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礼拝説教 桜井良一牧師
「罪人を救うために」

2004.9.12)

聖書箇所:テモテへの手紙一1章12〜17節
12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々
の手本となるためでした。
17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

1.伝道者パウロとテモテ
(1)若き伝道者の苦悩

 今日はパウロの記した「テモテへの手紙一」から学びます。この手紙は伝道者パウロが若い伝道者テモテに宛てて記した手紙と考えられています。この手紙の受取人であるテモテの働いた教会では様々な問題が起こっていました。特に彼がまず戦わなければならなかったのは、キリストの福音を全く違った教えに変えよとする異端者たちとの戦いです。テモテは彼らとの戦いの中で、自分に委ねられた教会を守り、そこに集う人々をよき信仰者として育てる任務を負っていたのです。しかしその難しい働きに対してテモテはまだ経験の浅い若き伝道者だったためにたいへんに苦労していたようです。彼は教会のために懸命に働き、むしろそのために心も体も弱っていたようです(5章23節)。そこで、パウロはこの若き伝道者を励まし、助けるためにこの手紙を記したのです。

(2)伝道者としての実力はどこから

 さて、テモテはこのように厳しい状況の中で伝道者としての自分の実力が試されるような立場に立たされ、相当な苦戦を強いられていました。そこでまずパウロは自らの経験をもとに伝道者の実力がどこからやってくるのかを教えています。

 「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」(12節)。

 パウロは伝道者としては、たいへんな実力を発揮した人物であると言えます。彼の伝道範囲は現在の小アジアからイタリアにまで至るものでした。パウロのこの伝道によって各地で新しい信者が生まれ、たくさんのキリスト教会が建てられました。また、今日のテモテへの手紙もそうですが、私たちの読んでいる新約聖書の多くの部分がこのパウロによって書かれていると信じられています。パウロがもしこの世に存在しなかったら、おそらくキリスト教の歴史も変わっていましたし、大切な聖書でさえ変わっていたと言えるでしょう。つまり私たちのキリスト教会にとってパウロは無くてはならない重要な人物であったのです。
 しかし、パウロはその伝道者としての自分の実力が本当はどこから来たのかをここでまず語るのです。「私を強くしてくれたのは主イエス・キリストである」。つまり彼は「私にこのような実力を発揮するようさせてくださったのはイエス様です」と語るのです。なぜなら、パウロはこの主イエス・キリストによって伝道者とされ、福音を宣べ伝える使命を与えられたからです。言葉を変えて言えば、イエス様はご自身の働きをこの地上に成し遂げるためにこのパウロを選び、彼を使って様々な業を成し遂げてくださったのです。つまり、パウロの発揮した実力は彼をお使いなったイエス様の実力であり、その働きの結果であったと言えるのです。
 パウロはこの言葉を使って若き伝道者テモテを励ましています。「主イエス・キリストは今、あなたを使ってその実力を発揮されようしているのだから、気を落としてはいけない」と慰めるのです。

2.律法主義者パウロ
(1)信仰の実力がある者が救われる

 「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」(13節)。

 しかし、このパウロも以前はイエス様の力ではなく、自分の実力、自分の力を誇って生きる人生を送っていた人物でした。彼は当時のユダヤ人としては最も模範的な「律法主義者」としてその半生を生きてきました。律法主義は確かに外面では神様の戒めを熱心に守ることに勢力を注ぎ込みます。しかしその心の内面は神の力を信じるのではなく、むしろ自分の力を信じ、その力を人々に示すことに関心の中心が置かれていたのです。ですから、そのような信仰生活では神様の戒めを守ることのできる強い人と、そうでない弱い人の違いがはっきりと生じてきてしまいます。そして律法主義者は信仰の実力を示すことができる自分たちを「強い者」と考え、神様は自分たちだけを愛し、救いを与えてくださると信じていたのです。その反対に彼らは実力のない弱い者を神様は憎まれ、滅ぼされると考えていたのです。

(2)律法主義者の敵

 ところが主イエス・キリストがこの地上にやって来られて一番に関心を示されたのはこの実力のない人たち、つまり律法主義者たちが「信仰が弱い者」と考え、軽蔑していた人々だったのです。そのためにイエス様と律法主義者との間に対立が生まれてしまいます。そしてこの対立はイエス様が天に昇られた後も続きました。律法主義者たちはイエス・キリストを信じる人々を目の仇として、生まれて間もないキリスト教会を迫害したのでした。
 パウロはこのキリスト教会迫害の先頭に立って活動した人物でした。使徒言行録にはこの教会の迫害者パウロの活動の一部が記されています。彼はキリスト者を捕らえ、投獄し、ときにはその殺害にまで加わった人物だったのです。ですからここでパウロが自分のことを「わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」と語っているのは、彼のそのような事情を説明しているのです。

