1.試練の中で思いだすべきことは何か
ナチスドイツが作ったユダヤ人強制収容所に自らも収容され、そこでの記録『夜と霧』を記したユダヤ人の精神科医ビクトル・フランクルは日本でもたくさんの著書が紹介され、多くの人に知られています。彼は精神科医として苦難の中で苦しんでいる人々の心を癒すために「ロゴセラピー」という治療方法を提唱しました。一口に言って「ロゴセラピー」とは苦しんでいる人が自分で今、遭遇している問題に対して積極的な意味を見出すことができるように援助する治療法であると言ってよいかもしれません。フランクルが度々、主張したことは「人間は出来事の意味を求めている」ということです。そしてその意味を人間が見出すとき、その人は苦難の中でもそれに耐ええる力を発揮することができると言うのです。
あるときフランクルの元に治療を求めてやってきた老婦人がいました。彼女は何年か前に長く連れ添った夫に先立たれ、一人ぼっちの生活をしていました。彼女にとって夫のいない生活は、生きる意味のない耐え難い生活でしかなく、そのために心も体も深く病んでしまっていたのです。彼女の辛い毎日の生活に耳を傾けていたフランクルはこんな質問をその婦人に問いかけました。「もし、あなたがご主人より先に、死んでしまっていたとしたら。ご主人だけが一人ぼっちでこの世に取り残されてしまったとしたらどうなっていたでしょうか…」。彼女はすぐに「たぶん夫は私の今の苦しみと同じような苦しみを味わっていたに違いありません」と答えます。フランクルはその答えを確認した上で「それでは、あなたは今、ご主人が受けるはずだった苦しみを、代わって担っておられるのですね」と語ったのです。そのとき彼女は「そうですは、私は今、夫に代わってこの苦しみを引き受けているのですね。私は今、愛する夫のために生きているんだは」と理解したと言います。フランクルのロゴセラピーの過程の中でこの老婦人は何の意味もないと考えていた毎日の苦しい生活に、「夫に代わって苦しみを引き受けている」、「夫のために今、自分は生きている」という意味を見出すことができたのです。そして彼女はその意味を見出すことで、生きる力を得ることができたと言うのです。
2.鍛錬される神
(1)試練の意味は何か
何回かに渡って私たちが学んでいるヘブライ人の手紙の受取人たちも、激しい試練の中に立たされ苦しんでいた人たちでした。彼らはイエス・キリストを信じる信仰生活を得たことで、地域社会や様々な人間関係の中での対立に出会い、迫害を受けていたのです。さらに神様に祈っても、また、自分たちでいろいろな解決策を考え出して見ても、問題は一向に収まる気配がないばかりか、激しさを増して行ったのです。そのような中で彼らは「気力を失い疲れ果てて」(3節)しまいかねない状況に立たされていました。そこでヘブライ人への手紙は、今、彼らが受けている試練は彼らが神の約束の祝福から遠ざかっていることを意味するのではなく、むしろ、その祝福に向かってまっしぐらに進んでいる印なのだと教えたのです。その上で彼らに、そのゴールに向かってよそ見をすることなく走り通すべきであると薦めているのです(1〜3節)。
今日のところでヘブライ人の手紙は続けて彼らの遭遇している試練について意味を別の観点から教えようとしています。つまり試練の中にある彼らは今、神様の鍛錬を受けているのであって、その鍛錬は彼らを神が自分の子として認め、愛しておられる証拠なのだと教えるのです。
(2)答えは聖書の中に語られている
「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」」(5〜6節)。
古い日本映画では親に厳しく扱われたとき小さな子供が「きっと、自分はあの親の本当の子供ではないから、こんな扱いを受けるのだ。自分は赤ん坊の頃、橋の下かどこらかで捨てられていたのを、今の両親に拾われてきたに違いない」と考え込むシーンが登場しますが。もしかしたら、そのようなことを皆さんも一度は考えられたことがあるかもしれません。「どうして自分の親は自分に対してこんなに厳しくあたるのだろう…」。そう考えると自分の親子関係を疑わざるを得ないのです。ひょっとしたらヘブライ人への手紙を受け取った人たちも神様と自分たちとの関係を疑い始めていたのかもしれません。「本当に神様は私たちを愛しているのだろうか」、「神様は自分たちがどうなってもいいと思っているのではないか」と。しかし、そのような疑問を抱く彼らに対してヘブライ人への手紙の著者は旧約聖書の箴言3章11〜12節を思い出すようにとここで薦めます。この箴言の言葉によれば、神様は私たちを本当の子供として扱われているからこそ、このような鍛錬の機会を与えておられるのだと教えているのです。つまり彼らの抱く疑問に神様は聖書を通してすでにはっきりとした答えを与えてくださっていると語るのです。
(3)本当の子供だからこそ
「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」(7〜8節)。
聖書の中に登場する神様が私たち人間に下す最も厳しい裁きは「人間をなすがままにさせる」と言う裁きです(ローマの信徒への手紙1章24、26節)。なぜなら、私たち人間は神様に救っていただかない限りは、自ら進んで悪を行うことを選び取り、永遠の滅びにまっしぐらに進んでいるからです。私たちは何もしないでほっておけばそのままで必ず滅んでしまう運命にあるのです。
しかし、神様は私たちが滅びることではなく、生きること、命を受けることを望まれました。だからこそ、私たちのためにこの地上にイエス・キリストを救い主として遣わしてくださったのです。私たちはこのキリストによって今、神様の子として取り扱われています。そして私たちが神様の子となった証拠がこの鍛錬にあるとヘブライ人の手紙は私たちに教えているのです。つまり神は私たちを本当の子供として取り扱っておられるのだから、試練の中でもその神様との関係を疑う必要はないのだと語るのです。
3.鍛錬によって何を得るか
(1)成熟した霊の父の鍛錬
「更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか」(9節)。
