1.すべての人間がイエスの死に関わっている
(1)ユダヤの指導者たちの陰謀
今日は受難週の礼拝です。そして私たちは教会暦に従ってこの礼拝でイエスの十字架の死の出来事を取り扱う部分を読もうとしています。
イエスの死を直接に望んだのは当時のユダヤの宗教的指導者でした。彼らはイエスの弟子の一人イスカリオテのユダを自分たちの陰謀に取り込み、イエスを逮捕させました。このマルコの福音書の14章ではイエスの逮捕に伴って開かれたユダヤの「最高法院」の様子が記されています(53〜65節)。そこではイエスを有罪にするために様々な証言が登場しますが、そのいずれもが偽証であり、イエスを訴える決定的な証拠とはなりえません。イエスの有罪の決め手は大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言う質問にイエスが
「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えたことにありました。この発言の結果、最高議会は神を冒涜する罪を犯していると判断したのです(61〜64節)。
今日の聖書箇所が登場する15章では舞台は一転してローマ帝国のユダヤ総督であったピラトの法廷となっています。イエスの誕生の際にこの地を治めていたヘロデ大王の死後、その地位を相続した息子アケラオはその残忍さと悪政のためにローマ皇帝から王としての地位を取り上げられてしまいます。その後、ユダヤとサマリアはローマの直轄地としてローマ帝国が派遣する総督によって治められることになっていました。
ユダヤ人たちがなぜこのピラトの手にイエスの裁きを委ねたのかについては様々な説明がされています。ユダヤ人の議会には罪人を死刑にする権限がなかったと言う説もあります。しかし殉教者ステファノの例を考えても、彼ら自身がイエスを殺害することは可能であったと考えることができます(使徒言行録7章54〜60節)。その上であえて推測するとすれば、やはり彼ら自身がイエスを処刑する責任を負うことを恐れた結果だと考えることができます。ピラトのせいにすれば彼らはその責任を免れることができるからです。
ところが、神に対する冒涜と言う罪はユダヤ人の間では死に値するものと判断されても、ローマの法律では死刑にあたる罪にはなりえません。そこで考え出されたのは「イエスは自分をユダヤ人の王と言っている」と言う訴状でした。先ほども言いましたように、ローマ帝国はヘロデの王政を廃止して、ユダヤを治めるために総督を派遣していました。そこでもし、誰かが自分を「ユダヤの王」と名乗ったとしたら、それはこのローマの支配に反旗を翻したと言う意味になり、国家反逆罪という死刑に値する罪を犯したことになるのです。イエスは結果的にこの罪状によってピラトの裁きを受け、ローマ帝国に対する国家反逆罪を犯した罪人として十字架につけられるのです。
(2)イエスの死のために一致する人間
私たちがここで注目すべきことは、普段は利害や価値観が全く違っていて、むしろ争い合っていた人々がイエスの死に対して協力し合っていると言うことです。まず、ユダヤ人同士が集まる最高議会の中には激しい対立が存在したいました。神殿の祭司たちによって構成されるサドカイ派の人々と、律法学者や長老たちによって構成されているファリサイ派の人々の対立です。彼らは同じ神を信じていると言いながらも聖書解釈やそれに基づく信仰生活についての考え方ではとても一致することのできない関係にありました。その彼らが不思議にもイエスを殺害するために力を合わせているのです。
またローマ総督のピラトはこのユダヤの宗教家たちと対立する人物でした。彼にとってローマの優れた文化や法律とは違って古い習慣や迷信のような信仰に捕らわれるユダヤ人たちは軽蔑すべき対象でしかなかったのです。また一方のユダヤ人にとってピラトは神に捨てられている汚れた異邦人の一人にすぎません。彼らはこのピラトやローマの支配を快く思ってはいなかったのです。しかし、ピラトもユダヤ人も共にイエスの死に対しては力を合わせる結果となっていくのです。
この出来事を通して福音書は私たち人間のすべてが利害や価値観を超えて、イエスの死に深く関わっていること、私たち人間がイエスを死への追いやったと言う事実を語ろうとしているのです。ですからこのイエスの受難物語を読むとき、私たちはそのどこかに自分の姿を見いだすことが出来るのだと聖書は教えるのです。そしてもし、「私はこのイエスの死と無関係である」と考える人がいるならば、その人は同時にイエスの提供する救いとも無関係になってしまうことになるのです。なぜなら、この神の御子を十字架にかけようとする人間の現実の姿を認めない限り、イエスの十字架の死の意味は誰にも理解することができないからです。
