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礼拝説教 桜井良一牧師
「キリストを着る」

2004.6.27)

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙3章26〜29節
26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、
男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

1.見つけ出されて重大な欠陥
(1)命を奪う欠陥

 先日、私の家に車のディーラーから「リコールのお知らせ」という葉書が届きました。どうやら私の車と同機種の車の部品に欠陥が見つかったらしいのです。電話で問い合わせたところ修理はすべて無料なのですが、その修理箇所は車の最深部分にあるので4時間以上の時間が必要だと言われました。今、我が家はこの車の修理をいつ頼めばよいのかと考えている最中です。時を同じくして、私の車のメーカーとは別ですが日本の大きな自動車会社が自社の車の欠陥を隠していたことが明るみに出されて大きな問題を呼び起こしています。この自動車会社が車の欠陥を知ったときに早急に対処していれば、事故で多くの人の命が奪われることはなかったと言うのです。どんなに、外形は素晴らしい車であっても、その内部の重要な部品に欠陥があるなら、大変なことになってしまいます。早急にリコールの知らせを出して車を修理しなければ、たくさんの人の命が事故で失われる可能性があるからです。

(2)福音を覆す誤り

 私たちが今日、読もうとしている「ガラテヤの信徒への手紙」はある意味で、このリコールの手紙と考えてよいかもしれません。ここで早急に修理が必要とされているのは、ガラテヤの教会の人々が持っていた福音についての理解の内容でした。ですからパウロはこの手紙の最初の部分で次のような警告を記しています。

 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」(6〜7節)。

 どうやらこの部分を読むとガラテヤの教会の人々に求められている修理は信仰の最も根本的な部分にあたるもので、それを直さなければ彼らの救いを危うくするような大問題であったことがわかります。ですからパウロはこの手紙でガラテヤの人々の中に起こった福音理解についての重大な欠陥を指摘して上で、彼らに正しい福音についての理解を示し、その信仰生活を正そうとしているのです。

2.偽教師の教え
(1)パウロを攻撃する

 ところで、どうしてガラテヤの教会の人々はパウロが語るように福音理解において重大な過ちを犯してしまったのでしょうか。実はその原因はユダヤ人の古い習慣を持ち続けたクリスチャンがもたらした誤った教えを、彼らが信じたことにあったと言うのです。もともと、このガラテヤ教会はパウロの伝道の成果によって生まれた教会だと考えられています。この手紙の中にもパウロとガラテヤの教会の人々の深い関係が記されています(4章13〜15節)。パウロは自分の病気のためにこの地に留まり、そこで福音を宣教しました。ガラテヤの人々はこのパウロを介抱して手厚くもてなし、彼らの間には信仰を通しての深い友情が生まれたのです。しかし、パウロがこの地を去った後に訪れた、ユダヤ人の古い習慣を持ち続けた教師たちがこのパウロとガラテヤの人々の友情を壊し、ガラテヤの人々を混乱に陥れたのです。彼らはまずガラテヤの人々に、パウロは教会から派遣された本当の「使徒」ではないと教え、彼らのパウロへの信頼を切り崩しました。つまり、パウロの教えた福音は彼の思いつきから生まれたものであって、信じるに値しないものだと語ったのです。その上で、彼らは自分たちこそがエルサレムに存在する本当の使徒から正式に派遣された者たちであり、正しい福音を伝えるためにここにやって来たのだと説明したのです。

(2)律法主義を押し付ける

 さて、それではこのユダヤの古い習慣を持ち続けた教師たちが教えた「福音」とはどのようなものだったのでしょうか。彼らはガラテヤの教会の人々にキリストを信じる信仰だけではなく、ユダヤ人が古くから持っている神の掟、つまり律法を守ることが救いを受けるための不可欠な条件だと教えたのです。もともと、ガラテヤ教会はユダヤ人とは関係のない異邦人たちによって作られた教会でした。ところがそこにやってきた新しい教師たちは、簡単に言ってしまえば、彼らに「まずあなたたちもユダヤ人になりなさい、そしてその上でキリストを信じることが大切なのだ」と教えたということになるのです。残念ながらガラテヤの人々はこの教師たちの教えに惑わされ、パウロから受けた正しい福音への理解を捨て、誤った信仰理解を抱くようになってしまったのです。そこでパウロはこの手紙の中で自分は神様から福音を伝えるために選ばれた「使徒」であることを論証しています。その上で、ガラテヤの人々が持った福音理解を「律法主義の誤り」として厳しく非難し、人は律法を行うことではなく、キリストを信じる信仰によってだけ救いを受けるという正しい福音の理解をもう一度、彼らに教えようとしているのです。

3.律法主義の誤り
(1)差別を生み出す律法主義

 このようにパウロがこの手紙で強く非難したのは「律法主義の誤り」、つまり人は神の掟を自分の力で守ることによって救いを受けるという教えでした。新約聖書を読みますとイエス自身がこの律法主義の誤りを絶えず警告し、その主張を繰り返すユダヤ人たちと対立していたことが分かります。パウロは今日の箇所の最後の部分で「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」と言う言葉を語っています。この言葉の背後には律法主義がもたらす弊害が隠されています。そこのことについてはルカによる福音書の中でイエスが語られたたとえ話がよく教えてくれています(18章9〜14節)。

 神殿に二人の人が祈るためにやってきました。一人は律法を守ることに一生懸命な人(ファリサイ派の人)であした。そしてもう一人はその律法を守ることができずに苦しんでいる人(徴税人)でした。イエスはここで律法主義者の姿を次のように描いています。

