの待つところに行けるのは、聖霊が私たちに遣わされて、私たちを固く守り、導いてくださるからなのです。これもまたすばらしい恵みです。このようにキリストは私たちにこのすばらしい恵みを与えてくださるために天に昇っていかれたとハイデルベルク信仰問答は私たちに教えているのです。

2.聖霊による洗礼によってイエスの弟子となる

 さて今日の使徒言行録の箇所ではイエスの昇天の前に彼と弟子たちの交わした会話が記されています。イエスはまずここで自分の昇天の後に弟子たちが遂行すべき任務と約束を語っています。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(4〜5節)。

 イエスはここで弟子たちがエルサレムに止まるべきこと、そうすれば約束の通り彼らは「聖霊による洗礼」を受けることができると教えています。福音書によればイエスの弟子たちの何人かはかつてバプテスマのヨハネと呼ばれる人物の弟子たちでした(ヨハネ1章35〜42節)。彼らはこのヨハネの弟子となるときに彼の施した洗礼を受けていたはずです。またイエスご自身もこのヨハネの洗礼を受けられたことは有名です。おそらくその他の弟子たちもこのヨハネの洗礼を受けていたかもしれません。バプテスマのヨハネの使命はキリストの到来を準備し、人々にその備えをさせることでした。ですからイエスの弟子たちはこのヨハネによってキリストに導かれたと言ってもよいかもしれません。

 しかし、イエスはこれから弟子たちが「聖霊による洗礼」を受けると教えます。それは彼らが本当のイエスの弟子になるということを意味していました。福音書を読むとイエスの弟子たちが、イエスに従いたいと願いながらも、イエスが十字架に掛けられるという出来事を前に逃亡してしまった出来事が記されています。彼らは心ではイエスにどこまでも従いたいと願っていました。しかし、彼らはそれができなかったのです。バプテスマのヨハネの与える洗礼にはイエスに従うことのできる力はありませんでした。しかし、今、イエスが弟子たちに与えようとする聖霊による洗礼はその弟子たちをご自身に従わせる力を与えることができ、彼らを本当のイエスの弟子にすることができるのです。

 私たちもまたイエスを信じる決心をしたときに、教会で洗礼を受けます。それは目でみるなら自分の頭に水が注がれる、まさに「水で洗礼を授け」られるように見えます。しかし、それが水の洗礼に止まらず、聖霊による洗礼を受けることにもつながると私たちが確信できるのは、イエスが天に昇られて、私たちに聖霊を送ってくださると約束してくださるからなのです。私たちはこの洗礼によって確かにイエスの弟子として生きることができるようにされていると考えてよいのです。

3.時と時期を決められるのは神ご自身
(1)まことのイスラエルの回復とは

 このイエスの指示と約束の言葉を聞いた弟子たちは次のような質問をイエスに返しています。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(6節)。

 ここで「立て直す」と訳されている言葉は「元通りにする」とも読むことができる言葉です。「イスラエルを元通りにする」。それがこのときの弟子たちの願いであったことが分かります。おそらく弟子たちは、今はローマ帝国の植民地にされている自分たちの国が、かつてのダビデ王やソロモン王が統治した時代のように独立と繁栄を取り戻すことができることを期待していたのだと思います。イエスはこの弟子たちの質問に次のように答えています。

 「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(7〜8節)。

 ここには先ほどの弟子たちの質問を遥かに凌駕するイエスの答えが語られています。私たちは最後にイエスのこの答えの意味を確認して、イエスの昇天の事実を覚えたいのです。

 第一にイエスが元通りにしようとされるイスラエルとは世界地図で示されるあの小さなイスラエルの地域に限定されるものではないという事実です。イエスは「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」と語られています。この言葉から考えるとイエスが元通りにされるまことのイスラエルは全世界を意味していることが分かります。全世界が神との関係を回復して、神の国になること、神の創造された世界を回復され、完成させるためにイエスは今天に昇り、聖霊を私たちに遣わそうとされているのです。

