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礼拝説教 桜井良一牧師
「信仰の創始者また完成者」

2004.8.15)

聖書箇所:ヘブライ人への手紙一二章一〜四節
1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走
を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座り
になったのです。
3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

1.信仰の戦いと忍耐の必要性
(1)違うところで探しても…

 こんな小話があります。夜道の街灯の下で一生懸命に何かを探している人がいました。理由を尋ねてみるとどうもその人は大切な財布を無くしてしまったらしいのです。「それはたいへんですね」ということで、一緒になってその人と無くした財布を探すことになりました。ところが時間をかけて丹念に探してみても一向にその財布は見つけることができません。そこで確かめるために「本当にここで財布を無くしたのですか」とその人に尋ねますと首を横に振って、「いえ、無くしたのは違うところです」と答えるのではありませんか。びっくりして「それならなんで、こんな違う場所で一生懸命探しているのですか」と尋ね返してみると、その人は「いえ、無くした場所はとても暗くて、ここの方が街灯もあってずっと探しやすいと思ったものですから…」。
 落し物はそれを無くしたところで探す必要があります。いくら簡単だからと言ってぜんぜん見当違いのところに探しても見つかる訳がありません。実は今日学ぶヘブライ人への手紙の受取人たちは神が信仰を通して与えてくださる祝福を検討違いのところで探している人たちであったと考えることができるのです。

(2)血を流すまでの抵抗

「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(4節)。

 ヘブライ人への手紙の著者はこの手紙の読者たちについてこのように語っています。神学生になったばかりの頃、この箇所の説教を一人の牧師から聞いたことがあります。失礼ながらその説教の内容はほとんど忘れてしまったのですが、この「罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」という御言葉を聞いたことはだけはとても印象深く残っています。その説教者はわずか4〜5人のだけの聴衆に向かって、「君たちもそうだ。まだそのような信仰の戦いを経験したことがない」と言うのです。そのとき私は「罪と戦って血を流すまで抵抗する」と言うことはいった自分の信仰生活にとってどのようなことを言っているのだろうかと考え込んでしまったことを思い出すのです。
 まず、この言葉を理解するためにはこの手紙を受け取った人々の事情を考慮することが大切になると思います。おそらく、彼らは信仰のために今、激しい迫害を受けていた人たちと考えていいのです。その信仰の戦いの中で確かに血を流し、命を懸けて信仰を守り貫く人、殉教者たちが生まれました。しかしその一方でこの手紙の受け取った人たちはこの信仰の戦いの中でむしろ「気力を失い疲れ果ててしまい」(3節)、信仰を捨てることさえ考えていた人々であったと推定することができるのです。
 注解者の解説によれば彼らはこの激しい信仰の戦いの中で次のような疑問を抱いていたというのです。「神が生きておられ、またキリストが私たちの救い主であるとするなら、どうして自分たちは今このような苦難を受けなければならないのか」。「キリストを信じることによって自分たちが得たものは結局、苦しみや艱難だけではないのか」。「神は私たちの苦しみに対して無関心で、ただ放置されているのではないのか」。彼らはこのような疑問の中で気力を失い疲れ果てて、信仰を捨ててしまおうとさえ考えていた人たちであったと言えるのです。
 しかしこの手紙の著者はこれらの疑問に対して、彼らが期待している神の約束された祝福はむしろこの信仰の戦いを通して彼に与えられることを教えます。そして、この手紙は読者に対してこの神の祝福を受けるために今与えられている苦難を耐え忍ぶこと、つまり忍耐の必要性を教えているのです。言葉を変えて言えば、信仰の戦いとそれに伴う忍耐が要求されない信仰生活を求めようとしても、神の約束された祝福はそこでは見つけ出すことはできないとこの手紙の著者は読者たちに語っているのです。

2.競技を走りぬくために
(1)私たちを取り囲む応援団

 それではこの神様の約束された祝福を私たちが受け取るためには、私たちはどのように信仰の戦いを戦い抜き、またどのように忍耐すべきなのでしょうか。実はそのことを私たちに示すために、この手紙の著者はこの前の11章の部分で旧約聖書に登場する「信仰の証人」を登場させているのです。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」(1節)。