昨今、私たちの日本では親による児童虐待の問題が多く取り上げられるようになっています。虐待を受けて重症を負ったり、命を落としてしまった子供の親は必ずと言っていいほど「あれは虐待ではなく、躾けのためにやったのだ」と自己弁護を繰り返します。また、このような事件を起こすまでに至らなくても、地上の親は子を十分に鍛え上げることのできない弱さを持っています。それは子供たちの親自身が正しく鍛え上げられずに未成熟のままに大人になってしまった結果かもしれません。このような意味で地上の肉の父には限界があります。しかし、私たちの真の親、つまり「霊の父」である神様は未成熟な方では決してありません。ですから、その方は私たちにどのような鍛錬が必要であるかをよく知っておられるのです。だからこそこの手紙の著者はこの霊の父を信頼して、その鍛錬に服従しなさいと読者に語りかけているのです。
(2)鍛錬の目的は何か
それでは私たちはこの霊の父の鍛錬を通して何を得ることができるのでしょうか。霊の父はどのような目的のために私たちに試練を与え、それを通して私たちを鍛錬されようとするのでしょうか。
「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」(10節)。
私たちがイエス・キリストを救い主として信じたとき、私たちはそのとき天国行きの列車の切符を手にしたと譬えることができるでしょう。この切符があれば私たちは必ず天国に行き着くことができるのです。しかし、私たちはまだこの旅行に必要な身支度を整えてはいません。まだ私たちは天国に持って行くには不必要な重荷を背負い込んでいる一方で、必要なものを十分に整えていなのです。しかし、心配はいりません。なぜなら、その準備を神様は私たちに遣わされる聖霊の働きを通して整えてくださるからです。この聖霊の働きによって私たちはやがて「キリストに似たものとされる」とされるのです。そしてこの手紙はこの準備を神様は鍛錬を通して私たちに与えてくださると教えているのです。「御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」と言っているようにです。
この際、間違ってはいけないことは、私たちはこの鍛錬を経て神様の子とされるのではなく、むしろイエス・キリストによって子とされたからこそ、この鍛錬を受ける資格を持っているということです。
(3)神と共に生きる祝福
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(11節)。
この手紙の著者はこの神様の鍛錬について大変現実的な解釈を語っています。鍛錬はそれを受ける人にとって「喜ばしいものではない」し、それを受けるときはむしろ「悲しいもの」と思われると言うのです。イエスに救われているのなら毎日が喜びで満たされ、一切の悲しみから解放されるとは教えていないのです。むしろ、真のクリスチャン生活にはこの主の鍛錬によって「苦しみ」と「悲しみ」が伴うと教えているのです。しかし、それでも私たちは希望を失うことはありません。なぜなら神はこの鍛錬を通して私たちに必ず「義という平和に満ちた実を結ばせて」くださるからです。この義は神様の観点から見れば「私たち人間を救う神様の義さ」と考えることができますし、人間の側から見れば「神様に相応しい人間の義さ」と考えることができます。つまり、この二つを合わせて考えれば神の救いによって、私たちが神に相応しいものと変えていただくことで神様と共に生きることができるようになる祝福と言っていることになります。ですから神の鍛錬はこのような祝福を私たちが受けることができようにさせるものなのだと言うのです。
4.試練の中でも神の愛を確信する
使徒パウロはローマの信徒への手紙8章35〜39節の中で次のような言葉を私たちに語っています。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(略)しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
祝福に満ちた順境のときに私たちは神様の愛を感じて、神様に感謝を捧げることができます。しかし、自分が予想もしていなかった逆境に私たちが遭遇したときはどうでしょうか。私たちはそこで神の愛を感じることができるのでしょうか。今日のヘブライ人への手紙は「そのときもそれができる。いや、私たちは逆境のときこそ私たちに対する神の愛を確信することができる」と教えているのです。その理由はどうしてでしょうか。それは私たちの信仰の創始者であり完成者であられるイエスが私たちのために既にその救いを十字架を通して成し遂げてくださり、私たちを神様から引き離そうとするすべての敵に勝利してくださったからです。だからこそ、私たちはむしろ私たちの生涯に起こる様々な出来事を私たちが神様の神聖にあずかるために、また義と言う平和に満ちた実を結ばせるために与えられている鍛錬だと確信することができるのです。この手紙は「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」(12〜13節)と信仰の歩を続けて行くようにと呼びかけているのです。
【祈り】
天の父なる神様
私たちに救い主イエス・キリストを遣わし、その救いの御業によって私たちを子としてくださり、私たちを神様から引き離そうとするすべての力に勝利してくださったことを心から感謝いたします。さらに私たちに聖霊を遣わして、私たちをあなたに相応しいものと変えてくださることに感謝いたします。また、御言葉を通して試練や逆境の中にあっても、それはあなたが私たちを子として愛してくださっている証拠であることを教えてくださりありがとうございます。私たちは真に弱い者です。どうか私たちに試練と逆境に耐え抜く力を与え、あなたの鍛錬に喜んで従うことができるようにしてください。今、苦しみの中でその意味を見失い、生きる力と希望を失いかけている人の上に、あなたが救いの御業を豊かに示し、希望を与えてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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