Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
愛する兄弟として迎え入れる

2004.9.5)

聖書箇所:フィレモンへの手紙9〜17節
9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。
10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。
11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。
12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。
13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、
14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。
15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。
16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

1.現実的な愛と赦しを教える手紙
(1)「愛と赦し」は不可能か?

 少し前、社会保険庁が作った「国民年金に入りましょう」というテレビコマーシャルに出演していた女優さんが実際には自分が国民年金に未加入だったということで大騒ぎになったことがありました。ところがこの騒ぎはそれだけでは収まりませんでした。次に「それはけしからん、国会に呼んで証人喚問すべきだ」と大きな声を上げていた国会議員も実は自分も年金を払っていなかった時期があったということで、さらに問題が拡大しました。結局はこの問題で日本の国の政治までが大混乱になってしまいました。おそらく、この議論が今は下火になっているのは問題が解決したからではなく、誰もこの問題を正面から究明することができない弱さを持っているからではないでしょうか。
 今日は聖書から「愛と赦し」について学ぼうとしています。私たちはよく「あの人は愛が足りない」とか「人を赦していない」と批判することがあるかもしれません。しかし、もしその矛先が自分に向けられたとしたら、胸を張って「自分は大丈夫」と言える人がいるでしょうか。むしろ私たちがこの問題を進んで語ろうとしないのはその矛先が自分に向かないように、用心しているからかもしれません。

 世界平和を声高に叫んでも、隣人や自分の家族を赦すことができない、そんな矛盾を持っているのが私たち人間ではないでしょうか。しかしそれでは聖書の語る「愛と赦し」の薦めは私たちにとってあくまでも理想であり、お店のディスプレイに並ぶ見本品のようなものでしかないのでしょうか。今日はこのことについてパウロの記したフィレモンへの手紙から学んでみようと思います。なぜなら、この手紙には具体的な事件と人物に適用された「愛と赦し」の勧めが語られているからです。

(2)パウロ、フィレモン、オネシモ

 この手紙はパウロの記した手紙の中で最も短いものです。しかも、この手紙の特徴は文章の短さ以上に、その内容が極めて個人的事情を取り上げているところにあります。この手紙を書いたのは今申しましたように伝道者パウロです。そしてこの手紙の受取人はフィレモンという人物で、この手紙の内容から察すると彼はパウロの協力者、つまり彼の伝道を助けていたクリスチャンであったことがわかります(1節)。パウロの言葉によれば彼はクリスチャンとして仲間たちを愛し、善き証を立てていた人物であったようです。ところがこの手紙にはもう一人重要な人物が登場しています。その人の名前はオネシモです。彼はもともとこのフィレモンの家に仕える奴隷でしたが、どういう理由か分かりませんが主人の元を逃げ出し、さらにはその主人に多額の損失を負わせていた人物であったと言うのです。おそらく、オネシモは逃亡の際にフィレモンの家の財産を持ち逃げしたのではないかと考えられています。
 さらに手紙を読んでみますとこのオネシモは逃亡中にパウロと出会い、彼の伝道によってキリストに導きかれ、おそらく当時、エフェソにおいて捕らわれの身であったパウロを助ける協力者になっています。パウロはこのオネシモを「わが子」(10節)と呼ぶほどに愛していたようです。パウロはこの手紙の中でこの逃亡奴隷であったオネシモをフィレモンの元に帰すという知らせを記しています。そして、パウロはこの手紙の中でフィレモンにオネシモのことを赦し、愛する兄弟として受け入れて欲しいと願っているのです。ですから、この手紙には具体的、また現実的に「愛と赦し」を必要としていたオネシモが登場し、そのオネシモを「愛と赦し」をもって受け入れることを求められたフィレモンという人物たちが登場します。つまり、この手紙にはディスプレイの中に飾られているものではなく、現実的な「愛と赦し」の問題が取り上げられていると言えるのです。

2.奴隷制を超える愛の関係
(1)制度を否定しないパウロ

 私が以前、近くのディスカウントストアーで一万円もしないカラーテレビを買ってきたときにヤング宣教師はそのテレビの安さに驚いて「このテレビは奴隷が作っているのですか」と冗談で言われたことがありました。私たち日本人にはちょっと思いつかないジョークですが、アメリカでは奴隷解放令が1863年に公布されていますから、今から140年近く前までは確かに奴隷制度が存在していたことになります。もちろん、パウロの時代の奴隷とアメリカの農場で働かされていた奴隷はいろいろな事情の違いがあるかもしれません。しかし、ヤング先生のお話などを聞いてみるとアメリカの奴隷制度を存続させようとして人たちは聖書のパウロの言葉を用いて、「聖書も奴隷制度を否定していない」と教えたと言います。
 実はこの手紙の中でもパウロは奴隷制度を積極的肯定してはいないのですが、その制度を非難してもいません。パウロはむしろ15節で「あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」と語っていますが、ここで「自分のもとに置く」と言う言葉は品物を買ったり売ったりするときに用いる言葉で、奴隷が主人の財産の一つであることを前提としている言い回しであることが分かります。つまり、パウロはここで奴隷が主人の財産の一つであるという当時の制度を前提にして語っていると言えるのです。パウロは「奴隷制度は聖書的ではありませんから、早くオネシモを解放してあげなさい」とは確かに語っていないのです。

