Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
東方の博士たち

2006.1.18)

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章35〜42節
35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

1.ヨハネが示したもの
(1)イエスと弟子たちの出会い

 ヨハネの福音書の今日の箇所の記事ではガリラヤ湖の漁師であったシモン・ペトロがイエスの弟子になった理由をその兄弟アンデレの紹介によるものであると伝えます。そしてそのアンデレにイエスを紹介したのはバプテスマのヨハネであったと説明されているのです。この記事と他の福音書に記されている物語をどのように結びつけるべきか昔からいろいろな方法が考えられて来ました。しかし、私たちが聖書を読むとき大切なことはそれぞれの福音書間の矛盾点を探したり、それを無理に結びつけることではなく、それぞれの福音書記者がその出来事を通して私たちに何を知らせようとしているのかと言うことを知ることです。
 そこで私たちが今日学ぶヨハネの福音書の箇所から読み取れる点は、バプテスマのヨハネがイエスをどのように二人の弟子に紹介したか。またその二人の弟子はイエスとどのように出会い、彼を「メシア=救い主」と認めるようになったか。そしてさらにメシアに出会った彼らはその次にどのような行動を起こしたかについて学ぶことができるのです。

(2)バプテスマのヨハネの使命

 バプテスマのヨハネはヨルダン川で人びとに悔い改めを勧め、洗礼を授けた人物として有名です。当時、ヨハネの元には多くの人びとが集まり、おそらくヨハネに従う弟子たちも多数、存在していたと考えることができます。ところがこのヨハネの福音書ではバプテスマのヨハネが二人の弟子たちにイエスを「見よ、神の子羊だ」と紹介した後、その姿が全く消えてしまいます。ここでヨハネはあたかもその使命をすべてなし終わったかのように、舞台から消えていくのです。そのような意味でのバプテスマのヨハネの行為は彼の使命を象徴する大変に重要な出来事であったと考えることができるのです。
 誰でもが健康診断を定期的に受ける必要があります。そうすれば私たちは自分の病気を早期に発見して、適切な治療を受けることができるからです。バプテスマのヨハネの使命はこの健康診断とよく似ているかもしれません。人びとの霊的な、魂の健康状態を判断して、深刻な病に陥っていることを警告する役目が彼にはありました。しかし、当時の人びとは自分が深刻な病にかかっているにも関わらず、自分の力でそれを直すことができると考えていた人びとが多かったのです。バプテスマのヨハネはそのような人びとに対して厳しい診断結果を示し、自分の力ではその深刻な病から癒されることができないことを教えたのです。
 ところで健康診断を受ける必要があると聞かされても、私たちの中にはそれを躊躇してしまう人がいるはずです。もし、自分が変な病気にかかっていたら、もし深刻な病気にかかっていたらどうしようと心配するからです。むしろその心配を解決するために健康診断を受ける必要がある訳なのですが、私たちの心は複雑で本当のことを知ることを一方では恐れる傾向があるのです。
 しかし、バプテスマのヨハネの使命のもう一つ大切な点は、どのような深刻な魂の病でも癒すことができる魂の名医を人びとに紹介することにありました。その方こそイエス・キリストです。バプテスマのヨハネは人びとの健康診断ができても、その病を癒すことができません。しかし、イエス・キリストはその病を癒すことがおできになる方なのです。だからこそバプテスマのヨハネはイエスを指し示して「あの人だ。あの人こそ私たちを癒し、救ってくださることの出来る方なのだ」と紹介したのです。

2.見よ、神の子羊だ

「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った」(35〜36節)。

 ユダヤの総督ピラトは有罪とする罪を見いだすことができないイエスを民衆の前に連れていき「見よ、この男だ」(5節)と語りました。それはイエスの生死は今や彼ら民衆の判断に任されているということを示すためでした。ですから聖書の中で「見よ」と言う言葉は単に視線をそこに移すと言うだけではなくて、判断を決しなければならない重要な事柄が目の前にあることを気づかせるために用いられているのです。つまり、このときのヨハネの言葉も「私たちの人生にとっても最も大切な人がそこにいる」と弟子たちに語ったと考えることができるのです。それではヨハネはここでイエスを誰だと説明しているのでしょうか。ここで語られている「神の子羊」というヨハネの言葉を理解するために、私たちはこの言葉に隠されたいくつかの聖書的背景を知る必要があるのです。
 聖書の中で子羊は第一にイザヤ書53章に登場する「苦難の僕」と呼ばれる人物を示す言葉として考えられています。そしてこの「苦難の僕」は人びとの平和と癒しのために人びとに代わってその罪を担い、懲らしめを受けて死んでいく人物の象徴と考えることができるのです。また第二はユダヤ人の古くからの伝統である過越の祭りに使われる「過越の子羊」を意味します。この場合も子羊の血によって人びとは神の災いを免れることができると言う意味を持っています。第三は神の裁きの日にその裁きを執行し、悪を滅ぼす人物の象徴と考えることができるのです。そしてこの三つとも実際のイエスの姿を示すものと言うことができるでしょう。バプテスマのヨハネはこの1章の少し前の部分で「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)とも言っています。ですからイエスは私たちの罪を代わって担うことによって私たちの罪を解決し、本来受ける罰から私たちを解放した上で、神に反抗するこの世界のすべての悪を滅ぼすためにやってこられた救い主であると考えることができるのです。

3.何を求めているのか

 バプテスマのヨハネの言葉に促されるように、ここで二人の弟子がイエスの後に従っていきます。この二人の人物についてヨハネの福音書はその内の一人が「シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」と説明しています(40節)。しかしもう一人の人物は誰であるのかよくわかりません。

