1.深く憐れむ
(1)婦人宣教師の思い
以前、インドネシアに遣わされている一人の婦人の宣教師の報告を聞いたことがあります。ご存知のよう にインドネシアには小さな島々がたくさん存在しています。そのような島々には教会なく、また教会がある 島にも容易に行くことのできないクリスチャンの群れがたくさん存在しているのだそうです。宣教師は船に 乗って、そのような島々を巡り、聖書の話しをされると言うのです。そこで島の人々の大歓迎を受けて、聖 書のお話をし始めると、彼らは本当に熱心に、一言も神様の言葉を聞き逃さないようにという姿勢で彼女の 話に耳を傾けるのだそうです。そして、奉仕が終わって、また船に乗ってそのような場所を離れるときが やって来ます。その島の人々は宣教師との別れを惜しんで見送りに来てくれるのだそうです。そのような 人々の姿を見ながら、彼女はこう思ったというのです。「次にこの人たちが聖書のお話を聞くことができる のはいつになるのだろうか。誰かが彼らのために働かなければ、この人たちは福音を聞く機会を失ってしま うに違いない」。彼女が困難の中でもインドネシアにとどまり続けるのは、このように福音を聞く機会に恵 まれていない人々の姿が脳裏に焼き付いていて、彼らのために自分が働かなければという思いになるからだ とう言うのです。
(2)憐れみの心に動かされて
今日の箇所にはイエスが12人の弟子を宣教の旅に派遣する場面が登場します。そしてその直前にはイエス がその弟子たちを派遣するきっかけにもなる出来事が簡単に紹介されているのです。
「また、群衆が飼い主 のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(36節)。
イエスはご自分の周りに集まる人々を見て深く「憐れまれた」と言うのです。この言葉は前回の礼拝で福 音記者マタイの「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(13節)というホセア書の引用 の箇所にも登場しました。ギリシャ語ではこの「憐れみ」という言葉の原型になるのは「はらわた」という 意味を持った言葉です。ユダヤ人は昔から人間の感情を人間の内臓器官と関係づけて表現しました。日本語 でも強い怒りの感情を表す場合に「はらわたが煮えくりかえる」という表現がありますが、ここではイエス の内部からわき上がってくる強い「憐れみの心」を「はらわた」という言葉で表現しているのです。婦人宣 教師が福音を聞く機会を奪われている人々の姿を見て、インドネシアにとどまる決心をしたように、どうし ても何かをせざるを得ない、強い感情がイエスの心をこのとき支配したと言っているのです。この強いイエ スの感情によって弟子たちの派遣と言う出来事が起ったとマタイによる福音書は説明しているのです。
2.収穫のための働き手
(1)収穫の意味
イエスははらわたを揺さぶれるような強い憐れみの心に動かされて、弟子たちに次のように語ります。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願い なさい。」(37〜38節)。
昨年でしたでしょうか。教会の玄関ロビーにある大きなエアコンの調子が悪くなりました。前の会堂に あったものをそのまま持って来てつけましたから、相当の年季が入っているものです。見てみるとエアコン のコントローラーの液晶がついたり消えたりしますので、これはこのコントローラーの故障に違いないと思 いました。そこで電気屋さんにわざわざ、このエアコンに合った特殊なコントローラーを注文しました。し ばらくして注文通りのコントローラーが届きまして、エアコンに向けて試してみたところ、何とやはり前と 同じようにエアコンが動きません。どうにもならなくなって仕方がないので、メーカーの修理を依頼してわ ざわざ教会に来てもらいました。そうすると修理の人はエアコンについているコントローラーの受信部に問 題があるらしいと言い出したのです。私はてっきりコントローラー、つまりこちらの希望をエアコンに送る 送信部がおかしくなっていたると思っていたのに、問題は送信部ではなく受信部にあったと言うのです。
イエスのここでの言葉はこのエアコンの故障に似ています。教会の伝道が進まない、日本のキリスト教徒 の割合はほとんど増えないという事実が私たちの前に存在しています。この事実をふまえて、私たちは「神 様に関心を持つ人。神様を求めている人は少ない」と結論づけてしまいます。そこで私たちは「神様を求め る人を増やしてください。教会に来る人を増やしてください」と祈ることになります。しかし、イエスはそ の祈りは私がエアコンのコントローラーを間違って注文してしまったようなものだと言うのです。収穫を送 り出してくださる神様は豊かに送りだしてくださっているのに、それを刈り取る働き手が少ないのだと言う のです。問題は収穫を送ってくださる収穫の主である神様ではありません。その収穫を受け取る受信部に問 題があるのです。そこでイエスは「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」 とここで私たちに語られているのです。