私たちが先週学んだアブラハムやサラは私たちの信仰の戦いのためにそのよき模範を示している人たちであるとこの手紙は紹介しているのです。彼らがもし、信仰の戦いを回避し、また忍耐せずに神の言葉に従っていなかったなら、また地上の価値観やこの世の人間たちに従ってしまったとしたら、彼らは約束された祝福を受けることはできなかったと教えているのです。
「おびただしい証人の群れに囲まれている」とヘブライ人の手紙は語ります。もちろんこの証人は11章に登場する人たちだけに限られてはいるのではありません。信仰の歴史、教会の歴史を調べるならそこには「おびただしい証人」の存在があると言うのです。興味深いのはこの証人たちが私たちを「取り囲んでいる」とここで言われている点です。
 先日、いよいよギリシャでオリンピックが始まりました。日本からもたくさんの選手団が参加し、メダルの獲得を狙っています。しかしギリシャに向かったのは選手だけではありません。選手を応援するためにたくさんの人がギリシャに行っています。この手紙では私たちの信仰の戦いを励まし、応援するためにこの証人たちが私たちを取り囲んでいると言うのです。アブラハムやモーセが私たちの信仰の戦いを応援するために私たちを取り囲んでいると教えているのです。

(2)余計なものをかなぐり捨てる

 「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(1節後半)。

 ここでは私たちの信仰の戦いが「競争」として喩えられています。まさに、私たちはあのオリンピックの選手たちと同じだと言うのです。よく古代オリンピックの姿を描いた絵を見ると、当時の競技者たちがほとんど裸の姿で出場している様子を見ることができます。現代の考え抜かれたスポーツウェアーと違って、映画などに登場する古代ギリシャの人々が来ている衣服であるなら、裾が絡まってとても競技をするには邪魔になってしまうに違いありません。だから、彼らは着ているものをかなぐり捨てて、裸になって競技をしたのだと思います。
 信仰の戦いでも同じであるとこの手紙は私たちに語ります。神の約束を信じる私たちの信仰生活において、不必要なもの、あるいは返って邪魔になるものがあるならそれを捨てることが大切だと教えるのです。これは決して捨てること時代が目的になるのではありません。神様の約束に従って生きることが目的なのです。そしてこの約束に従うなら、私たちは私たちが捨て去ったものに比べることのできない祝福を神様から受けることができるのです。その事実を私たちを応援するために取り囲んでいる「信仰の証人たち」は私たちに教えているのです。

(3)イエスを見つめる

 さて、この手紙は私たちが信仰の戦いを最後まで戦い貫くために、つまりこの競争を走りぬくためには余計なものを捨てるだけではなく、もっと大切なことがあると次のように語ります。
 「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(2節)。
 「イエスを見つめながら走る」。それが私たちに求められている最も大切な点です。ここで語られている「見つめる」と言う言葉は「注意深く観察する」とか「計算する」という意味を持ったものです。ですからただ漠然として見つめるのではなく、一生懸命に自分の精神を集中して見つめるということを言っているのです。一流のスポーツ選手は競技の技術だけではなく、この精神集中に非常に長けていると言います。集中するとそれ以外のものは目にも耳にも入らなくなると言うのです。それを考えると「余計なものを捨てる」とは、むしろこのイエスを見つめるときに必然的に起こることを言っているとも考えることが可能です。なぜなら私たちがイエスを見つめるなら、それ以外のものは自然と見えなくなるのです。
 それではこのイエスを見つめるとき、私たちはそこで何を理解すると言うのでじょうか。それはイエス御自身が苦難を受け、忍耐することによって、天で輝く栄光の座を得ることができたということです。つまりイエスこそが最も優れた「信仰の証人」だと言うのです。
 このイエスを見つめるなら「どうして信仰を得たのに、苦しみや艱難だけが襲ってくるのか」という疑問に、はっきりとした答えが与えられると言うのです。つまり、私たちも信仰の戦いを戦い抜き、耐え忍ぶならば、キリストと同じような栄光を受けることができると言っているのです。