 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」(10〜12節)。

 ここでファリサイ派の人は自分の正しさを主張するために、そうでない人を祈りの中に登場させています。つまり、律法主義の特徴はこの相対的な正しさの主張に終始してしまうというところにあります。

 「どうしてお前はだらしがなにのかね。隣の○○ちゃんなんか、親の言うことをよく聞いて賢い子なのに…」。皆さんの中にも小さいときにこんな言葉を両親から聞かされたことのある方もいるかもしれません。しかし、もし隣の子供が少年院にも入れられるような札付きの不良だったら、親はなんと言って自分の子供を教育すればよいのでしょうか。おそらく、隣の子供ではなく、向かいの家の子や、親戚の家の子を登場させることになるでしょう。このように律法主義は絶えず、自分の正しさを証明するために、そうでない人を必要とする傾向を持っています。だからこそ、そこには民族や地位、そして性別の間に厳しい差別が生まれてきてしまうのです。

(2)正しい者は一人もいない

 先日、葬儀のために久しぶりに家内の実家に帰ったとき、親類の人たちが我が家の息子を見て言ったのは「背が高くなったね」と言う言葉でした。ところが、この言葉を聞いて家内はすぐに「いえいえ、息子はクラスでは前から二番目で、小さいほうです」と答えていました。たぶん親類の人々は以前に見た息子の姿を思い出して「背が高くなったね」と言ったのでしょう。ところが家内はいつも息子と遊んでいる同級生の姿を思い出して「息子は背が高いほうではない、むしろ小さい方だ」と語ったのです。律法主義の不確かさはこれに似ています。しかし、最も肝心なのは神様の目から見て、本当に私たちは自分が正しいと主張することのできる立場にあるかどうかと言うことです。地上では多少の背の高さが気になりますが、もし高いビルの屋上からその人たちを見下ろすならおそらく地上には同じような黒い頭だけしか見えません。パウロはローマの信徒への手紙の中でこの神様の視点から見るなら私たち人間はどのように見えるかを次のように語っています。

「正しい者はいない。一人もいない」(3章10節)。

ですから、律法主義では私たちの本当の姿を理解することができません。ましてや、そこから救いを受けることは不可能なのです。

4.キリストのみを拠り所とする
(1)救いの根拠はイエスにだけある

 それでは私たちはどのようにしたら神様の前で「正しい人」として迎え入れられることができるのでしょうか。これこそ私たちが間違ってはならない、福音の核心とも言える部分です。パウロは次のように語ります。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)。

 私たちはただイエスを信じる信仰によってだけ「神の子」つまり「正しい人」とされるのです。律法主義は救いの根拠を自分の内に側に求めますが、真の福音はその根拠を救い主イエス・キリストにだけ求めるのです。ですから、イエスが十字架にかかり、私たちの罪を贖い、復活されて、私たちに永遠の命を勝ち取ってくださったからこそ私たちは「神の子」とされるのです。この事実によってのみ私たちは救いを受けることができると確信して言えるのです。

(2)パウロの手紙によって宗教改革が起こった

 このように福音の真理は非常に簡単です。ところがこの真理は教会の歴史の中で絶えず攻撃を受けてきたと言う事できるのです。パウロがこの手紙の中で律法主義の誤った福音理解と戦ったように、宗教改革者たちはカトリック教会が陥った律法主義と戦いました。当時のカトリック教会は救われるためにはイエス・キリストへの信仰が必要だが、その後に犯した罪を償うためにはさまざまな信仰的な努力を自分で積むことが必要だと教え、人々はその教えのためにたくさんの掟に縛られ、救いの確信を失い、自由のない信仰生活を送っていたのです。

 そのような中で宗教改革者と呼ばれる人々はこのパウロの手紙に基づいて、人が救われるのはイエス・キリストへの信仰によるのみであると教えたのです。そして、この活動によって人々の信仰生活の上に失われていた本当の喜びと、感謝、そして自由が回復されたのでした。つまり、宗教改革はこのパウロの書いたリコールの手紙によって遂行されたと考えることができるのです。

5.キリストを着ること

「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(27節)。

 皆さんはこんな経験をされたことはないでしょうか。久しぶりの休みの日に、「今日はゆっくりしよう」とパジャマ姿で横になっていると、玄関のベルがなって突然の来客があったことをあなたに知らせます。これは大変と慌てて、洋服を探して着替え、顔を洗って、布団をたたんで押入れに入れ、来客を迎える。こちらに準備があればそんなに慌てなくて済むのですが、急な来客にはそれもすることができず、大変に慌てるものです。

 私たちもやがて必ず神様の前に立つときがやってきます。しかし、それはいつになるのか私たちには分かりません。人の死がそうであるように、それは突然の来客が訪れるようにやって来るかもしれません。そのとき私たちはどうしたらいいのでしょうか。しかし、私たちはあわてることなく、安心して言いとこの手紙を教えているのです。なぜなら、私たちはイエスを信じて洗礼を受けたときに、キリストに結ばれ、キリストを着たからです。私たち自身の姿がどんなに見苦しくても、私たちの上にそれを隠すようにキリストが私たちの衣となってくださるとこの御言葉は教えるのです。ですから、私たちは神様の前でイエスがなしてくださった救いの御業を、あたかも自分が行った業であるように示すことができ、神の子として恥ずかしくない姿をしていると認めていただけるのです。

 私たちの救いの根拠はこのイエス・キリストにのみあるのです。それ以外に何も必要とはされていません。パウロから送られたこのリコールの手紙を学び、正しい福音を理解し、信じるなら私たちもこの救いを喜び味わうことができ、神様に心のから感謝を捧げ、神の子に与えられた自由を受けて信仰生活を送ることができるのです。

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