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礼拝説教 桜井良一牧師
二人を呼び寄せたもの

2006.1.22)

聖書箇所:マルコによる福音書1章14〜20節
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18 二人はすぐに網を捨てて従った。
19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

1.始められたイエスの活動
(1)聖書の出来事を追体験する

 今年の教会のカレンダーはこのマルコによる福音書を読み続けることでイエス・キリストの生涯を辿ろうとしています。私たちが聖書を読む場合、いろいろな読み方が考えられるかもしれません。過去のある場所で起こった歴史的な事件を学ぶために聖書を読む方がおられるでしょう。また、それよりももっと積極的な意味で自分の人生に役立つ何らかの人生訓を聖書から読み取ろうとする方もおられると思います。しかし、教会のカレンダーはそれよりもさらに積極的な意味を持つ聖書の読み方を薦めています。それはここに記されている出来事を読者である私たちが追体験できるように読む読み方です。それではなぜ、私たちは聖書をそのように読むことができるのでしょうか。それは、ここに登場するイエス・キリストは今も私たちと共に生きておられる方だからです。イエスは歴史の上に現れる過去の人ではなく、今、私たちに生きて働きかけてくださる方なのです。ですから聖書に記されていることを私たちも同じように体験することができると言えるのです。
 今日はマルコによる福音書からシモン(ペトロの本名)とアンデレの兄弟、そしてヤコブとヨハネの兄弟がイエスの弟子とされた出来事を学びます。ここで大切なのは私たちもまた、彼らと共にイエスに声をかけら、今、イエスの弟子として生きるように招待されていると信じながら、この記事を読むことなのです。「誰か他の人の問題ではなく、私がここでイエスに声をかけていただいている」。そのように聖書を読むときに私たちの人生に神の働きが豊かに現れ、ここに起こっている出来事を私たちも追体験することができると言えるのです。

(2)ガリラヤでの出発

 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(14〜15節)。
 ここに登場するヨハネは先日、この礼拝で学びましたバプテスマのヨハネと言うれる人物のことです。バプテスマのヨハネは神の正しい裁きがもうすぐこの地上に実行されることを多くの人に伝えました。彼のその警告を様々な人に向けられ、ついには当時の権力者にまで至っています。ヨハネは当時の権力者の不法を厳しく責め立てたのです。そこで彼は権力者の怒りを買ってしまい、牢屋に入れられてしまいます。そしてイエスの活動はこのヨハネの逮捕をきっかけとして始められたと告げるのです。
 イエスの活動はイスラエルの北部に位置するガリラヤが舞台となります。当時のイスラエルの中心はエルサレムと言う町で、その中心には神を礼拝するための神殿が建てられていて、その神殿を中心にしてたくさんの人びとがこの都市に暮らしていました。イエスの活動の拠点ガリラヤはエルサレムの町から比べると遙か北にある田舎と考えることができるのです。日本で言えば、盛岡とか秋田とかそんなところなのでしょうか。(もっとも田舎と言うのは失礼かもしれませんが。)
 だいぶ後のことになりますが、イエスが逮捕されたときに大祭司の庭で隠れてその様子を窺っていたシモン・ペトロがそこに居合わせた人びとに「お前もイエスの仲間ではないか、ガリラヤの者だから」と言われてしまうところがあります(マルコ14章66〜72節)。どうして彼の出身がそこですぐに分かってしまったかと言えば、彼がガリラヤ方言、ガリラヤ訛りを語る人だったからです。このようにイエスの弟子たちはかなり訛りのきつい、田舎者たちとエルサレムの人びとから考えられていたのです。

