1.見方の違いで…
三人の人がレンガを積む作業をしていました。ところがその三人の作業の様子は少し違っていました。一人はつかれきった顔の表情を浮かべて、こう語ります。「毎日、毎日、このレンガを積む作業を続けさせられて、もう飽き飽きさ。いやになっちゃうよ…」。もう一人は諦めきった表情を顔に表しながらこうつぶやきます。「こんな大変な仕事なのに一日三千円にしかならないのさ…」。ところがもう一人の人はとても楽しそうな顔をして作業を続けています。彼はこう語ります。「ここに何ができるか知っているかい。ここにはもうすぐすると世界で最大の遊園地ができるんだ。僕たちはそのために今このレンガを積んでいるのさ。この遊園地が完成したときにやってくる子供たちの楽しそうな顔を思い浮かべると僕まで楽しくなってくるよ…」。
人は同じことをしいても、自分が今、していること、あるいは体験していることの意味をどのように理解するかで、その生き方が大きく変わってしまいます。皆さんは毎日の生活をどのように感じて生きておられるでしょうか。拷問のような生活ですか。退屈な生活ですか。それともすばらしいプロジェクトチームの一員として働く喜びに満たされているでしょうか。
2.苦しみを喜びとするパウロ
(1)積極的に生きたパウロ
コロサイの信徒への手紙を今日も続けて学びます。今日の箇所の冒頭でこの手紙の著者パウロは次のように語っています。
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(24節)。
アメリカの漫画「ピーナッツ」の主人公チャーリー・ブラウンは落ち込んでいる友人のルーシーを慰めようと「人生は楽しいことばかりじゃいよ、ときには悲しいことや苦しいことだって起こるのさ」と教え諭そうとします。するとルーシーはチャーリー・ブラウンに「私は楽しいことだけがほしいのよ」と大きな声で叫びます。このチャーリー・ブラウンの言葉は真理です。しかし、私たちはいつもルーシーのような気持ちを持って生きているのではないでしょうか。できるだけ苦しいことには会いたくない。また苦しみに出会うのが怖い。こう考えると人生に対してどうしても積極的な生き方ができなくなってしまいます。しかし、今日の箇所でパウロは「苦しむことを喜びとしている」と語っているのです。パウロはご存知のようにキリストの福音を伝えた使徒の中でも最も有名な人物です。使徒言行録やパウロ自身が記した手紙を読むと、彼がたいへんに積極的な生き方をしていたことが分かります。おそらく、彼のこの積極的な生き方の背後には今日の箇所にも登場する「苦しむことを喜びとする」人生観があったのではないでしょうか。今日はこの箇所からそんなパウロの人生観について少し学んでみたいのです。
(2)自分の苦しみを通して実現する神の計画
まず、パウロのこの人生観を理解するために、私たちはパウロが実際にこのとき、どのような苦しみの中にあったのかを知りたいと思います。この手紙の4章10節にはこのパウロの苦しみを説明する彼自身の言葉が記されています。「わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています」。この箇所の言葉からパウロがこのとき「捕らわれの身」、つまり獄中に繋がれた囚人であったことがわかります。使徒言行録ではエルサレムで逮捕されたパウロがローマに囚人として護送され、ローマに到着するまでの出来事が記されています(21〜28章)。おそらくこのコロサイの信徒への手紙はパウロがローマの獄中から送った手紙と考えることができるのです。つまり、パウロは自分が獄中で捕らわれの身となって苦しんでいることを喜びとしているとここで語っているのです。
そしてパウロは続けて、この「苦しむことを喜びとする」理由を記しています。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」。パウロはユダヤ人以外の外国人である「異邦人」でもキリストによって神の救いを受けることができるという福音を伝えるために活動しました。そしてそのためにパウロはユダヤ人たちの反感を買い、逮捕され、囚人となってしまったのです。つまり、彼はキリストの福音を伝えるためにこの獄中生活という苦しみを受けているのです。
しかし、それは突然に起こった意外な出来事ではありませんでした。イエスの預言の言葉には次のようなことが語られています。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」(ルカ21章12節)。そして、イエスはさらに「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう」(ヨハネ15章20節)とも語っているのです。おそらくパウロはこのイエスの言葉を知っていたのだろうと思います。そして彼は自分が獄中に捕らえられているのが、このイエスの言葉が実現したことだと受け取っていたのです。つまり、神の救いの計画はパウロが獄中に捕らわれることで中断したり、後退しているのではなく、確実に前進していると考えることができたのです。ですからここでのパウロの喜びは自分の受けている苦しみを通してこの神様の計画が実現していること確信できたところにその原因があったと言えるのです。
(3)「苦しみの欠けたところ」とは
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」。
このパウロの言葉はイエスが十字架上で受けた苦しみがまだ不足しているということを語ったのではありません。キリストの十字架の苦しみが完全であったからこそ、神様の計画は実現し、福音は異邦人に伝えられ、パウロが獄中に捕らわれることになったのです。パウロがここで言っている「苦しみの欠けたところ」とは「キリストの体である教会」が建て上げられるための労苦、福音がすべての人々に宣べ伝えられるためにクリスチャンが負わなければならない責任を語っているのです。しかし、この苦しみは前にも述べたように神の計画が妨害されたり、後退していることを意味しているのではなく、むしろ確実に前進していることを明確に示す証拠なのです。ですから、この苦しみは私たちにとって喜びと変わることのできるものだと言えるのです。
3.秘められた計画によって召された異邦人
(1)コロサイの人々を通して実現する神の計画
パウロはこの喜びをさらに説明するために、自分たちを通して今、実現されようとしている神の計画がどんなに素晴らしいものであるかを語ります。
