1.誤った教え
(1)律法主義とグノーシス主義の教え
今日も続けてコロサイの信徒への手紙から学びます。前回も少しお話しましたように、この手紙をパウロから受け取ったコロサイの教会の人々は誤った教えを語る教師たちによって、信仰の理解に混乱を生じさせていたようです。彼らを混乱させいた誤った教えがどのようなものかこの手紙にははっきりと書かれてはいませんが。おそらく大きく二つの誤った主張が彼らに向けて教えられていたと考えられています。一つはユダヤ人たちが主張してきた「律法主義」の考えた方です。人は旧約聖書に教えられてきた、神の律法、掟を厳格に自分の力で守ることによって救われるというものです。そしてもう一つは「グノーシス主義」という教えです。このグノーシス主義は簡単に説明できないほどにいろいろな教えが複雑に結びついています。乱暴に解釈すれば「二元論」と言って、霊的なものと肉的なものの間の対立を語り、人はどうしたら肉的なものから解放されて霊的な世界に生きることができるかというところにこの教えの重点が置かれています。どちらかというとこのグノーシス主義は古代のギリシャの宗教思想と強く結びついていたようです。私たちにとってギリシャというと何かとても縁遠いように思えますが、案外、この思想は私たちの知っている仏教や神道などにも通じるところがあるのです。
いずれにしてもパウロはこのような誤った教えによって混乱しているコロサイの信徒たちに正しい信仰理解を教えるためにこの手紙を書いたと考えることができます。
(2)教えることは出来ても、救えない
律法主義やグノーシス主義をここで詳しく学んで、皆さんを今から2000年前の世界に引き戻しても皆さんの気が遠くなるばかりかもしれません。ですから、私たちはそれを止めて、私たちの住む現在の日本の世界について考えて見ましょう。様々な宗教や思想がこの日本には存在しています。宗教や思想と言うほどでなくても、私たちに様々な「生き方」を提示する本や教師は数えきれないほど存在するのではないでしょうか。ですから、もしパウロが今を生きる私たちに手紙を書いたとしたら、やはりこの手紙と同じように「そのような教えには私たちを生かす本当の力はない」と教えることになるだろと思います。つまり、私たちはこのコロサイの信徒への手紙を様々な思想や教えに影響されながら生きている現在の私たちに書かれた手紙として読んでいいのだと思うのです。
それではなぜ「世の思想や教えには私たちを生かす力がない」と言えるのでしょうか。なぜならこの世の教師たちは様々な価値観や生き方を私たちに教えることができますが、彼らは私たちを罪と死の呪から救い出すことも、私たちに本当の命を与えることはできないからです。大切なのは私たちを救い出し、私たち生かす本当の命は誰が与えてくれるのかという問題なのです。
一人の人が井戸に落ちて困っていました。その井戸の前をたまたま通りかかった人が井戸に落ちた人を見つけて親切にこう語ります。「縄梯子をつくりなさい。それを使って井戸の外に出ればよいのです」と教えましたが、彼は教えるだけでそのまま井戸の前を通りすぎてしまいます。私たちにとってこの世の思想や教えはこの井戸を通りすぎて行った人に似ています。いくらそれを学んでも深い井戸、つまり罪と死の世界につながれている私たちを救うことをそれらのものはしてくれないのです。
2.キリストと共に葬られる
(1)キリスト信じて起こる重大な変化
しかし、私たちの救い主イエス・キリストはそのような愚かな教えを伝えにやって来た人ではありませんでした。私たちのために井戸の中に入って行って、ご自身の力で私たちを井戸の外に出してくだしてくださる方なのです。パウロは今日の箇所でそんな主イエスと私たちとの間に起こった出来事を説明しています。
「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(12節)。
キリスト教会に入会し、信者になるために私たちは「洗礼」を受けます。パウロはここでその「洗礼」という言葉を使っています。「洗礼」を受けるのはその人が「イエスを信じた」ことの証明です。ですからイエスを信じていない人がいくら「洗礼」を形だけ受けたとしてもそれは何の意味も持ちません。しかし、本当にイエスを信じて洗礼を受けるとき私たちの人生には重大な変化がそこで起こっているのです。そのことをパウロはここで教えています。
(2)肉の割礼を受けず
「キリストと共に葬られる」とパウロは語ります。「葬られる」とは「死んだ」ことを意味しています。ですから私たちはそこで一度死んだということになるわけです。それでは私たちはどのような意味で一度、「キリストと共に葬られた」と言われているのでしょうか。そのことが13節に詳しく説明されています。
「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがた…」。
割礼とは旧約聖書の時代に神を信じる人々に与えられた儀式です。この儀式を受けることによってその人々は神との深い関係に入れられたことを表しているのです。つまりこの割礼を受けていなのということは、「神とは無関係に生きている」という意味を持ってくるわけです。ですから私たちは神様と今までまったく無関係に生きてきたというのがこの言葉の意味になるわけです。そして神と無関係に生きることが次の「罪の中に死んでいる」という言葉で説明されているのです。
聖書が教える命はいつも神様との関係から語られています。創世記では土のちりから作られた最初の人間に神様が「命の息」を吹き入れられたとき、人間は始めて生きるものとなったと語られています(2章7節)。ですからこの神様から離れてしまうとき私たち人間はその命を失われてしまことにもなるのです。つまり神との関係が断絶してしまった結果、人間は死ぬべきものとなったのです。そして、その関係が最後まで回復されないなら、私たちは永遠の滅び、つまり本当の意味での死を迎えなければならないのです。私たちはかつてこの死の定めの中にあった者たちです。しかし、キリストはこの死ぬべき運命にあった私たちを「葬った」つまり、その死の世界から解放してくださったとパウロはここで私たちに教えているのです。