2.人間の理想がイエスを十字架にかける
19世紀のドイツの哲学者でフォイエルバッハと言う人物は「神とは人間の願望の産物であり、人間のこうあってほしいと言う願いが神と言う存在を作り上げた」と主張し、キリスト教を批判しました。彼の思想はマルクスやエンゲルスと言った人物の作り上げた共産主義思想に受け継がれ、人間は自分の願望を神を通してではなく、自分の力で実現していくことが大切だと言う考えに発展していきます。
ところが、このフォイエルバッハの神についての定義はイエスの死の意味を探るときはむしろ、矛盾するものとなってしまいます。なぜなら、イエスは人々の願望とは全く違った救い主であったからこそ、十字架にかけられ殺されてしまったからです。
まずユダヤの宗教家たちは自らが作り出した宗教思想に対して異を唱え、激しく自分たちを攻撃するイエスを邪魔者としてしか考えませんでした。また、今日の箇所に登場するピラトはどうでしょうか。彼はユダヤの宗教や聖書には無縁の人物でした。彼はむしろ政治家として政治権力と深い関わりを持つ人物でした。強い力によって当時の地中海世界を支配したローマ帝国の政治家として、彼が最も信頼するものは力です。ですから彼は「ユダヤ人の王」と言う罪状で訴えられたイエスを民衆の前に引き出します。イエスが本当にユダヤ人の王ならば、優れたリーダーシップを発揮して、民衆を動かすことができるはずだと考えたからです。またイエスが本当に民衆の支持を得ているならば、民衆は彼の命を救ってくれと訴えるはずだと考えたからです。しかし、ピラトの「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」(9節)と言う呼びかけに対して、民衆はイエスではなくバラバというテロリストを選び出します。ピラトにとって民衆を動かすことも、その支持を得ることもできないイエスはやはり無価値な人間でしかありませんでした。イエスは彼にとっても期待外れの人間でしかなかったのです。
民衆がイエスの替わりに釈放するように要求したバラバと言う人物は当時のローマ帝国の支配に武力で抵抗した民族主義者であったと考えられています。彼の名前はもともと「バル・アッバ」と言う言葉から由来して「父の子」と言う意味を持ったものでした。つまり、民衆はここで父なる神の子はイエスではなく、バラバのようなローマの支配と戦う英雄こそが相応しいと考えていたと言うことを示しているのです。
そして十字架にかけられたイエスの前に立っても彼らの態度は変りません。皆、自分の願望をイエスがどのように実現してくれるかと言うことだけに関心を払っています。「本当に神の子なら自分の力で自分を救え、十字架から降りてこい」とイエスに語りかけます(29〜32節)。イエスが十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と言う言葉を叫ばれたときも、彼らはイエスが旧約の預言者「エリア」を呼んでいると勘違いし、「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」(36節)と考えたと説明されています。このように彼らは終始、イエスが自分たちの理想に合った人物かどうかを考え、その結果彼は全く自分たちの願望に反する人物であると判断するのです。
イエスのこの十字架の死を前にして人の願望は確かに偽りの神々を作り出すことが可能ではありますが、その願望は真の神の姿とは相反するものであり、むしろ真の神を理解することを不可能にしてしまう恐れがあることを示しているのです。
3.神の法廷での出来事
(1)神の祝福を与えるために
それでは私たちはこの真の神を、またその神から遣わされた救い主イエスをどのように理解すればよいのでしょうか。福音記者マルコはこの出来事を脚色なく、単純に記しながらも、このイエスの死が旧約聖書に預言された出来事であると言うことを説き明かしていきます。
イエスは十字架上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。その意味は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言うものです。この言葉からイエスの十字架の死は彼の生涯の失敗を現わすものだと考える人がいます。しかし、この言葉は旧約聖書の詩編22編に登場する信仰者の言葉そのものなのです(2節)。またこの同じ詩編22編には次のような言葉も登場します。
