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礼拝説教 桜井良一牧師
「聖霊が注ぐ神の愛」

2004.6.6)

聖書箇所:ローマの信徒への手紙5章1〜5節
1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

1.神が与えてくださる平和
(1)自分の力ではなく、信仰を通して与えられる

 今日はパウロの記したローマの信徒への手紙から私たちが信仰によって得る「平和」について学んで見たいと思います。誰も争いを好む人はいないと思います。ですから「平和な生活をしたい」と願うのはすべての人の共通の思いではないでしょうか。それなのにどうして私たちのこの願いは簡単に実現されないのでしょうか。また、キリストを信じる私たち自身の生活にもさまざまな苦しみが起こり、決して、いつも穏やかに過ごすことができるわけではありません。それはどうしてなのでしょうか。私たちの信仰のどこかに誤りがあるのでしょうか。パウロは今日のローマの信徒への手紙5章の最初の部分でこう語っています。

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており…」(1節)。

 この言葉から私たちが最初に覚えるべきことは私たちが信仰によって得る平和は自分の力で獲得したものではないということです。
以前、NHKの番組でアメリカの「城壁都市」の紹介を見たことがありました。「城壁都市」と言っても何か中世の古い町並みを紹介する番組ではありません。実際に塀で囲まれ民間警備会社の厚いガードで守られている現在のアメリカの町のお話です。そのようにして自分たちが居住する町の安全のために住民は多額の負担を負って、その町を維持させているのです。当然、その町に住むことができるのはその負担を負うことのできる限られたお金持ちたちだけとなります。その町には大企業の「CEO=最高経営責任者」と呼ばれる人、経済的な成功を成し遂げた人々だけが住んでいます。人もうらやむ豪邸で優雅な暮らしをしているかに見える人々。しかし、この番組は彼らの立場がどんなに危うく、また不安に満ちているかその内面の姿を紹介しているのです。「登りつめた」と呼ばれるような最高の地位を獲得した人々、しかし、その後に残るのは「いつその地位を失ってしまうのか」という不安です。彼らはその不安のために心は少しも休むことができないのです。自分の実力によって築きあげた地位や、すばらしい住宅、そのすべてがいつか奪われてしまうのではないかと言う不安がいつも彼らに付きまとっているのです。
 もし、私たちに与えられる平和が私たちの力によって獲得されるものなら、それは同じようにいつかは失われてしまう可能性があります。それでは私たちはこの城壁都市に住む人々と同じように外側は立派に見えても、心の中はいつも不安な生活を送っていなければなりません。このローマの信徒への手紙では自分の行いによって救いを得ようとするユダヤ人の誤りが指摘されています。そして、本当の平和はキリストを信じる信仰によってだけ与えられると教えているのです。さらにパウロはその信仰によって得た平和がどんなに素晴らしいかを説明しているのです。

(2)苦難や問題は避けることができない

 宗教改革者のカルバンはローマの信徒への手紙のこの部分を解説の中で「信仰者はたとへ苦難が起こっても、そのことで苦しむことはない」と語る人々に反論を加えています。「苦しみを感じないのなら、それは苦難とは言えないし、忍耐も必要ないことになる」と彼は語るのです。つまり、パウロの語る平和は私たちが地上の生活の中で苦しまないこと、いつも平穏無事に過ごすことができるということではないと言えるわけです。
 少し前まで私たちの世界は東西対立といって、アメリカとソ連のような政治体制の異なる国々が睨み合い、戦争の危機を呼び起こしていました。ところがその一方のソ連が崩壊することでこの東西対立はなくなりました。しかし世界は今、それと同じように深刻は民族や宗教の違いによる対立で苦しみ、戦争の危機の中にあるのです。ひとつの問題が無くなると今度はそれと同じような新しい問題が起こる。このようなことは世界の問題だけではなく、私たちの生活の中でも体験していることではないでしょうか。
 古代ギリシャ人たちは「平和」を問題の無い平穏な状態と考えたと言います。つまり、平和を得るためには問題を避けること、問題が起こりそうなことに関わらないことが大切になってくるのです。しかし、私たちは誰も好んで問題に出会うわけではありません。そのような努力を重ねても、どうしても私たちは深刻な問題と向き合わなければならないときがあるのです。

