1.主イエスを褒め称える賛歌
(1)賛美歌を歌うことで何が起こるのか
初めてキリスト教会の礼拝に出席しますと色々と戸惑う方がたくさんおられると思います。まずこのようにして牧師が語る説教に戸惑います。おそらく初めて教会に出席して牧師の話す内容が十分に分かったと言える人はあまりいないかもしれません。もちろん伝える牧師の側の能力の問題もありますが、他にも説教には数々のキリスト教や聖書に登場する特有の用語が出てきますので一般の方には少し分かりづらいものになってしまいます。私も最初にキリスト教会の礼拝に参加して牧師の説教を聞いたときは、やはりほとんどそのお話の内容が理解できなかっただけではなく、緊張しすぎてお腹が痛くって途中で礼拝を抜け出した思い出があります。その他にも礼拝にはお祈りや献金など、普段の生活からは馴染みがないことが多く登場します。それだけではありません。どしてキリスト教会は神様を礼拝するときに歌を歌うのでしょうか。
私たちが礼拝で歌う賛美歌の歌詞を読んでみますとそこには必ず神様のことについての内容が歌われています。神様はどのような方であり、何をしてくださるか、またその神様のおかげで私たちはどのようなものにされているかなど…。賛美歌に歌われる歌詞の内容は簡単に言えばそのようなことが記されているのです。実はこの賛美歌を歌うことは私たちの礼拝、また信仰生活にとって大切なことだと言えるのです。なぜなら、この世のさまざまな宗教はいろいろな教えを聞いて自分が修養を積み、自分の力で今までとは違う人間になることを薦めますがキリスト教の視点はそれとは全く異なるからです。もちろん、私たちも神様を信じることによって様々な変化を人生で体験します。しかし、それは私たちが修養の末に得るものではなく、神様がそうしてくださるからなのです。つまり、私たちにとって大切なのは神様がどのような方であり、また私たちに何をしてくださるかということにあるのです。ですから賛美歌を歌うとき私たちはこの神様が私たちの人生を導いてくださり、何をしてくださったか、これから何をしてくださるかを確認し、歌うのです。そして神様に人生をゆだねる決心をして、信頼して歩むことができるようにさせられるのです。そのような意味で私たちの信仰生活において賛美歌を歌うことは大変に大切なことだと言えるのです。
(2)すべてのことにおいて第一の者
今日、この礼拝のテキストに選ばれているコロサイの信徒への手紙は使徒パウロによって記された書物です。しかし、今日の朗読箇所はこのパウロの書いた書物の中にありながらも、文体や内容などの検討からパウロ自身の作品ではなく、以前からキリスト教会の中で歌われていた賛美歌が記されていると考えられています。つまり、パウロはこの手紙の中で賛美歌を引用しているのです。この賛美歌は短い文章の中でイエス・キリストの素晴らしさを豊かに賛美しています。その中でも最も特徴のある言葉はイエス・キリストについて「前」とか「最初」とか「第一」という言葉で褒め称えている点です。特に18節ではイエスが「すべてのことにおいて第一の者となられたのです」と歌われています。
私は神学生だったころ大阪にあった在日大韓教会に奉仕していたことがありました。その教会は規模としては他の在日大韓教会と比べてそんなに大きなものではありませんでしたが、名前を「大阪第一教会」と言っていました。「第一」と言えば、他に「第二」とか「第三」があるのではないかと考えてしまいますが、実際にそんな名前がついた教会はどこにもありません。その教会の計画にも「第二」、「第三」と言う名前をつけた教会を作る予定は無かったと思います。この場合の「第一」は教会の立てられた順序を示すというよりも、最も素晴らしい教会、あるいは他には必要がないほどに完璧な教会であることを意味していると言えるのです。つまり、この「第一」とは「第二」、「第三」がいらないことを表しています。この賛美歌がキリストを「第一」と呼ぶ場合も同じ意味を持っています。第二、第三のキリストは必要がありません。この第一の方がおられる限り、私たちには他に何も必要がない、キリストは私たちにとってそのように他に比べることができないほど素晴らしいお方であることをこの賛美歌は私たちに繰り返して示しているのです。
2.すべてのものより先におられる方
(1)目的地を見失う者の悲惨