(2)奴隷ではなく、愛する兄弟として

 しかし、それではパウロは奴隷制度肯定論者かと言えば、そうではなかったことがやはりこの手紙を読むと分かるのです。パウロは先ほどの奴隷制度を前提とする言葉に続けて次のように語っています。「その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(16節)。パウロはまずかつてオネシモがフィレモンの財産である奴隷であったことを認めつつも、ここではオネシモを奴隷ではなく「愛する兄弟」として受け入れてほしいと薦めているのです。

 もちろん人間の尊厳を傷つけるようないまわしい制度を世界から無くすことは、人間が神の形として創造されたことを知る私たちキリスト者の重要な任務の一つであると言えます。しかし、問題は制度の変更だけで解決するのかと言えばそうではないと言えるのです。制度が撤廃され、変えられても、そこには新たな差別の構造が生み出されるのが人間の歴史の現実です。ですからパウロはここで制度の限界を超える、本当の解決を語ろうとしていると考えることができます。それはフィレモンがオネシモをキリストにある愛する兄弟として受け入れることです。この新しい関係が過去のいまわしい関係を変えるもっとも相応しい方法であることをパウロはここで教えていると言えるのです。

3.神がフィレモンに求められたこと
(1)互いにリスクを伴う行動

 さて、しかしながら、いくらフィレモンがオネシモを「愛する兄弟」として受け入れることで問題は解決するといっても、このこと自体簡単なことでなかったと考えるべきです。オネシモは実際、フィレモンのもとでさまざまな問題を起こして逃亡した人物でした。パウロは「彼は以前、あなたにとって役に立たない者でした」(11節)と語っていますが、もしかしたらフィレモンにとってオネシモは憎んでも飽き足らない人物であったのかもしれません。「自分の記憶から完全に抹消したはずのいやな人物が再び自分の目の前に現れた…」。フィレモンはそんな驚きと混乱を感じていたかもしれません。それではどうしてパウロはそのオネシモを彼の元に帰そうしたのでしょうか。パウロもまた、このままオネシモを自分の手元に置いておくこともできたと語っています(13節)。しかし、パウロはそれをあえてしないでオネシモをフィレモンの元に帰すことで彼の承諾を願っているのです(14節)。当時、逃亡した奴隷が捕まると彼らは強制的に主人のもとに送り返されるのが決まりでした。その上で奴隷をどのように取り扱うかは主人の権限に任されていました。ほとんどの場合、奴隷に相当の罰が与えられるか、場合によってはその命まで奪われることもあったと言います。パウロはそのリスクを負いながらもオネシモをフィレモンの元に送り返そうとしたのです。

(2)神が求められていること

 パウロはその理由について「それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです」(14節)と語っています。つまり、パウロがオネシモをフィレモンのところに帰すのはフィレモンが「愛と赦し」を実践できる機会を提供するためだと言っているのです。
 パウロは続けてこのことについて次のように語っています。「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」(15節)。ここで「離されていた」と言う言葉は神的受動態と言って、主語を隠すことでこの出来事が神様の御業によることを示す形を取っています。つまりオネシモがフィレモンに多大の犠牲を払って逃亡したこと、そして今、クリスチャンとなって彼の元に戻ってくることはすべて神の計画に基づくものだとパウロはここで語るのです。このようにフィレモンがオネシモを「愛と赦し」を持って受け入れることは神様がフィレモンのために立ててくださった計画であるとまでパウロは語っているのです。