(2)イエスの証人として生きる

 第二にこのイスラエルは「私たちが証人」となって生きることによって回復されると教えられています。おそらくこのときの弟子たちはイエスがローマ帝国の軍事力を打ち破るような力を持ってこの地上のイスラエルの国を回復してくださると考えていたのでしょう。しかし、神の全世界を視野に入れたイスラエルの回復は武力や、それに対抗できるような力で立てられるものではありません。キリストを信じ、キリストと共に生きる私たちクリスチャンひとりひとりが「イエスの証人」となって生きることでこの国は回復されていくのです。

 私たちの教会の最も尊敬する教師ジャン・カルヴァンの墓は不思議なことに、どこにあるのかいまだにはっきりしていません。彼の残した著作や説教は今でもたくさんの人々に愛され、読み告がれていますが、彼の墓はどこにあるのか分からないのです。これはカルヴァンが「キリストの証人」として生き抜いたことを強く表しているように思えます。彼が伝えたかったは「救い主イエス・キリスト」であって自分自身ではありませんでした。私たちは私たちの立派さや優秀さを示すために生かされているのではありません。どこにあっても罪人である私たちを救ってくださる救い主イエス・キリストを証するために生かされているのです。そして、その私たちの証しを通して神の国が回復されることをイエスはここで教えているのです。

(3)今日一日を精一杯生きる

 最後に前後しますが、イエスが「時や時期は、あなたがたの知るところではない」と語られたことを考えて見ましょう。ここには私たちに託されている使命の限界が示されています。私たちは案外、結論を先取りして物事を考えてしまうことがあります。もちろん、私たちは自分に委ねられた使命を遂行するために、万全の準備と努力をする必要もあるでしょう。しかし、私たちはいつの間にか自分に委ねられた範囲を超えて考え込み、失敗してしまうことが多いのではないでしょうか。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6章34節)。

 イエスはこのように山上の説教の中で教えています。私たちが明日を思い悩んではいけなのは、明日はまだ私たちのものにはなっていない、神様の支配の範囲だからです。同じようにイエスの証人として召された私たちは毎日、自分の人生を通してイエスを証しする生活を続ければよいのです。その結果がどのようになるのかを心配して、思い悩むのではなく、私たちを導いてくださる聖霊に信頼して歩んでいくことが大切なのです。

 昔、イタリアにアッシジのフランシスコという有名なクリスチャンがいました。裕福な家庭の出身者でしたが、キリストに従う決心をし、貧しい生活の中でキリストの福音を語り続けました。そのフランシスコがある日、農民の畑で畑仕事を手伝っていたときのことです。彼の名声を遠くの国で聞いてやってきた旅人が畑仕事に精を出しているフランシスコを発見して、次のように尋ねたのです。「もし、明日、主イエスが再臨されるとしたら。あなたはどうしますか?」。旅人はおそらく有名なクリスチャンのフランシスコが農民と同じように畑仕事に一生懸命励んでいるのを見て、「フランシスコともあろうものが…」とあきれていたのかもしれません。フランシスコはその問いに少しだけ手を休めて考え込みましたが、すぐに「それでも私はこの仕事を続けます」と答えて、畑仕事に戻って行ったと言うのです。

キリストが天に昇って行かれたときに、その天を見つけていた弟子たちに天使は次のように語りました。

 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(11節)。

 キリストは天に昇られたと同じように再び私たちのところにおいでになられます。私たちはこのすばらしい希望を抱いて今日の日を送ることができるのです。そして私たちは今日一日キリストの証人として精一杯生きるのです。イエスはそのような私たちを聖霊によって導き、この地上に神の国が回復されるように用いてくださるのです。イエスはこのことをすべて可能にするために天に昇って行かれたのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちのために天に昇られた主イエスのみ業に感謝いたします。天におられるイエスは私たちのためにとりなしをしてくださり、私たちをやがて身元に引き上げるために、聖霊を私たちに遣わして私たちの信仰の歩みを守り導いてくださいます。
どうか私たちもこの聖霊の力によって、イエスが私たちのような罪人を救い出すためにやってきてくださった方であることを証ししていくことができるようにしてください。神の御国の回復とキリストの再臨を待ち望みつつ、私たちが委ねられた業を成し遂げることができるように導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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