(3)信仰によって与えられる平和

 皆さんにここで覚えてほしいのはパウロの語る平和とは争いや苦しみが全くない状態を言っているのではないことです。パウロの言う平和はむしろその争いや苦しみを支配し、私たちを勝利に導くことができるものだと考えることができるのです。聖書の教えから考えるなら「平和」は「聖さ」とか「義しさ」と同じようにまことの神様が持っている性格のひとつと考えることができます。つまり、神様はご自分が持っておられる性質のひとつを私たちに与えてくださると言えるのです。それではその平和を私たちはどのように得ることができるのでしょうか。
 「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており…」とここでパウロは言っています。つまりこの平和はイエス・キリストが獲得してくださったものであり、またそのキリストによって私たちに与えられるものです。そしてそれによって実現するのは私たちと神様との間の平和だとパウロは教えるのです。
 ご存知の通り私たち人間は神様に背き、罪を犯し続ける存在として神の正しい裁きを免れることのできません。「逃亡中の殺人犯が逮捕されて、初めてぐっすり眠ることができた」と言うお話を聞くことがあります。私たちはどこにいてもこの殺人犯と同じように心が休まることがないのです。それは自分が神様の前で罪を犯し、その刑罰を必ず受けなければならない罪人だからです。そして主イエス・キリストは十字架の贖いを通して、私たちをこの逃亡者の生活から救ってくださったのです。イエスが私たちに代わって刑罰を受けてくださったので、私たちはもはや神の裁きを受けることがないからです。
 このように私たちはキリストによって完全無罪にされました。しかし、主イエスのみ業はそれだけにとどまるものではありません。主イエスのみ業は私たちをさらに神の子としてくださるという祝福を与えるのです。父なる神がイエスを愛された、その同じ愛で私たちを愛してくださると言うのがこの祝福の正体です。ですから私たちが神の子とされるとき私たちと神様との関係はこの愛の関係へと変わるのです。このように私たちは神様とかつては敵対関係にありましたが、今は神様との愛の関係に生きることができるようにされているのです。ですから、私たちに与えられた「平和」とは言葉を変えれば、この神様との愛の関係であると言えるのです。

 「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2節)。

 パウロがここで自分にとって誇りだといっているのは、このキリストによって与えられた神様との愛の関係を指しています。そしてパウロは論旨を進めて、この神様との愛の関係は私たちの人生に起こる「苦難」の中でこそその本領を発揮し、その真価を表すのだと教えているのです。

2.苦難の中で真価を発揮する平和
(1)苦難から忍耐が生まれる(望みを持つ)

 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(3〜5節)。
 このパウロの言葉はたくさんの人に読まれ、愛されてきた御言葉だと思います。なぜなら、この言葉自身が苦難の中にある人を励まし続ける力を持っているからです。パウロは「苦難を誇る」と語っています。これは前の部分の「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と同じ言葉で「恥とはしません」と読み替えてみてもよいものです。
 私たちは自分の人生に不都合なことや、失敗が生じたとき、それを恥ずかしいから隠そうとする傾向があります。何かそれを明らかにされると自分の愚かさが公にされて、恥ずかしい思いをして、苦しみが増し加えられるからだと考えるからです。しかし、パウロはむしろ苦難を誇る、あるいは恥とはしないとここで語るのです。なぜなら私たちに起こる苦難は「忍耐」を生み出すからだと説明するのです。
 修学旅行のお土産に「忍耐」と書かれた木製の板を買ってきた思い出があります。「忍耐」は日本でも美徳のひとつと考えられています。しかし、その場合は「自分にとって不都合なことを耐え忍ぶ、がまんする」という色彩が強いのではないでしょうか。しかし、聖書の語る「忍耐」はその中心が我慢にあるのではなく、むしろよろこんで我慢できる希望がその苦難の中にあると教えるのです。つまり、自分に起こった苦難は自分を苦しめるためでも、滅ぼすためにでもなく、自分に本当の祝福を与えるために、また救いへと導くために神様から与えられたものだと確信できるということです。ですから私たちは苦難の中でも希望をもってそれを耐え忍ぶことができると教えているのです。つまり、私たちに与えられる苦難には私たちが喜んで忍耐できるほどの素晴らしい祝福が隠されているとパウロは言っていることになります。

(2)忍耐から練達が生まれる(検査済み)

