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礼拝説教 桜井良一牧師
東方の博士たち

2006.1.1)

聖書箇所:マタイによる福音書2章1〜12節
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

1.キリストによって現わされた神の栄光

 この時期になるとクリスマスの飾りをいつしまうのかが問題となります。「周りではお正月の飾り付けがされているのに、教会だけはまだクリスマスなの」と言う疑問が浮かぶからでしょうか。キリスト教会の伝統では1月6日の公現日までをクリスマスの期間と考えているようです。その伝統を守るキリスト教国では1月6日も祝祭日になるのですが、日本ではこの公現日に一番近い日曜日、たとえば今年は1月8日に公現日を記念する礼拝を献げることになっています。ですから、この1月8日まではクリスマス期間としてクリスマスの飾り付けもそのままにしておいてもよいのではないでしょうか。
 ところでこの公現日の「公現」と言う言葉は私たちの身近ではあまり使われない言葉だと思います。この言葉はもともとギリシャ語の「エピファネイア」という言葉の訳語で、直訳すると「輝き出ること」と言う意味を持った言葉です。つまり、この日、キリスト教会は神の栄光がベツレヘムでお生まれになった幼子イエスを通してこの地上に輝き出た、その栄光が明らかになったことを記念するのです。
 しかし、どんなにその栄光が素晴らしいものであったとしても肝心の自分との関係が分からなければ、私たちにとってそれは喜ぶべき出来事にはなり得ません。神と共に生きること、神を信じて生きること、そのような人生がどんなに私にとって素晴らしいか。神様が私にとってどんなに素晴らしい方であるか。それを知らなければ喜びは私のものになり得ません。実はそのことを私たちはこの公現日の主役である幼子イエスとの出会いを通して知ることができるのです。ですからこのイエスの降誕を祝う公現日は私たちにとって確かに神の栄光が輝き出た日と考えることができるのです。

2.無制限な神の恵み
(1)地位と富を持っていた学者たち

 それではこの神の栄光の輝きはどのような人に現わされたのでしょうか。それはごく限られた人の上にだけ現わされたのでしょうか。もしそれがごく限られた人を対象とするものであるなら、私にとってこの神の栄光は何の意味も持たなくなってしまいます。しかし、この栄光がすべての人に無制限に輝き出たことをマタイによる福音書は「東の方からエルサレムに来た」学者たちを登場させることで明らかにしているのです。
 「東の方からエルサレムに来た」学者たちについて、聖書は「占星術の学者たち」と説明するだけで他の解説を加えていません。そのためかキリスト教会では彼らについての様々な伝説が生まれ、その伝説が継承されてきました。伝説によれば彼らは「三人の博士」、あるいは「三人の王」たちと呼ばれてきました。しかし実際には彼らが何人であったかさえ、聖書の記事からは判別することができません。この伝説は幼子に献げられた贈り物の数が「黄金、乳香、没薬を贈り物」と三つになっているので、そこから生まれた伝説と考えることができます。いずれにしても、先週学んだようにベツレヘムの郊外で幼子の誕生を天使から知らされた羊飼いたちが、当時の世界では最も下層に属する貧しい人びとであったと考えるのに対して、ここに登場する学者たちは上層階級に属し、豊かな富を持っていたことが分かります。なぜなら宝の箱から「黄金、乳香、没薬を贈り物」を出して、幼子に献げることができたことができたからです。それは彼らの身分や持っている富がどんなに高く、大きいものであったかを表しています。
 羊飼いから、博士、王様に至るまでこの日、幼子イエスを通して輝きでた神の栄光はすべての人びとを照らすものだと言うことをこの物語は私たちに教えているのです。

(2)神の恵みの対象外?