 「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた」(38節前半)。

 「何を求めているのか」とイエスはこの二人の弟子たちに尋ねます。この「求める」は聖書の他の部分では「見る」とか「捜す」と言う意味を持った言葉です。カウンセリングでは相談に訪れた人が「自分は何をしたいのか」、「何を望んでいるのか」を理解したとき治療のほとんどが終了したと考えてよいと言われています。なぜならカウンセラーに相談を持って来る人のほとんどは自分の本当の願いを見失ってしまっているからです。彼らはいつのまにか自分の願望ではなく、家族や他人からの期待をあたかも自分の願望であるかのように勘違いしてしまっているのです。本来の自分の願望とは違った生き方をしようとするのでそこに無理が生じます。そこでその無理を気づかせようとしてその人の心の中に心理的な障害が起こったりするのです。そこで大切になってくるのは、本当に自分が何を望んでいるのかに気づくことだと言うことになるのです。私たちは案外、本当の自分が何を望んでいるのか分からないで毎日を生きていることがあるのではないでしょうか。
 ときどき子供たちは大人にどきっとした質問をします。「お父さんは何のために生きているの」、「何のために働いているの」。そんなとき私たちは答えに窮してしまうことがないでしょうか。自分は今何を求めようとしているのか。それを私たちは見失っているのです。それでは簡単なように聞こえるこのイエスの問いに、私たちが正しい答えを見いだすためにはどうしたらよいのでしょうか。

4.イエスのもとに泊まった
(1)どこに泊まっているのか

 「彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」(38後半〜39節)。

 「何を求めているのか」。このイエスの問いに対して二人は「先生。どこに泊まっておられるのですか」と尋ね返しています。何かピント外れな会話のように感じますが。二人がバプテスマのヨハネからイエスを紹介されたとき、イエスはまだこの地上で何のみ業も開始されていませんでしたから、彼らにはイエスがどのような人物だからよくわからなかったのでしょう。おそらく、彼らにはイエスが一般の若い男性と変わりなく見えたに違いありません。「いったい、この人はどう言う人なのか」。二人の問いはこのような彼らのイエスに対する好奇心から生まれたものと想像することができるのです。

(2)何につながっているのか

 
しかし、そう簡単に片づけられないのは、先ほどの短い文節の中にこの「泊まる」と言う言葉が三度も登場しているというところです。「どこに泊まっておられるのですか」。「どこに泊まっておられるかを見た」。さらに「イエスのもとに泊まった」と言うように三度もです。実はこのヨハネによる福音書ではここで「泊まる」と訳された言葉が、別の箇所で他の言葉で翻訳され、大変重要な意味を示しているのです。それはこのヨハネによる福音書の有名な15章のイエスの言葉です。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)。ここで「つながっていないさい」と訳されている言葉は原語では「メノー」と言う言葉になり、今日の箇所の「泊まる」でもこの同じ言葉が用いられているのです。ですからこの言葉はヨハネの福音書が最も大切にするキーワードの一つと考えることができるでしょう。
 この言葉を先ほどの弟子たちの問いに当てはめて読むならこうなります。「先生、あなたはどこにつながっているのですか」。
 最近、ロシアがウクライナにパイプラインで送っている天然ガスの供給を停止して、それを通してウクライナに政治的な圧力をかけようとする事件が起こりました。そのパイプラインが閉じられればウクライナだけではなく、その向こう側で同じようにロシアの天然ガスに頼っているヨーロッパ諸国の生活が混乱してしまう可能性が生まれますから、大騒ぎになったのです。
 「何つながっているか」。ヨハネの福音書はそれが私たちにとって大切な事柄であることを語ります。もし、私たちがつながっているものが頼りのないものであるなら、私たちの命も同時に危うくなってしまいます。ヨハネの福音書はそこで私たちに神につながるように、そしてそのために神につながっているイエスに私たちがつながっているようにと教えるのです。そうすれば私たちはそこから命を受け続け、豊かに実を結ぶことができるのと教えているからです。このようにヨハネの福音書は「私たちは何を求めるべきか」と言う問いに対して、「イエスにつながること」を求めなさいと教えているのです。
 二人の弟子はイエスの元に泊まることで、イエスが神とつながる方、この神様から遣わされて自分たちを救いに来てくださった「メシア」であることを知ります。だから二人の弟子の内の一人、シモンの兄弟アンデレは早速この事実を自分の兄弟シモンに伝えています。「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味に出会った」(41節)。この最初のキリスト教伝道者の働きによって次にこのシモンがイエスにつながることになるのです。
 同じように私たちもまた私たちに福音を告げてくれた人びとを通して今、イエスを信じてイエスにつながる者とされているのです。そしてこのようにイエスにつなげられてものは、また他の人びとにこのイエスを示す必要があると教えているのです。バプテスマのヨハネからアンデレへ、そしてシモン・ペトロへ、イエスを指し示され、イエスに繋がり、またイエスを指し示す者となります。ですからイエスに繋がり、イエスを指し示す。それが私たちに与えられた使命であることをヨハネの福音書はこの短い箇所で私たちに教えているとも言えるのです。

【祈り】
天の父なる神様。
伝道者を通して私たちにイエス・キリストを紹介してくださった幸いに感謝いたします。この「子羊」イエスによって私たちはその罪を赦され、あなたにつながるものとされました。私たちがイエスにつながるものとして、これからもイエスと共に生き、日々、この方から豊かな命を受けることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

このページのトップに戻る