 「忍耐は練達を、練達は希望を生むということを…」。「練達」という言葉はあまり私たちの日常生活では使わない言葉かもしれません。この言葉についてはペトロの手紙に登場する「試練」についての説明がよい解説であると思います。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(ペトロの手紙一1章6〜7節)。ペトロはここで私たちの信仰は試練を通して「本物と証明される」と言っています。
 ある人はこのローマの信徒の手紙に登場する「練達」という言葉を「試験済み、検査済み」という面白い言葉で訳し直しています。私たちの周りにも「検査済み」と書かれた品物をよく発見することがあります。検査によってその安全性が確認され、いざというときに十分、それに頼ることができるということを表す印です。つまり、パウロは私たちが神様と平和の関係、愛の関係を持っていることをこの苦難の検査を通して明らかにされ、これは確かだと確信することができるようになるされると教えているのです。

3.苦難の中で真価を発揮する神の愛
(1)罪が苦難の原因?

 先日、夜の祈祷会でカルバンのキリスト教綱要から旧約聖書のヨブ記の出来事を少し学ぶことができました。ヨブ記はたいへん難しい書物のように思えます。ヨブがどうしてあれほどの苦しみを受ける必要があったのか、また、彼はその苦しみの問題をどのように解決できたのか解釈者によって意見が分かれます。しかも、私たちはこのヨブ記に登場して、神様にその誤りを叱責されるヨブの友人たちの苦しみについての見解を返って身近に感じる傾向があるのです。
 ヨブの友人たちの論旨はある意味で明確です。「ヨブが苦難を受けるのは彼が罪を犯しているからである」。つまり、ヨブは神の愛を受けるためにふさわしい人間ではないからそうされているのだと教え、ヨブがその愛を受けるにふさわしい人間に変わるなら、その苦難からも解放されることができると主張するのです。
 しかし、この考えでは私たちは苦難の中で神との平和を自分の力で得なければならないことになります。つまりパウロが退けた「行いによる救い」へと私たちを逆戻りさせることになってしまうのです。それならば私たちはいつまでも本当の平和を得ることができず、不安な人生を生き続けなければならなくなってしまいます。

(2)試されるのは神の愛

 カルバンのキリスト教綱要ですべての出来事の上に神の主権とその計画が隠されているということを主張し、そのよき例としてこのヨブ記を引用しているのです。つまり、私たちの周りに起こる、どんな不都合なことや、苦難も神の許しがなければ起こりえないし、それは神の計画のうちで起こっていると教えているのです。それでは私たちはその神の計画の中でどのように取り扱われていると考えることができるのでしょうか。ここでパウロの言葉を思い出してみましょう。「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」。そうです、神はその計画のなかで私たちを神の子供として扱い、私たちを愛するためにその計画を実行されているのです。

 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」とパウロは語ります。つまりこの愛の関係は苦難の中でこそその真価を発揮するとこの言葉は教えているのです。

 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5節)。

 私たちは忍耐とか練達とか言う言葉で何か自分の側の信仰の力量が試されていると感じてしまうところがあります。ですから返って自信を失ってしまいがちなのです。しかし、ここで試されているのは私たちの側の力量ではありません。キリストが私たちに与えてくださった神との平和であり、私たちと神様との愛の関係なのです。そしてその愛の関係はどんなことがあっても変わることがなく、むしろ苦難の中でこそ真価を発揮するのだとパウロはここで教えているのです。この真価が発揮されるために主イエス・キリストは苦難の中に生きる私たちに聖霊を送ってくださり、その希望を日々明らかにしてくださるのです。この聖霊の働きによって、私たちはたとえ苦難の中にあっても、いえ、苦難の中にあってこそ、神の私たちへの愛は確かであると確信することができるようにされているので。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちには隠されていますが、すべての出来事の上にはあなたの主権と計画が存在します。しかし、その事実も救い主イエス・キリストが私たちのために救いを成し遂げてくださらなければ、単なる運命論で終わってしまいます。主イエスはその御業を通して、私たちと神様との間に愛の関係、平和ともたらしてくださいました。そのため私たちはあなたの計画と御業の中であなたの子供として愛されていることを確信することができます。
苦難を受けるとき私たちがこのイエスによって与えられた神との平和の関係を思い出し、忍耐と練達を得ることで、さらにあなたの愛を確信するものとしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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