1.どうして断食をするのか
(1)敬虔な信仰生活のしるし
今日の箇所ではイエスとファリサイ派の人々の間で交わされた断食に関しての論争と、それに付け加えられたイエスのたとえ話が記されています。ここでまずファリサイ派の人々は「自分たちが守っている断食の習慣をどうしてイエスの弟子達は守らないのか」とイエスに尋ねています。その際、彼らはここで「ヨハネの弟子たち」と言う人々を登場させています。彼らはバプテスマのヨハネの弟子たちのことを指しています。ご存じのようにバプテスマのヨハネは当時のユダヤの宗教的リーダーたちであった律法学者やファリサイ派の人々を「まむしの子たち」とまで呼んで厳しく批判しました。そのような意味ではヨハネの弟子たちは彼らファリサイ派の人々にとってはあまり都合のよい人々ではありません。しかし、ここではイエスとイエスの弟子たちを非難するためにこの「ヨハネの弟子たち」のことを持ち出しているのです。バプテスマのヨハネは荒れ野で「いなごと野蜜」を食べていたと言われています(マタイ3章4節)。これは彼が通常の食事を絶って、恒常的に断食をしていたことを説明する言葉だと考えることができます。そのような意味でヨハネの弟子達も断食と言う習慣を積極的に守っていたのでしょう。
ところでここで問題にされている断食という習慣は聖書ではどのように取り扱われていたのでしょうか。実は聖書の薦めによれば断食は年一度の「贖罪の日」にすべての人が行うことが求められていますが(レビ記16章29節)、それ以外では旱魃や疫病が流行した場合などに例外的に行われていたもののようです(ヨエル1章14節)。ところがここで発言をしたファリサイ派の人々はこの聖書の求め以外に週に一度と言った具合に頻繁に断食を守っていたのです。ルカの福音書では自分の優れた信仰生活を誇って一人のファリサイ派の人が「わたしは週に二度断食しています」と祈りの中で語っている場面が登場します。彼はイエスが語ったたとえ話に登場する人物ですが、おそらくこの人物は実際のファリサイ派の人々の姿を忠実に描いていたのではないでしょうか。
「自分たちも、あのヨハネの弟子たちでさえ断食しているのに、どうしてあなたの弟子たちはそれをしないのか」。彼らの質問の背後には「神を信じて敬虔な暮しをする者であるなら当然、断食をするのが当たり前だ。それをしないあなた達の信仰の姿勢はおかしいのではないか」と言うイエスに対する明確な非難の姿勢が隠されていたのです。
(2)断食をすべて否定するわけではない
この質問に対してイエスは次のように答えられています。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」(19〜20節)。
このイエスの答えによれば、彼は断食自身をすべて否定しているのではないことがわかります。私たちの教会が大切しているウエストミンスター信仰告白の第21章では礼拝と安息日の守り方について次のように教えています。「神聖な断食…も、それぞれの時と時期に、きよい宗教的な態度で用いるべきである」(5節)。信仰告白はこの教えを支持する聖書の箇所としてマタイによる福音書9章15節のイエスの言葉を引用しています。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」。これは今日のマルコによる福音書と同じイエスの言葉を扱う並行箇所です。このようにキリスト教会の歴史は断食の習慣を否定したのではなく、むしろ大切に守り続けて来たのです。それではイエスはどうしてここでファリサイ派の人々が熱心に守るべきであると主張した断食について否定的な態度を取っておられるのでしょうか。
(3)何のために断食をするのか
私は神学校を卒業する直前に同級生たちと共に韓国の教会を訪問する旅行をしたことがあります。いろいろな教会を訪問し、日本では知り得ない韓国の教会の姿を間近に見ることができた興味深い旅行でした。その旅行中に私たちは大変有名な韓国の一つの大教会が経営する断食祈祷院に行って、三日間の断食に参加する機会がありました。ちょうどお正月の時期もあったかもしれません。祈祷院はたくさんの人であふれていて、私たちが礼拝堂に入ろうといしても中々入れないような状態でした。そこで私たちは三日間しか断食をしなかったのですが、そこに集まる人の中には一週間や十日間の断食をする人が多く、中には四〇日間も断食をする人もいました。