2.福音を信じる
(1)戦いの勝利を知らせる福音

 イエスの活動の中心は人びとに福音を伝えることでした。そしてその福音の内容は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言うものだったのです。私たちが聖書を読むとよく耳にするこの福音と言う言葉はどのような意味を持つものなのでしょうか。「福音」、おそらく日本ではキリスト教会以外ではあまり用いられない言葉なのかもしれません。そこでよくこの文字を「ふくおん」と読み間違える方もいるようです。英語では「ゴスペル」、この言葉は現在では歌のジャンルの一種と考えられていますが、もともとは福音と言う意味を表す英語です。あるいはもっと砕けた言葉では「グッドニュース」と訳している英語の聖書もあるようです。新約聖書はギリシャ語で記されていますからその元々の言葉は「ユウアンゲリオン」と言う言葉になっています。
 この言葉は本来、戦争の勝利を伝えるニュースや、そのニュースがもたらすよい報いを意味するものとして使われたようです。遠い戦場で起こっている戦いの結果を町で待つ住民たちは心配して待っています。もしその戦いに自分たちの国の軍隊が破られてしまえば、自分たちは降伏して、相手の国の奴隷となって生きなければならないからです。ですから自分たちのこれからの運命を決する大切なニュース、それを伝えるのが福音と言う言葉の本当の意味なのです。
 それではイエスの伝える福音とはどんなものなのでしょうか。それは簡単に言えば神の国についての事柄です。神が戦いに勝利され、すべての悪を滅ぼしてくださったことをこの福音は知らせるのです。そしてこの神の戦いの詳細を記すのがこの福音書の役目なのです。イエス・キリストはこの戦いのために神から遣わされた救い主です。そしてこのイエス・キリストによってもたらされた戦いの勝利を福音書は今も、昔も私たちに伝えているのです。

(2)信じなければ自分のものにならない

 ところでこの福音を私たちが自分のものにするためにイエスはここで一つの指示を私たちに与えています。「悔い改めて福音を信じなさい」。「悔い改める」。それは私たちの生き方を180度方向転換するようにと言うことです。少しばかりの間違いなら軌道修正を行えば直りますが。私たちの生き方の誤りは、正しい方向と全く逆の方向に向かおうとしているところにあると言うのです。永遠の命と希望を得たいと願っているのに、むしろ死と絶望に向かって突き進んでいるのです。ですからそれに気づいて180度方向転換をして、そのために「福音を信じなさい」と私たちに語ります。
 昔、第二次世界大戦が終わって相当の期間が過ぎたのに、南方の島のジャングルに隠れ住んでいた日本兵が見つかったことありました。実は彼らの多くは、様々な形ですでに日本が戦争に負けたことを知らされていたようです。しかし、彼らはそのニュースを信じようとしなかったのです。そのために彼らは長い年月、敵の攻撃を恐れて、恐怖しながらジャングルに隠れて生活をしなければなりませんでした。そのニュースを信じて、ジャングルから出ていたなら新しい人生が待っていたにも関わらず、彼らはそのニュースを信じないことで人生の大半を暗いジャングルの中で使い果たしてしまったのです。
 福音を信じると言うこともこれと同じです。信じればそこに新しい人生が待っています。もう私たちは自分たちを苦しめる敵を恐れ、恐怖して暮らす必要はないのです。このようにイエスの福音の招きは私たちを全く新しい命に招待するものなのです。そしてイエスは私たちに福音の招きを心から信じて、自分に従って来るようにと求めておられるのです。

3.最初の弟子たち
(1)同じ過程で呼び出される二組の兄弟

 それではこのイエスのこの招きに答えること、福音を信じると言うことはいったいどういうことなのでしょうか。それを具体的に示そうとするのが今日の聖書の箇所に登場するイエスの最初の弟子となった人びとの物語だと言えます。
 「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(16〜20節)。
 ここには二組の兄弟へのイエスの招きが続けて記されています。ここで一度にこの箇所を読んだ理由は、この二組の兄弟がイエスの弟子とされる過程が同じ形で語られているからです。まずイエスはシモンとアンデレの兄弟が湖で網を打って漁をしているのをご覧になられます。一方、同じようにイエスはヤコブとヨハネの兄弟が舟の中で網の手入れをしているのをご覧になられているのです。このように物語のきっかけは両方とも、イエスがご覧になられると言う行動から始められています。
 そして次にイエスはシモンとアンデレに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられています。また次のヤコブとヨハネの場合も「彼らをお呼びになった」と、記述の内容は異なりますが、イエスが同じように彼らに「自分に従ってくるように」と呼びかけられたと言う点では同じになっているのです。
 次に二組の兄弟ともすぐにイエスに従って行っています。しかもシモンとアンデレはそこに「網を捨てて」、またヤコブとヨハネの兄弟は「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」と語られています。両者共に自分たちが今までの生活で頼りにしていたもの、それがなければ生きられないと思えるようなものをそのまま捨てて、あるいは置き去りにしてすぐにイエスに従ったのだとう言うのです。