明治時代に実際に起こった事件を題材にして作られた映画「八甲田山」では、吹雪の山中で行き先を見失って凍死してしまう兵隊たちの悲惨な姿が描かれています。この映画の中で、最後列を歩いているはずの兵隊たちがふと自分たちの後ろを振り返ってみると、その後をついてくる兵士の姿が吹雪の中にうっすらと見えるところがあります。なんとそれはその行軍の行列の一番先頭の人々だったのです。彼らは吹雪の中で目的地を完全に見失ってしまい、いつのまにか自分たちの行列の最後尾の後を歩いていたというのです。この結果、その行軍に参加したほとんどの兵士が八甲田山の山中で遭難し、凍死してしまいます。このように先頭を歩く人間はすべての人の命の綱を握っている、そのような重要な役目を持っているのです。
(2)先導者として私たちを導く
「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(17節)。パウロは神による創造のみ業を語りながら、その先頭にイエス・キリストがおられると私たちに言っています。
私たちの人生は、また私たちの住むこの世界はどのような方向に向かって歩んでいるのでしょうか。私たちの先頭を歩む人は本当に私たちの命をあずけてもよい、信頼のできる人なのでしょうか。この手紙の受取人であるコロサイの教会を取り囲む当時のローマ帝国を中心とする文化は繁栄を謳歌する一方で、非常に退廃したものであったと考えられています。人々の心に影響を与えていたのは「運命論」であり、誰が何をしたとしても、あらかじめ定められた運命に人は逆らうことはできないという絶望的な考えが多くの人々の心を支配していたと言われています。そのため人々は未来に希望を持つことができずに、せめて今だけを楽しもうとする刹那的な生き方をしていたのです。しかし、このパウロの引用した賛美歌は歴史の主導権はイエス・キリストにあって、彼が私たちの先頭に立って導いてくださっていると教えているのです。ですからどんなに私たちの持っている現在の問題が深刻であっても、またどんなに自分たちの力に頼りがなくても、私たちを導いてくださる方は道を見失うことないとこの賛美歌は歌うのです。そしてイエスは私たちを必ず目的地に到達させ、神の天地創造のみ業が備えてくださっている祝福の中に私たちを入れてくださるのです。
3.死者の中から最初に生まれた方
(1)死で終わらない私たちの人生
人は死んだ後どのようになるのでしょうか。一時的に死の世界を体験し、その世界から戻って来た人々の「臨死体験」を研究する専門家E・キューブラー・ロスは「人の死は蝶の幼虫が固いさなぎの殻を破って、蝶に替わるようなものだ」と教えています。私たちの人生は果たして死で終わってしまうものなのでしょうか。それともロス博士が言うようにその後も私たちは何らかの形で存在し続けるのでしょうか。しかし、ロス博士のデーターに上げら得た人々は本当の意味で死んだ人ではなく、仮死状態になっていて、そこから生き返った人たちでしかないのです。彼らは本当に死んだ人とは言えません。ですから彼らの言葉を私たちは本当に信じていいのか、それは大きな疑問です。
(2)キリストのよみがえりは私たちの復活の証拠
しかし、聖書は本当に死を体験され、そこから甦った方がおられることを私たちに教えています。それが私たちの主イエス・キリストです。
「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です」(18節)。
キリストは「死者の中から最初に生まれた方」です。彼は仮死状態から生き返ったのではありません。死から新しい命に甦えられたのです。だからイエスはここで「生まれた」といわれているのです。もし彼が今までと同じ状態に戻ったのなら決して「生まれた」とは表現できないでしょう。私たちの先頭に立って私たちを導く方はこの死の力を打ち破られました。そし私たちをも同じように「死者の中から生まれさせ」てくださる方なのです。私たちがどんなに修養を積んで、自己変革のために努力を払っても、その結果どのような人間になれると言うのでしょうか。大方の人はほとんど変わらない自分に絶望してしまうのが落ちです。しかし、イエスは私たちを新しい命に生まれさせてくださるのです。ですから誰であってもイエスを信じ、イエスに自分の人生をゆだねるならこの素晴らしい出来事がその人生に起こります。ですからこの賛美歌はそのようなイエス・キリストを褒め称えているのです。
4.十字架の血によって神と和解させてくださる方(神との和解の大切さ)
(1)何が問題なのか
「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(20節)。
キリストは十字架の血によって私たち人間と神様との間を和解させてくださったとこの賛美歌は歌います。それではこのことは私たちにとってどんなに素晴らしいことなのでしょうか。