私がびっくりしたのは礼拝堂の中に布団を持ってきて寝ている人々の姿でした。先週、私たちは中風の人がベッドごと運ばれて来てイエスに癒されるお話を学びましたが、そこ礼拝堂に寝ている人も病気の人たちでした。また布団に寝ているところまではいかなくても、結構たくさんの人が自分の病気を癒してもらいたいという願いを持ってこの断食祈祷院にやって来ているようでした。さらに、私たちは断食が終了する直前に日本でも昔有名だった「ハレルヤおばさん」という異名を持つ女性伝道師のその祈祷院内にある家に呼ばれました。彼女は私たちに「あなたたちは日本からわざわざ韓国までやってきて断食している熱心な人たちだ。だからあなたたちが神様から異言の賜物をいただけるよう祈ってあげましょう」と語るのです。実はこの「異言」と言って不思議な言葉を語ることができるようになるようにこの祈祷院にやってくる人も多かったのです。このようにこの祈祷院に集まって断食をする人の大半は何らかの願いごとを持ってここに来ているのです。
ちょっと不謹慎かもしれませんが、こんなふうに考えてみるといいかもしれません。子どもたちは自分がほしいものがあると両親に一生懸命おねだりをします。もし、そこで両親がなかなか自分の願いが聞き入れられないと大きな声で泣き出して親を困らせる子どもがいます。また、その反対に両親の気に入るような行動を一生懸命して、何とか自分の願いを聞いてもらおうと努力する子どもいるはずです。特別な願いを神様に聞いてもらおうとして、断食をする人はこの子どもたちの姿にとても似ているのではないでしょうか。そう考えると断食をしようとする人間の心理の背後には神様は特別なことを私たちがしなければ私たちの願いを聞いてはくださらないと言う思いこみがあることが分かるのです。しかし、本当に神様は私たちが何か特別なことをしないとこちらの方に向いてくれない方なのでしょうか。私たちが断食をしなければ私たちの願いを聞き入れてはくださらない方なのでしょうか。
2.断食をする必要はあるか
イエスはファリサイ派の人々の考えを正すために結婚式の例を上げています。当時のユダヤの習慣ではこの結婚式は最も大切な儀式であると考えられていました。そのためにこの結婚式の間は大切な宗教的な義務の一部も免除されていたと言います。イエスはこの結婚式の話をして、今は断食のときではない、むしろ、断食をする必要がないと教えておられるのです。それはどうしてなのでしょうか。
それは神様がイエス・キリストを救い主として遣わしてくださったことと深い関係があるのです。なぜなら人々はいままで様々な願いもって、それを神様に聞いていただくために一生懸命に祈りをなし、断食をしていたかもしれません。しかし、神様は今イエス・キリストを私たちのために遣わして、私たちの願いに最前の答えを与えてくださったからです。
私たちはいままで幸せになりたいと願って生きてきたかもしれません。健康を回復し健やかに生きたいと願っていたかもしれません。しかし、神様は私たちにイエスを遣わして私たちの罪を赦し、神様との交わりを回復し、永遠の命を私たちに与えてくださったのです。私たちの願いに勝る答えが今、イエスによって与えられているのです。そんな素晴らしい答えを神様からいただいているのに、どうして私たちは断食する必要があるのでしょうか。断食をして、自分たちの敬虔を装って神様の関心を惹く必要があるのでしょう。その必要はないのです。神様の答えは今、イエスを通して豊かに与えられているからです。だから今はそれを感謝し、喜ぶことが大切なのではないか、それは結婚式に出席している人と同じだとイエスは教えてくださっているのです。
だから私たちの礼拝はこの答えを与えてくださった神様への喜びと感謝で満ちたところであると言えるのです。だからそこではファリサイ派の人々のように断食をする必要はないのです。
3.キリスト教会の断食の意味は