(2)終末を実現させる宣教の業
ところで聖書が語る「収穫」という出来事には特別の意味があることを忘れてはいけません。なぜなら神 様のこの地上に対する最終的な裁き、神様の審判を語るときにこの「収穫」という言葉が聖書では用いられ るからです。働き手によって見事に収穫された畑には何も残りません。それは神様の厳しい裁きの性格を表 しています。また、収穫によって刈り取られたものを働き手は、好い実と悪い実に選り分けて、好い実を倉 に、そして悪いものは火に投げ込んで処分します。つまり、今までは猶予されていた裁きがそのときに完全 に実現し、善悪の区別がはっきりとされるのです。それではこの裁きは何のために起るのでしょうか、地上 に神の国が実現するためにです。ですからイエスはこの伝道に派遣する弟子たちに『天の国は近づいた』と 宣べ伝えなさいと命じておられるのです。
つまり、イエスの命令に従って伝道をする弟子たちの行動自身が、神様がこの地上に神の国を実現させる 御業の一つであると言うのです。弟子たちの伝道の業を通して、神はこの地上に救いと裁きを実行してくだ さると教えているのです。伝道とはこのように単にキリストを信じる人々を増やすこと、教会のメンバーを 増やすことにだけ目的が置かれるのではなく、神の救いと裁きをこの地上にもたらし、神の国を実現させる という重要な目的があるのです。だからこそ、私たちはこの使命を果たすことができる働き手が多く与えら れるように神に祈る必要があるのです。
3.弟子たちに与えられた権能
イエスの激しい憐れみの思いによって、そして神の国の実現という重要な使命を担って、ここでイエスは 12人の弟子たちを宣教の旅へと派遣します。
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あら ゆる病気や患いをいやすためであった」(1節)。
ここで彼らはイエスが父なる神から受けた権能、この地上に神様の救いを実現するために彼が父なる神様 から特別に受けた能力を弟子たちに授けられています。これは彼らがイエスに代わって、救い主の使命を遂 行するという意味よりも、イエスご自身が彼らを通して働かれることを意味しています。この福音書を記し たマタイはこの福音書の読者たちにこの事実を知らせることによって、キリスト教会が今も担っている働き のすばらしさを表そうとしています。
なぜならこのときイエスが弟子たちに授けられた権能は、いまも私たちの教会にとどまり続けているから です。言葉を換えれば、今もイエスは私たち教会の群れを通して救いの御業を実現されようとしているので す。
私たちの教会が使っている教会の法律、教会規程にはこの「権能」という言葉がたくさん登場しま す。「権能」と聞くと、私たちは「国家権力」のような私たちを押さえ込む力、私たちを支配する力という 理解をしがちです。しかし、教会規程が語る「権能」はこのような世の「権力」とは性格を異にしていま す。なぜなら、キリストの権能は私たちの世界に神様の救いを実現するために父なる神から与えられたもの だからです。ですからここでは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため」の権能だと説明 されています。この権能の力が向けられる対象は「汚れた霊」だとも語るのです。
教会規程は私たちの教会がこの権能を使ってこの世界を支配する汚れた霊を戦い、キリストの救いを実現 するために教会がどのように働くのかを教えるものです。ですから私たちが教会規程を大切にするのはユダ ヤ人の律法主義とは違い、キリストが私たちの教会を通して豊かに働かれるようにするためなのです。この ようにマタイの福音書はイエスがこの地上に救いを実現するために弟子たちに大切な権能を授けられたこ と、そしてその権能は今もキリスト教会の上に与えられていることを説明しているのです。
4.イスラエルの失われた羊のところへ
(1)異邦人伝道の禁止
最後に私たちが特に今日のところで心に止めたいのは「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のよ うに命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、 イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(5〜6節)と言う言葉です。