(2)主導権はイエスにある

 ここで大切になってくるのはイエスの招きに答えて、私たちがその弟子となるときにその出来事の主導権、イニシアチブを誰が握っているのかと言うことです。この物語はそれを握っているのはイエスご自身であると教えるのです。私たちがイニシアチブを握っているのではないのです。もし、このことを勘違いして、自分がその主導権を握っているとしたらどのようなことになってしまうでしょうか。おそらく私たちはこのような問題を抱えることになるでしょう。シモンとアンデレはイエスに従うために「網を捨てた」。ヤコブとヨハネは「父親を雇い人たちと一緒に舟に残した」。私は何を捨てるべきなのだろうか、何を置いていくべきなのだろうか。そして自分も本当に彼らと同じように大切なものを捨ててイエスに従うことができるのだろうか。この問題を悩み初めて、結局はイエスに従うことは自分には無理だと言いかねないことになってしまうかもしれません。
 しかし、今日の聖書の箇所を読んでみると彼らが自分にとって大切であったものを捨てたり、そこに置き去りにしているのはイエスの弟子になるためではありません。言葉を換えれば、それはイエスの弟子となる条件ではなかったと言うことです。なぜならイエスはここでご自身からはそれを彼らに求めてはいないからです。むしろ、彼らはイエスの招きに答えてそれに従ったからこそ、今まで大切にしていたものをもはやもって行く必要はなくなったと考えることができるのです。
 福音書記者マルコがここで私たちに最も重要なものとして教えようとするのは、このイエスの招きの素晴らしさであると思います。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟たち、彼らはガリラヤ湖で漁をする漁師にすぎませんでした。彼らは今までも漁師であり、これからも漁師として生きようとしていた人たちだったに違いないのです。その彼らをイエスがご覧になられ、自分に従って来るようにとお呼びになったとき、彼らはすぐにイエスの弟子となる決心をすることができたのです。それはおそらく、それは彼らの努力の結果ではなく、彼らに声をかけてくださったイエスのみ業の結果なのです。イエスのみ業はそのように力あるものであり、私たちの心を一瞬の内に変え、私たちをイエスに従う者としてくださることができるのだと言うことを私たちにこの物語は教えようとしているのです。
 毎年のように子供たちを連れて教会のキャンプに行くたびに、私は今度は何をもって行ったらよいのかと考え込みます。「これも必要かな、あれも必要かな」と思うとだんだんと自分が持って行く荷物の大きさが大きくなってしまいます。安くまた簡単に泊まることのできる施設ですから、それだけ自分の側で準備しなければならないものが多いのです。ところが、私はあまり泊まるケースはないのですが。高級なホテルに泊まるときはどうでしょうか。宿泊者が困らないようにホテルは何から何まで準備をしてくれています。ですから、私たちは荷物をほとんど持って行かなくても、不自由なく旅を楽しむことができるのです。
 イエスの招きもこのようなものだと思います。私たち側では何も自分で準備する必要はないのです。むしろ、自分で準備してきたものは、この旅には不要になって、邪魔になってしまうのです。だからこそ、イエスの最初の弟子とされた人びとは持っていたもの、大切にしていたものをそこに置いてイエスの招きに従ったのです。私たちにとって肝心なのはこのイエスの招きの素晴らしさを信じて、その招きに答えることなのです。そのとき私たちには他に何も必要ないのです。このイエスの招きに答えて、私たちがイエスに従うときに私たちの人生にイエスの勝利によってもたらされた福音の祝福が与えられるのです。そしてイエスは今日も同じように、私たちに向かって「自分に従って来るように」と素晴らしい招きを与えてくださっているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 イエスを遣わして、私たちを支配していたあらゆる悪に勝利され、神の国をもたらしてくださるあなたのみ業に感謝いたします。その勝利を信じて、福音の招きに答えるように、私たち一人一人を招いてくださるあなたのみ業に感謝いたします。私たちの心に聖霊を遣わして、聖書に登場する弟子たちのようにイエスに従うものとしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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