4.キリストの愛と赦しへの招き
(1)パウロの執り成し、イエスの執り成し

 さてパウロはこの愛と赦しの行為をフィレモンがあくまで自発的になすことを求めています。あるいは彼はここで自分の使徒としての権威を使って「オネシモを赦してあげなさい」とフィレモンに命じることもできたかもしれません。しかし、パウロはそれをしませんでした。なぜなら「愛と赦し」は強制によって、あるいは命令によっては決して生み出されることがないからです。律法がいくら「愛と赦し」を命じたとしても、私たちはそれによって「愛と赦し」を実行することはできないのです。
 しかし、パウロはあくまでフィレモンの自発性を求めていたとしても、彼は何もしなかったわけではありません。実際にこの手紙を書いたことにも彼のフィレモンとオネシモに対する愛が示されていますが、それだけではなく彼はこの問題に対して具体的な犠牲を払うことを決心しているのです。「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」(18〜19節)。パウロは当時、獄中で捕らわれの身でした。その彼がどれだけ財産を持っていたのか分かりません。いずれにしてもオネシモの負債を代わって負うということはパウロにとって簡単なことではなかったと思います。しかし、パウロは「そのオネシモの負債を自分が代わって支払うから彼を赦してほしい」と願い出ているのです。
 宗教改革者マルチン・ルターはこのことについて「キリストがわれわれのことを父なる神の前にかばいつつ執り成すように、聖パウロもオネシモのことをフィレモンに執り成したのである」と解説しています。神の前から逃亡し、さらに神に向かって罪を犯し続けることで多大の犠牲を負わせてしまった私たち人間はこの逃亡奴隷オネシモと同じです。そしてその私たちを愛し赦すため御子イエス・キリストは自分の命に代えて私たちの負債を解消して、父なる神に執り成してくださっているのです。このことを考えるときこのフィレモンの手紙は個人的事情を取り扱う手紙としてだけでなく、キリストの十字架の赦しを私たちに教える手紙だとも言うことができます。

(2)キリストの愛と赦しを知る機会

 マタイの福音書18章にはイエスが語られた「仲間を赦さない家来」のたとえが記されています。一生かかってもとても返すことのできない負債を王様に赦してもらいながら、わずかの借金を自分にしていた仲間を赦すことのできなかった人物がここには登場します。彼がもし、仲間を赦そうとしていたらどうであったかそれは推測の域を出ません。しかし、もし彼がそれを実行しようとしていたなら、彼はおそらく「自分が他人を赦すことの困難さ」を身にしみて理解したのではないでしょうか。さらにその理解はこのような困難な赦しを自分に与えてくださった王の愛と赦しの深さを理解することに彼を導いたはずです。しかし、彼は仲間を赦さないことで王の愛と赦しの素晴らしさを知る機会を失ってしまったのです。
 おそらくパウロがフィレモンに提供しようとしたのもこのことだったのではないでしょうか。フィレモンは簡単にはオネシモを「愛する兄弟」として受け入れることができなかったかもしれません。そこには心を引き裂かれるような戦いがあったかもしれません。しかし、本当に「愛と赦し」に生きようとする者は、その困難さを知れば知るほどに、自分を赦してくださった神の恵みの深さ、素晴らしさを知ることができるのです。そしてこの神の恵みの深さを知る者だけが兄弟を愛し赦す力をそこから受け取ることができるのです。
 この後、フィレモンがオネシモをどのように受け入れたかは定かではありません。新約聖書ではフィレモンの名はこの手紙にしか登場しません。しかし、オネシモの名前はパウロの記したコロサイの信徒への手紙に再び登場しています。そこで彼はパウロの「忠実な」協力者の一人として紹介されているのです(4章9節)。この記述から推測すれば、オネシモはフィレモンの元で正式に赦しを受け、再びフィレモンからパウロのもとに遣わされて、そこでパウロの忠実な協力者として働いたのだと言うことが分かります。
 この手紙は具体的な「愛と赦し」へと私たちを招いています。この困難な招きに私たちが答えるとき、私たちは私たちを愛し赦してくださったイエス・キリストの素晴らしさをさらに知ることができるのです。そしてそのイエス・キリストの愛が私たちの共同体の中で働いて、「愛と赦し」が具体的なもの、現実的なものとなっていくことを教えているのです。

[祈祷] 
天の父なる神様
あなたの前から逃亡し、あなたに背き続ける私たちのために救い主イエス・キリストを遣わし、私たちの犯したすべての負債を支払うために十字架の死をもって贖ってくださったあなたの御業に心から感謝いたします。私たちはそのあなたの愛と赦しを知りながらも、その深さ、また素晴らしさを理解することができません、そのために私たちは目の前にいる兄弟を愛し、赦すことのできない愚かな者たちであることを告白いたします。
私たちが愛と赦しに生きることができるようにしてください。願わくは、あなたの愛と赦しの深さと素晴らしさを私たちが知り、感謝と喜びに満たされて生きることができるようにしてください。どうか、私たちの信仰共同体の上にもあなたの愛を満たしてくださり、愛と赦しが実現されるところとしてください。
救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

このページのトップに戻る