この言葉によればイエスが弟子たちを派遣さえる相手は、異邦人やサマリア人ではなくユダヤ人に限定さ れていたと言うことが分かります。確かに、聖書を読むとイエスと弟子たちの活動の主な部分はユダヤ人に 向けられていたことが分かります。しかし、このマタイの福音書が書かれた時代にはすでに教会の伝道は、 サマリアはもちろんのこと異邦人の世界にも広がっていたのです。そのような時代にあえて福音記者マタイ がこのイエスの言葉を書き記したことにはどのような意味があるのでしょうか。このような言葉を残すのは 異邦人のつまずきのもとになるとは考えなかったのでしょうか。
マタイの福音書の最後の部分は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは 行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがた に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にい る」(18〜20節)というイエスの宣教命令で閉じられています。ここに来るとイエスの宣教命令の対象は 「すべての民」へと広げられているのが分かります。しかし、マタイはイエスの宣教の対象が「最初はそう ではなかった」とここで語るのです。最初はユダヤ人たちにこの福音は伝えられた、しかし、ユダヤ人たち はイエスの福音を受入れることが出来なかった。むしろ、彼らはその福音を拒否して、キリストを十字架に かけることになったと福音書は説明するのです。どうして、彼らはそのような失敗を犯したのでしょうか。
(2)祭司として選ばれた国民
先日も学びましたように、イエスが罪人を招くためにやって来られたのに、ユダヤ人たちはそのイエスの 招きに自分たちは含まれないと考えました。なぜなら、彼らは自分たちを神様に選ばれている民、もう救わ れた者たちであって、罪人とは違うと考えていたからです。つまり彼らは神様に自分たちが選ばれたという 事実だけで満足してしまったので、その彼らのために父なる神様が救い主を送ってくださったのに、その大 切なことを理解できなかったのです。
そのような意味で彼らの間違えは神様の選びの意味を誤解してしまったことにあったと言えます。この礼 拝の最初に旧約聖書の出エジプト記に記された言葉が読まれました。この箇所ではイスラエルの民が神様に よって聖なる国民として選ばれた理由が語られています。神様はモーセにこう語ります。「あなたたちは、 わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(6 節)。ここでイスラエルは「祭司の王国、聖なる国民」と語られています。ここに神様がイスラエルを選ん だ理由が示されているのです。彼らはこの世界で「祭司」の役目を果たすために選ばれた国民だったので す。祭司は神様と人間の間を取りなして、その関係を回復させるために働く人々です。つまり、イスラエル は世界の人々と神様との間を回復させるために選ばれた祭司、聖なる国民だったのです。それなのに彼らは その使命を忘れて、自分たちは選ばれている、救われているというだけで満足し、救い主イエスを受入れ、 彼に従う使命を忘れてしまったのです。
マタイはこのイスラエルの選びを記すことで、今、神様から選ばれて教会に集っている私たちは自分たち に神様から与えられた使命を忘れてはならないと教えるのです。私たちが今、選ばれて神様の救いにあずか ることができたのは、私たち自身のためにだけではなく、この祭司としての使命を果たすためでもあると言 うのです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫 の主に願いなさい。」とイエスは教えました。しかし、マタイは次にこの12人の弟子たちの派遣を説明しな がら、この祈りへの答えによって、私たち自身が今神様に選ばれていること、私たち自身が収穫の働き手と してキリストの権能を授けられていることを説明し、その使命を忘れることなく果たすべきだと教えている のです。
【祈祷】
天の父なる神様
自らの選びに満足して、救い主イエス・キリストを拒んでしまった人々に代わって、私たちを新たなイス ラエルの民として選んでくださったあなたの御業に感謝いたします。どうか私たちがその救われた使命を忘 れることなく、祭司の王国、聖なる国民として生きることができるように聖霊を豊かに送ってください。私 たちの教会を通してイエスが授けてくださった権能が豊かに表されて、悪しき霊の力に勝利し、救いの御業 が地上に実現しますように助けてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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