私たちの人生の問題は色々あります。しかし、特に私たちは人間関係で悩みを抱えることが多いのではないでしょうか。有名な釈迦は私たち人間の人生には「愛する者と別れなければならない」苦しみと「イヤな人と出会わなければならない」苦しみで満ちている(愛別離苦・怨憎会苦)と教えました。少し前に長崎で小学生の女の子が同級生を殺害したというショッキングな事件が起こりました。憎しみのエネルギーが私たちの心のうちで蓄積されていくと思ってもいないような出来事が起こります。このような事件を体験するたびに、マスコミは事件の当事者の自己像、つまりその事件の犯人が自分自身をどのように考えていたのかということを問題にして取り上げます。そして事件の背後には必ずと言っていいほど、他人を憎む以上に自分自身を憎んでいる当事者の姿が現れます。そして、さらにはその当事者の育った親子関係も問題にされ、当事者が自分自身を愛せなかったのは、結局親から本当の愛情を感じられずに育ったからだと言われるのです。
聖書は「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ12章31節)と教えています。しかし、この言葉をよく考えてみれば、自分を愛せない人は、本当の意味で他人を愛することができないことになります。そして自分を愛せない人は、実は本当に愛されるという体験を持っていないのです。私たちはそれこそ殺人事件を起こすほどではありませんが、誰も自分自身を愛することができず、自分を憎み、人を憎む傾向を持っています。実はその原因は私たちを育てた親にあり、またその親はさらに彼らの育てた親が原因となって子供を愛することができないのです。このように憎しみの連鎖が私たちの人生を苦しめている原因となっていると言えます。そこで私たちがこの憎しみの連鎖から解き放たれる道はただひとつ、神様の愛に立ち返ることだと聖書は教えるのです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネの手紙第一4章19節)。ですから私たちを愛し、私たちの傷を癒すことのできる神様とのこの愛の関係を回復させるために、キリストは十字架にかかってくださいました。だから私たちはこのキリストによって神様との愛の関係に回復され、自分を憎む人生からも人を憎む人生から解放されるのだと言えるのです。このような意味でイエスの十字架の血によって私たちが神様と和解したことは、私たちの人生と私たちの人間関係すべてに素晴らしい力を発揮するのです。
(2)神の御業が私たちの人生を調和に導く
私たちの先頭に立って私たちの人生を導いてくださる方は私たちが心から信頼して、私たちのすべてをお任せすることのできる方なのです。このことを教えるようにリビングライフ誌の数日前の箇所には次のような私たちと神様との関係を教えるたとえ話が載っていました。
ひびが入って少し割れた、古くなった水がめが一つありました。その水がめの主人は、他の丈夫な水がめと一緒に、その割れた水がめも水汲みに使いました。年月が経っても、その主人は割れた水がめを捨てずに使いました。割れた水がめはいつも主人にすまない気持ちでした。「ボクが丈夫じゃないから、ご主人様に迷惑をかけるんだな。ボクのせいで、せっかく苦労して汲んで来た水がもれてしまうのに、ボクのことを捨てないなんて…。」ある日、水がめが主人に尋ねました。「ご主人様、どうしてボクを捨てて丈夫で新しい水がめを買わないのですか。ボクはあまり役に立たないと思うんですけど。」主人は、その質問に何も答えないまま、その水がめを抱えて、ずっと家に向かって行きました。そうして、ある道を過ぎたところで優しく話しました。「さあ、私たちが一緒に歩いて来た道を見てこらん。」その時になって、水がめは自分たちがいつも水を汲んで家に歩いて来た道を見ました。道ばたには、きれいな花々が、美しい姿を自慢するかのように生き生きと咲いていました。「ご主人様、どうしてここに、こんなにきれいな花が咲いているんですか。」主人はにっこりと笑って答えました。「すっかり乾いた山道だったのに、お前の割れ目から、もれて出る水を吸って、花が育ったのだよ。」(リビングライフ誌7月号53ページ『割れた水瓶』)
私たちの主イエスは「すべてのことにおいて第一の者となられた」方です。この方がいるならば私たちがどのようなものであっても、私たちを救い、私たちの人生を最高に用いてくださることができるのです。
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