3.パウロが知ったものとは

 興味深いのは彼がここで迫害者として生きた自分の行動の原因を「信じていないとき知らずに行ったこと」と語っている点です。彼はいったい何を知らなかったと言っているのでしょか。どうして今までは信じていなかったと語るのでしょうか。パウロは子供のときから、聖書を学び続け、成人してからはその聖書を人々に教える教師となっていた人物です。おそらく彼の聖書知識は誰にも劣ることのないものだったと言ってよいでしょう。彼は信仰への熱心のあまりキリスト教会を迫害したのではないでしょうか。しかし、パウロはここで自分は「知らなかった」と語り、むしろ今までは「神様を信じていなかった」とまで断言しているのです。
 現在でも聖書はたくさんの人々に読まれています。たくさんの人が「聖書は自分の人生の指針を示す書だ」と考えています。また、意識的な無視論者は別として多くの人が「神様を信じている」と言っています。しかし、このパウロの言葉を借りればそれだけでは神様を信じていることにはならず、聖書を知っているとは言えないのです。

 「そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」(14〜15節)。

 パウロはここで本当の知識、また本当の信仰とは何かを私たちに教えています。本当の知識を得るとはイエス・キリストを通して神様が示してくださった福音を知ることを言うのです。神はすべての人を救われるためにこの地上にイエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。このイエス・キリストを信じるならどのような人も救いを受け、神の子とされることができるのです。パウロが今まで知らなかったことはこのことでした。そして、パウロはこのことを主イエス・キリストとの出会いを通して知らされ、律法主義者から神の恵みを信じるクリスチャンへと変えられたのです。

4.罪人の頭から人々の手本へ
(1)罪人の頭

 パウロはここで自分を「罪人の中で最たる者」と述べています。以前の聖書では「罪人のかしら」とここは訳されていました(聖書協会口語訳)。言い換えればパウロは「罪人の親分」とでも言ってよいでしょうか。この言葉は彼が自分の罪の深さ、重さを他の人に比べて量って言っているのではありません。そうではなく、彼がかつてキリスト教会を迫害し、キリスト自身を迫害しようとした者であることを語っているのです(使徒9章4節)。キリストを迫害することとは、神の救いの計画に正面から敵対することです。神に敵対し、その計画が実現することを最も喜ばないのはサタンです。つまり、パウロはかつてこのサタンの手先として働いてきたとも考えることができるのです。
 しかし、キリストはそのサタンの手先であり、「罪人の頭」であったとも言えるパウロを救い出したのです。最も救い出すのが困難と見えたパウロを神はイエス・キリストを通して見事に救ってくださったのです。