3.信仰の創始者であり完成者である方によって走り抜ける
(1)私たちの確かな導き手イエス

 
ここでイエスは「信仰の創始者また完成者」であると言われています。この「創始者」と言う言葉は他の日本語聖書の訳では「導き手」と言う言葉になっているものもあります。私たちの信仰の戦いではこれからどのようなことが起こるか分かりません。そのような不安を私たちは抱くことがあります。「そのとき自分はどうしたらよいのだろうか」と私たちは深刻に悩むこともあるのではないでしょうか。しかし、聖書はそのような私たちの先頭に立ってイエスご自身が私たちを導いてくださると教えているのです。ですから、私たちはこれから起こることを心配するのではなく、このイエスに従ってついていくことが大切なのだと教えるのです。このように私たちの信仰生活の導き手は、最も信頼できるイエス・キリストご自身なのです。
 またここでイエスは「信仰の完成者」とも呼ばれています。私たちの信仰の戦いはまだその途中にあります。しかし、イエスは既にその戦いを立派に戦い貫いてゴールに入られているのです。未完成の者が未完成の者を導いたとしても、そこで本当に完成に至ることができるかどうか確実ではありません。しかし、イエスはこの信仰の戦いをゴールまで走りぬいた完全な完成者なのです。この方に従うならば私たちの信仰生活は失敗に終わることはないのです。

(2)苦難の中にこそ共にいてくださるイエス

 だいぶ前に航空機事故で亡くなられた歌手の坂本九さんの歌った「上を向いて歩こう」という歌が世界に広がっていった軌跡をたどる番組がNHKで放送されていました。日本の歌手の歌ったレコードがイギリスのジャズ演奏家の手に渡り、その曲がカバーされて「すき焼き」という名前で演奏され、イギリスでヒットします。それが原因でやがてこの曲がアメリカに紹介され、アメリカではむしろもともとの坂本九さんが歌った日本語の歌が売り出されヒットし、ミリオンセラーになったというのです。
 この番組は坂本九さんの娘さんが案内人として出演して、この曲にまつわる人々に会っていく構成になっていました。その番組の中で、彼女は最初にイギリスでこの曲をカバーしたジャズ演奏家ケニー・ボールという人物と会います。彼は今も現役でコンサートを開いていて、坂本九さんの娘さんはこのコンサートの会場を訪れます。そしてケニー・ボールから突然、一緒にステージの上で「上を向いて歩こう」を歌おうと誘われるのです。たくさんのコンサートの客を前にして彼女は「とても緊張した」と語っていました。しかし、彼女はその言葉に続けて、次のように語るのです。「でも、歌っているとき、父が自分と一緒にいるような気がした…」。彼女にとってこの「上を向いて歩こう」という歌は亡くなった父、坂本九さんと同じような存在であったのだと思います。だから彼女はこの歌を歌っている最中も、「自分の父が一緒にいる」と言う実感を感じることができたのです。
 私はこのヘブライ人への著者も私たちとイエスとの関係において、これと同じようなことをここで教えているのではないかと思います。イエスの生涯において信仰の戦い、そして忍耐は彼の生涯全体を物語るようなものなのです。そしてこの手紙の著者はその同じ信仰の戦い、忍耐が私たちの信仰生活に求められたとしたら、紛れも無く私たちはそこでこそ「今、イエスが私と共にいてくださる」と確信していいのだと教えているのです。そして、それは私たちの思い込みではなく、確かな真実であると言えるのです。
 さらにもし私たちがこの信仰の戦いを戦い貫き、また忍耐することができるとするならば、それは苦難の中で私たちと共にいてくださるイエスの力にあると言えるのです。なぜなら「信仰の創始者また完成者」であるイエスは私たちを必ず神の約束された祝福へと導いてくださる方だからです。この方が私たちと共にいる限り、私たちは「気力を失い疲れ果ててしまう」ことはないのです。だからヘブライ人への手紙の著者は私たちに「キリストを見つめなさい」、そこにすべての鍵が隠されていると教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちもまたこの地上において信仰の戦いの中に生きています。この世の人々や地上の価値観は私たちに信仰を捨てて、自分たちと同じようになることを求めています。しかし、私たちはそこには本当の希望も祝福もないことを知っています。どうか私たちに聖霊を遣わして、イエスを見つめ、イエスに従う信仰を与えてください。私たちの信仰の創始者であり、完成者であるイエスが私たちを導いてくださるのですから、信頼してイエスに従うことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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