「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(26節)。
ここでパウロの語る「秘められた計画」とは神がキリストを遣わし、十字架の出来事を通して実現してくださった私たちの救いについての計画です。キリストのみ業を通してすべての人が救われることができる。その福音の明らかな証拠として「異邦人」であった人々がこの救いにあずかることが今、現実に可能になったのです。この手紙を受け取ったコロサイの人々もユダヤ人ではなく異邦人でしたから、ですから彼らが救われ、今イエスを信じる信仰生活を送っているということはこの神様の計画が実現していることを表す確かな証拠のひとつであると言うことができるのです。
(2)夕方近くに雇われた「異邦人」
福音書の中に記されているイエスの語られた神の国のたとえ話では一人の主人が町に出かけて、自分のぶどう園で働く労働者を雇うお話が登場します(マタイ20章1〜16節)。この主人は朝の9時、お昼の12時、午後の3時、そして最後には夕方の5時と何度かに分けて労働者を雇い入れ、自分の農園に送り込みます。ところが夕方になって終業時間となったときに労働者に払われた賃金はすべて同じ金額だったというのです。一日中働いた人も、夕方近くに雇われてほとんど働いていない人にも1デナリオンという金額が渡されています。このお話は神の救いの計画の素晴らしさを語っていると考えることができます。神と昔から親密な関係を結んで、その掟である律法を守り続けてきたユダヤ人はさしずめ朝の9時に雇われた労働者と考えることができます。また、そのような関係とは無縁で、神から遠く離れ生きてきた異邦人は夕方に雇われてほとんど仕事をしていない労働者と考えることができます。そしてこのユダヤ人も異邦人もいまやキリストの福音によって同じ神の救いにあずかることができるのだとこのたとえ話は教えているのです。これが神の秘められた計画です。神様のために何もしていない私たちがキリストのゆえにユダヤ人と同じ救いに預かることができるのです。だからそれは私たちにとってパウロが言うように「栄光の希望」と言えるのです。
4.キリストを宣べ伝えるパウロ
(1)出来事を理解するパウロの視点
パウロはこの素晴らしいキリストの福音を宣べ伝えるための勤めを神様からゆだねられていました。しかも、彼はこの計画の最も素晴らしい部分である「異邦人の救い」のために働き、その実現を自分の人生を通して体験していたのです。
「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(28節)。
パウロが「苦しむことを喜びとする」ことができた秘訣がここに示されています。それは魔法のように私たちの人生で出会う苦しみを喜びに変えるものではありません。彼が自分の人生に起こるできごとをどのような視点から理解しようとしたかに重要な秘訣が隠されているのです。彼は自分が異邦人にキリストを宣べ伝えることで獄中に繋がれるという体験をしていましたが、彼はそれを神様の計画の確実な実現と考えることができました。また、コロサイの教会の人々のような異邦人がキリストを信じることができたのものこの神様の計画が確実に実現している証拠と考えたのです。どんなことがあっても、この神様の計画が実現していくこと、このことは私たちにとって喜びであり、最大の励まし、また希望であると言えるのです。
(2)計画実現の根拠はどこにあるか
この手紙を受け取ったコロサイの信徒たちは、パウロの語った福音とは違う教えを論じる教師たちによって惑わされ、キリストの救いに対する確信が揺らぎかけていた気配がありました。ですから、今日の箇所の直前でパウロは「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)とコロサイの教会の人々に向かって教えているのです。おそらく、この偽教師たちはパウロが牢獄に閉じ込められていたことも「彼の教えた福音を信じてもろくなことにはならない」と攻撃するための材料にしていたのだと思います。しかし、パウロはそのような攻撃に対して、自分の上に起こった出来事を隠したり、恥ずかしく思うことはありませんでした。むしろ自分にとってそれは「喜びだ」と言って、自分に神様から与えられた名誉のように考えているのです。彼はどうしてこれほどまでに神様の計画が実現していることを確信を持って理解し、信じることができたのでしょうか。確かに人の立てる計画であるなら、その人の状態によっていくらでも変化することができます。しかし、神の立てられた計画は変わることがありません。そしてその計画を確実にする根拠である、イエス・キリストの十字架が完全なものであるからこそ、私たちはすべての事柄の上に疑うことなく神様の計画が実現することが可能なことを確信することができるのです。
私たちが礼拝で交読しているハイデルベルク信仰問答にもこのパウロが持っていた確信と同じ言葉を記しています。「イエス・キリストはご自分の尊い血をもって私たちの罪を完全に償ってくださった」。ですから「天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることがなく、万事が私の救いのために働くのです」(問1)。私たちもこの信仰をもって私たちの人生に起こる出来事を理解していきましょう。主は私たちの人生を通して、ご自身の素晴らしさを、この計画の素晴らしさをこの地上に明らかにしてくださいます。その主に信頼して、福音を証する生活を送って行きましょう。
【祈祷】
天の父なる神様
天地を造られる前から私たちのためにイエス・キリストを救い主として遣わしてくださると言う素晴らしい計画を立ててくださったあなたのみ業に心から感謝いたします。あなたの約束の通り、イエスは私たちのために十字架に係り、私たちを完全に贖ってくださいました。
そして今やあなたの計画は私たちを通してこの地上に実現されようとしています。どうか私たちが自分の人生に起こること、また世界で起こるできごとを通しても確かにあなたの計画が実現していることを確信することができるようにしてください。苦しみの中で意味を見失っている者にあなたの素晴らしい計画を知らせ、希望と勇気を持つことができるようにしてください。私たち自身も神の計画という希望を覚え、その希望が示されているあなたの福音を多くの人に証しすることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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