3.キリストと共に復活する
(1)未来ではなく今、新しい命に甦る
「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」。
もう一度、12節にもどりましょう。キリストは罪によって死ぬべき運命に立たされていた私たちをその死の世界から解放してくださいました。それが「キリストと共に葬られた」という言葉の意味です。しかし、パウロは続けて私たちが「キリストと共に復活させられた」ということを語っています。
ここでの「復活させられる」という言葉はやがて起こる出来事のように未来形ではなく、すでに起こった出来事として過去形で表現されています。もちろん私たちはやがてキリストが再臨されるときに、復活することができる希望を抱いて生きています。しかし、パウロがここで語る「復活」はやがて未来に起こるものではなく、すでに起こった出来事を指し示しているのです。
ヨハネによる福音書11章にはイエスがマルタという女性と交わした興味深い会話が残されています。このときマルタは弟のラザロを病気で失ったばかりでした。彼女は「イエスがもう少し早く来てくださったならラザロは死ななかったのに」と残念がっています。そのマルタにイエスは「あなたの弟は復活する」と語りかけます。するとマルタは「終わりの日に復活することなら信じています」と答えているのです。ところがイエスはそのマルタの答えを否定するかのように次のように語っているのです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11章25〜26節)。
もちろんこの言葉はこれから起こるラザロの甦りを予言している言葉でもあるかもしれません。しかし、この言葉はそれ以上の意味を私たちに教えているのです。イエスがここで語る「復活」とはやがて終わりの日に訪れる復活のことだけを言っているのではないのです。またこの言葉はただ一度だけ起こるラザロの甦りという出来事を教えるだけの言葉でもありません。むしろイエスがここで教える「復活」とは「復活であり、命である」というイエス自身に私たちがしっかりと結びつき、その命にあずかるときに受ける新しい人生を語っているのです。私たちは洗礼を受けてイエスを信じたときに、確かにこの「復活であり、命である」イエスの命にあずかって生きることができるようにされたのです。
(2)永遠の命の泉イエス
神と無関係に生きる愚かな人間の姿を旧約聖書に登場する預言者エレミヤは面白いたとえで説明しています。エレミヤ書2章13節にこのような言葉が語られています。
「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを」。
人間にとって水は命を支える重要なものです。神様この命を支える「水の源」そのものなのです。ところが愚かにも私たちはその神様を捨てて、自分で水を溜める水ためを作ったというのです。しかも、その水溜めは壊れているので水を溜めることができません。結局、私たちは命の乾きを満たすことができず苦しみもがき、やがては死を迎えるしかないのです。コロサイの信徒たちが惑わされている宗教思想や教え、また現在を生きる私たちに様々な教えを語る世の教師たちも「壊れた水ため」でしかないのです。それらは私たちに命を与えることはできません。
同じくヨハネによる福音書4章では暑さの最中に井戸に水を汲みに来た一人の婦人にイエスが語られたたいへんに有名な言葉が記されています。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4章13〜14節)。
イエスが「与える水を飲む者は決して乾かない」とここで教えられています。しかも、その水は「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とも語られているのです。ここで語られている「水」も私たちの命そのものを表しています。私たちがイエスを信じるとき、私たちはこの命の源である神と結び付けられるのです。汲んでも、汲んでも決して涸れることのない命の源に結びついて生きることができること、それが私たちの信仰生活です。ですからイエスを信じて「洗礼を受けたとき」私たちはこの命にあずかって生きる生活を始めることができたのです。
(3)命の泉によって潤う人生
先日、米沢興譲教会の礼拝テープを聞いていると、たいへん面白いお話が紹介されていました。昔、一人の日本人牧師がアメリカに伝道旅行に旅立ちました。その牧師があの有名なナイアガラの滝を観光したときのお話だそうです。案内人が得意げに「こんな素晴らしい滝は世界で他に見ることはできません」と自慢げに紹介したとき、その牧師はいきなり「これは私の親父のもの…」と言い出したと言うのです。ご存知かもしれませんが、日本人の顔はアメリカのインディアンとよく似ています。そこで案内人は「この人はもしかしたら、もともとこの地域を支配していたインディアンの酋長の子孫かもしれない」と勘違いしたらしいのです。もちろんこの牧師がナイアガラの滝を「私の親父のもの…」と言ったのは天地万物を創造された神様こと指しており、その神様を私たちは「父よ」と呼べる関係にイエス様を通して入れられたことが前提となっているわけです。しかし、ユーモア好きのアメリカ人のことですからこの案内人の大きな勘違いをネタにして、この牧師の伝道会の案内書に「ナイアガラの滝の持ち主の息子来る!」と宣伝文句を書いて、多くの人を集めたと言うのです。
私はナイアガラの滝を見たことがありませんが、そこでは大量の水が滝から落ちていきます。しかし、不思議なことにその滝は涸れることなくいつまでも水を落とし続けます。私たちの命もこれと同じです、イエスに結びついているなら私たちの命は涸れることありません。むしろ、この地上の人生でこの尽きることのない命の泉である主イエス・キリストは私たちを潤し続けてくださるのです。イエスを信じるときこのような出来事が私たちの人生に起こったことを今日のパウロの言葉は私たちに教えているのです。
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