 しかし、もう一方で彼らの身分がどんなに高く、彼らの持っている富がどんなに大きくとも、彼らは「東の方から」つまり、外国からやってきた、「占星術の学者」たちであったと言うことも忘れてはならないでしょう。なぜなら当時のイスラエルの人びとにとって外国人はどんなに身分が高かったとしても、所詮、神の恵みから漏れた人びとでしかないと考えられていたからです。彼らは神の栄光が現わされる対象は選ばれた自分たちアブラハムの子孫、イスラエルの血族にだけ限られると考えていたのです。ところがベツレヘムの幼子を通して神の栄光の現われを体験したのは、まず先週学んだ羊飼いであり、今週の東の国からやってきた外国人たちであったのです。この事実は幼子を通して現わされた神の栄光がイスラエルの人々の考えとは違って無制限に広がっていることを教えているのです。
 しかも、彼らは「占星術」の学者たちと紹介されています。「これからの日本はどうなるのか」。有名な占い師が登場して、日本の行く末を語る。そんなテレビの番組や雑誌の記事が多くこの新年にも見られるのではないでしょうか。将来への不安を占いの力を借りて解消しようとすることは私たちの世界では一般的なことです。ところが、神を信じるイスラエルの人々にとって占いに頼ることは、自分たちの将来を導いてくださる神様への信頼に反する行為であり、不信仰な呪われる行為と考えられていたのです。ですからその仕事を生業とする「占星術」の学者たちは呪われた人びとの代表とも呼べるのです。しかし、聖書はこのような人びとにも神の栄光は現れたと語るのです。どのような呪いもこの神のみ業にかなうことはできません。どんな人の上にも神の栄光は輝きでるのです。クリスマスの喜びを伝える出来事を前にして「私だけは例外だ。私には関係がない」と考える人に対して、聖書はその言葉を打ち消す形で羊飼いや東の国からやってきた占星術の学者を登場させていると考えることができるでしょう。

3.幼子に出会う喜び
(1)人生の耐震補強

 それでは幼子イエスを通して現わされた神の栄光とはいったい具体的には何を意味しているのでしょうか。それは一言で言えば、このイエス・キリストを通して私たちが神の救いを受けることができるという事実を語っていると言えます。そのことを私たちが見失ってしまったり、誤解してしまうとクリスマスの喜びは私たちに伝わってこないのでしょう。「クリスマスおめでとう」と言われても、「何がおめでとうなんだ」と腹を立てて自分の家に帰るしかなくなってしまいます。このような誤解を避けるために、私たちは今日、神の救いについて二つのことを覚えておきたいと思うのです。
 第一に神の救いは私たちの生活の目に見える表面的な部分ではなく、目に見えないところに働いて大きな変化を現わすということです。先日学びました羊飼いの場合、彼らは幼子に出会うと「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(ルカ2章20節)と記されています。また今日の聖書の箇所の占星術の学者たちも「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)と告げられています。イエス・キリストに出会った後に彼らは元の自分がいた場所に帰っていきます。そして聖書はその後の彼らがどうなったかを記すことはありません。羊飼いは元いた場所に帰り、外国人であった学者たちは自分の国に帰ります。彼らがこの後、大伝道者になったか、それとも今まで通りの生活をしたのか。そのようなことに一切聖書は関心を持っていないのです。
 しかし私たちの関心はいつもこの聖書の関心とは異なっているのではないでしょうか。キリストを信じたら自分の生活は表面的にどのように変わるのか。目に見える形を求めます。そしてその形が期待通りに現れないとがっかりしたり、失望したりするのです。しかし、キリストの救いの中心はそこにはないと言えます。
 最近、連日のように欠陥マンションの問題が新聞やテレビで報道されています。この事件は日本中を巻き込んだ大きな問題になりつつあり、多くの人が不安や怒りを覚えていると言えます。「どうしてそんなマンションを建てたのか」。安全性より営利主義に走る業者の姿が浮き彫りにされています。そして、もちろんあのマンションを買った人は「欠陥マンション」と知ってその建物を買った訳ではありません。外形を見るととてもきれいで住みやすく、広くておまけに価格も安い。そんなところで多くの人びとはそのマンションの購入を決めたのだと思います。しかし、問題は目に見えない建物の中心部にありました。建物を支えるべき肝心の部分に大きな欠陥があったのです。
 キリストの救いはこの目に見えない私たちの人生の柱の部分を支えるものであると言えるでしょう。外形はどんなに素晴らしくてもこの人生の柱がちゃんとしていなければ、私たちの人生は危ういものとなってしまいます。しかしキリストの救いによって神との関係が修復された私たちの人生はどんなことがあっても壊れることがない、しっかりとしたものとされるのです。しかもそのキリストに救われた人生の確かさ、素晴らしさは厳しい最後の審判の日に明らかになるとも聖書は教えているのです。
 羊飼いや占星術の学者たちの人生は外形では確かに変わっていなように見えます。しかし、このイエスの救いにあずかることによって彼らの人生は見えない部分で大きく変わってしまうのです。今までは風が吹いても壊れそうな家でしたが、イエス・キリストによってその柱がしっかりと補強されて、何があっても壊れることがないものにされました。そんな人生の変化が目に見えないところで起こるのです。それがキリストを通して現わされた神の栄光であり、救いであると言えるのです。