それならなぜ、キリスト教会は今もなぜ断食を守る習慣を持っているのでしょうか。その習慣を正し礼拝に用いることができると考えているのでしょうか。イエスは続けて次のようなたとえ話を語っています。
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(21〜22節)。
私たちもたとえばズボンやシャツを新しく買うとき少々、実際のサイズより長めのものを買うときがあります。それは洗濯をするとちょうどいいサイズに縮まることがあるからです。新しい布は洗濯をすると縮むからです。この新しい布を古い服に継ぎ当てしたら、伸びきってきる古い布を引っ張って破いてしまう現象が起こります。また、新しい葡萄酒はまだ発酵の途中ですから二酸化炭素を発生させています。ですから新しいお酒はやはり伸縮性がある新しい革袋に入れないと二酸化炭素のために袋が破裂してしまう恐れがあるのです。
このようにイエスは新しい時代には新しい習慣を用いるべきだと教えているのです。イエスによってもたらされた救いは私たちの生活を一新してしまいました。何かを求め、願い続ける生活から、私たちの生活を喜びと感謝を献げる生活へと変えたのです。そこで新しい断食の意味を見いだすためにイエスの先ほどの言葉が重要となって来るのです。
「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」(20節)。
この「花婿が奪い取られる時」とは何を言っているかについてはいくつかの解釈があります。しかしここではやはりイエスが十字架にかけられる時を表わすと考えたほうが自然だと思います。そしてイエスはそのときには断食しなさいと私たちに教えておられるのです。「花婿が奪い取られる時」、それは私たちの犯した罪がイエスを苦しめ、彼を十字架につけたときのことです。それは私たちにとって悲しむべき罪の現実が十分に示されるときです。しかし、同時にこのときは私たちの罪が十字架の贖いを通して完全に赦されるときでもあるのです。そして私たちはこの出来事を通して新しい命にあずかることができるのです。
そうであるなら、それを記念して行われる断食はやはり私たちが何かの願いを叶えていただくために行う古い形のものではないと言うことがわかります。キリスト教の伝統では断食には二つの意味があると考えられています。一つは私たちがキリストの受難と死を思うことです。そしてもう一つは私たちの悔い改めの心を神様の前に示すと言う意味があるのです。
ここでまず考えなければならないのは後者の「悔い改めの心」です。悔い改めとは私たちの心の向きを180度変換して神様の方に向きを変える行為であると言えます。そう考えると分かってくるのは、問題は神様を忘れ、神様の方を向いていなかった私たち自身にあると言うことです。ですから断食を通して求められるのは神様の関心を自分たちの方に向けることではなく、私たちの心を神様に向けることだと言えるのです。私たちの心を神様に向けるならば私たちはそこに私たちを愛し、私たちのためにイエスを遣わしてくださった神様の答えを見いだすことができるのです。私たちの断食にはそのような新しい意味があります。しかし、ファリサイ派の人々の考えるような古い断食の習慣は自らの敬虔な態度を示して、神様の関心を自分に向けようとする意味が隠されていたのです。確かに断食という習慣はこれ以後もキリスト教会の中に受け継がれていきました。しかし、イエス・キリストを通してこの習慣は全く違った意味を持つようになったことを今日のお話は私たちに教えているのです。
【祈り】
天の父なる神様。
私たちはあなたがキリストを私たちのために遣わしてくださっているのに、そのことさえも忘れて小さな自分の願いが聞き入れられないことに悩む者たちです。私たちに悔い改めの心を与え、私たちの心をあなたへと向かわせてください。そして私たちを愛し、私たちを一時たりとも見捨てることのないあなたの姿を見いだすことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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