(2)人々の手本

 「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(16節)。

 この自分を通してなされた神様のみ業には大きな意味があったとパウロは続けて説明します。自分のような「罪人のかしら」とも呼べる人物が救われたのは「この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」と彼は語るのです。
 ここでパウロは自分のことを「手本」と言っています。私の父はよくお風呂の中で「手本は二宮金次郎」という昔の歌を歌っていたことを思い出します。「貧しい生活の中で親孝行をし、兄弟と助け合って、家業に勤しみ、その傍らで学問に励んだ二宮金次郎(尊徳)のようになりなさい」という戦前の修身の授業で歌われた歌のようです。学校の片隅に建てられていた薪を背負いながら本を読んでいる二宮金次郎の銅像の姿を思い出す方もあるでしょう。戦前の人々の手本はこの二宮金次郎であり、努力は人の最大の美徳と教えられました。その反面で努力を怠って生きる人を軽蔑する傾向があったかもしれません。
 しかし、ここでパウロが自分のことを「手本」と呼ぶとき、それは人間の努力の見本を示すものではまったくありませんでした。むしろ、この手本は神の努力、神の誠実さ、神の恵みを私たちに示す「手本」だったのです。
 テレビの通販番組でよく実演販売人がその製品の性能の良さを観客に示すことがあります。そのとき彼らはどこから持ってきたか分からないような汚い洗面器や換気扇の羽を示して、「こんな汚れは、普通の洗剤では落とせませんね。無理にこすれば余計、汚れが広がるだけです。いままでは、こうなるともう捨てて、新しいものを買い求めるしかありませんでした…」と観客に訴えます。ところが実演販売人は次に「見て、見て、見て…」とその製品でさっとその汚れたものをひと拭きすると、汚れがたちどころに落とされて「どうですか新品みたいでしょう」と言うことになります。
 パウロがここで自分を手本と言っているのは自分をこの汚れた洗面器や換気扇の羽と同じだと言っていると考えてよいと思います。「もうどうしようもない。捨てて新しいのにするのが手間もかからない」。そう思われていた存在がかつての自分だったと彼は語るのです。しかし、キリストの贖いはそのパウロの罪の汚れをたちどころに落としてくださったとのです。神様は罪を犯し続ける人間を捨てて、ご自身の栄光を表す被造物を新しく創り出すことができる方なのです。しかし、それを神様はされないで、汚れて、捨てられるしかないような私たち人間をイエス・キリストによって新しくされるのです。パウロはこの神様の救いのみ業の「手本」であると自分を紹介しています。この言葉はギリシャ語言語により忠実に訳せば「試作品」と読める言葉です。つまりパウロはキリストを信じて、救いを受ける人々の試作品であるとまで語っているわけです。

5.神の実力は私たちのすべてを用いて現される

 最初に私たちはパウロの伝道者としての実力は素晴らしいものであるが、それはすべて神様から来たものであったことを学びました。最後にこの実力についてもう一度考えてみましょう。
 私の家で購読している小学生新聞に「禁止されている『強くなる薬』を使う」という見出しで、アテネオリンピックで金メダルを獲得しながらドーピング疑惑でそのメダルを剥奪されたルーマニアの選手のことが紹介されていました。人はいつも自分の実力を示そうと努力します。オリンピックの金メダルはスポーツ選手にとってその実力を示せるもっとも素晴らしいものなのでしょう。ルーマニアの選手はその実力を示すために、禁止された薬物で強くなろうとしたという疑惑が掛けられているのです。彼は検査を受けて自ら潔白を示せばよかったのに、それをしなかったのです。そのためやはり彼は何かを隠そうとしているという疑惑が残ったのです。しかしこの事件は自分の実力を示したいと思う人間の姿をよく表しているように思えます。なぜなら人は自分の実力を示そうとする一方で、それには都合の悪い何かを必死になって隠そうとする傾向があるからです。
 しかし、パウロはそうではありませんでした。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」。「わたしは、その罪人の中で最たる者です」。これらのことは本来、自分の実力を示そうとする人なら恥ずかしくて隠したくなるような部分です。しかし、それを彼は隠しませんでした。むしろそのことを公に告白してはばからないのです。それはどうしてでしょうか。彼はここで自分の実力ではなく、神の実力を示したいと願っていたからです。イエス・キリストによる救いの素晴らしさを示したいと願っていたからです。そして彼は「私はこの神様の実力、イエス・キリストの救いの素晴らしさを示すための『試作品』です」と語っているのです。
 伝道者テモテは自分の教会での困難な働きの中で自信を喪失しかけていたかもしれません。もしかしたら他の伝道者と比べて自分の実力のなさを嘆いていたのかもしれません。しかし、パウロはここでテモテに自分の姿を示すことで、神の実力を教えよとしているのです。神の力は素晴らしい、どんなに可能性がないように見える者をも新しくすることができる。自分の力を誇る人物なら恥ずかしくて隠したくなるような弱さや欠点、失敗をむしろ用いて、ご自身の計画を成し遂げることができる方である。そう教えることでテモテを励まし、また、同じように聖書を読んでいる私たちをパウロは励ましているのです。

【お祈り】
天の父なる神様
私たちのような罪人を救い、永遠の命にあずからせてくださったあなたのみ業を褒め称えます。あなたは私たちのような罪人の死を喜ばず、私たちに永遠の命を与えるために御子イエス・キリストを遣わして、その救いのみ業を通してあなたの全能のみ力を豊かに示してくださいました。
自らの人生の上に表されたあなたの豊かな恵みを語り続けたパウロのように、私たちもあなたの素晴らしさを語ることができますようにしてください。私たちをもあなたの「試作品」として用いてくださり、「罪人を救う」キリストの福音の真実さを証しすることができますように。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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