(2)キリストに出会うことによって

 ある日、ニューヨークのブロンクスの路線バスの運転手が自分の運転していた空のバスごと行方不明になり、数日後、そのバスごとフロリダで発見されると言う事件が起こりました。警察の取り調べに対してこの運転者は「毎日、毎日、決められた同じコースを走ることに飽き飽きしてしまったから」という事件の動機を語ったと言います。私の読んでいる心理学の本にはこのエピソードが取り上げられ、これこそが私たちが自分の人生で今、感じている深刻な危機ではないかと語っています。ロシアの古い拷問では毎日意味のないことがらを囚人に続けさせるものがあります。強制的に意味のない行為を続けさせられた人間は最後には精神が破壊されてしまうと言うのです。私たちが毎日の生活の中で知りたいと願っているのは、毎日の生活を生き生きとしたものに変えることのできる人生の意味だと言えるのです。
 聖書には生まれつき目の不自由な人がイエス・キリストに出会うことによってその人生が大きく変えられたという出来事が紹介されています(ヨハネによる福音書9章)。今まで光に閉ざされた人生、呪われた人生と人びとから評価された彼の人生がイエスとの出会いで一変してしまいます。彼の目が見えなかったのは、彼が救い主イエス・キリストに出会い、そのキリストのみ業を自分の生涯を通して証しするためだったと言う意味を彼はそこで知ったのです。
 同じように羊飼いたちの過酷な毎日の生活、学者たちの長い旅の道のりはこの幼子イエスに出会うことによって意味を与えられました。キリストに出会うために、そして神の栄光を現わすために私のこの人生は与えられていると言うことを知ったからです。皆、このイエスに出会うことで「私の人生には素晴らしい意味がある」と言うことを知ったのです。
 一方、今日の同じ箇所で登場するヘロデ王は、王でありながら不幸な人生を送った人であると言えるでしょう。彼は必死の思いで手に入れた「ユダヤ人の王」と言う権威を守ることに懸命でした。そのために彼は友人や家族でさえ容赦なく粛正していったと言います。今日の箇所ではベツレヘムに生まれた幼子の存在にまで不安を覚え、その幼子を亡き者としようとしています。「王でなければ自分の人生には意味がない」。彼はそう思っていたのかもしれません。しかし、それはいつでも容易に奪われてしまうような偽りの人生の意味でしかないのです。
 キリストに出会うことによって与えられる人生の意味はそのようなものではありません。私たちの人生が毎日、同じコースをたどっているように見えても、そこに生き生きとした意味を与えることができます。また、私たちの生活が思ってもいない変化を遂げたとしてもその人生に意味を与えるのはこのキリストとの出会いなのです。そしてこのキリストの出会いを通して確かに神の栄光は私たち一人一人の人生に輝き出るのです。さらにその栄光は決して私たちから奪われたり、消え去ってしまうものではない確かなものなのです。私たちはキリストとの出会いによってこの人生の意味が与えられたことをもう一度思い起こしながら、新しい年の歩を始めたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
新しい一年の初めを、あなたを礼拝することで始めることができました。幼子に出会った学者たちのように、イエス・キリストを通して輝き出た神の栄光は私たちの上に表されています。私たちの人生を支え、私たちの人生に意味を与えるあなたの救いに心から感謝いたします。どうか今年一年の歩をみ言葉と聖霊によって導き、私たちのあなたへの信頼をますます強めさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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