「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう」」(8〜9節)。
この言葉は十字架にかけられたイエスを侮辱するユダヤ人たちの言葉と合致しています。マルコはこのようにイエスの死は旧約聖書の預言の通りに実現したものだと私たちに教えているのです。
そしてこの詩編の最期の部分は次のような言葉で締めくくられています。「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」(30-32節)。この出来事を通して神様の祝福が彼の子孫にまたすべての民に告げ知らされると語られているのです。つまり、イエスの十字架の死はそれを信じるすべての人々に神の祝福を与えるためのものであったと言うことがここでは説明されているのです。
(2)神の裁きを受けるために
しかし、それならばどうしてイエスの十字架の死は私たちに祝福をもたらしてくれるものと言えるのでしょうか。マルコはその答えをも簡単な言葉を通して説明しています。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(33節)。ある人々は歴史を調べてもこの時期にこの聖書の物語を支持するような日食が起こった形跡は確認できないと語り、そもそも三時間も日食によって太陽が隠れてしまうことはあり得ないとこの聖書の史実性を否定しています。しかし、その主張は神の超自然的な力の介入を認めようとしないばかりか、近代社会の作り出した自然科学万能主義に縛られてしまったものでしかありません。もちろん私たちもこの事実を何らかの科学によって説明することはできません。しかし、大切なのはこの出来事が神のみ言葉を通して何を私たちに教えているかとう言うことではないでしょうか。
たとえば旧約聖書の預言者アモスは次のような言葉を残しています。
「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8章9〜10節)。
また同じ旧約の預言者の一人エレミヤはこのように記しています。
「七人の子の母はくずおれてあえぐ。太陽は日盛りに沈み/彼女はうろたえ、絶望する。わたしは敵の前で民の残りの者を剣に渡すと/主は言われる」(エレミヤ書15:9)。
このような聖書の言葉はいずれも白昼に太陽が隠れるという出来事が神の厳しい裁きが行われるときと関連させています。つまり、この出来事はイエスの十字架の死がローマ総督ピラトのような人間の裁きの結果で起こったのではなく、神の厳しい裁きの結果、その裁きがイエスの上に下されたと言うことを示しているのです。 またマルコは記しています。
「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)。
神の厳しい裁きがイエスの上に下された結果、神殿の聖所と至聖所を区切る垂れ幕が上から下に裂かれます。この行為が人の仕業であれば、幕は下から上に裂かれるのですが、この場合はその逆で神がこの行為の主人公であることを意味しています。神殿の至聖所は生け贄を携えた大祭司が一年に一回だけ入ることが許された場所です。それは私たち人間と神様との間を隔てる罪を象徴するものと言えるのです。しかし、その神と人間の交わりを阻む罪の問題がこのイエスの死によって解決されたのです。それによって私たちはイエスの預言の言葉の通りに「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(ヨハネ4章23節)という出来事が成就して、私たちがどこにあっても神を礼拝し、神と共に生きることができる救いの時代が到来したのです。
(3)百人隊長の告白
さてこの一部始終を十字架のすぐそばで目撃していたローマの軍隊の百人隊長は次のような言葉を語っています。「本当に、この人は神の子だった」(39節)。
彼がどうしてこのような素晴らしい告白をなし得たのか聖書はその秘密を明らかに記していません。あるいは彼の中にその秘密を捜そうとすることは間違いであるとでも言っているかのように、聖書は彼の告白をここで突然に登場させているのです。むしろ、この告白も神の働きの結果で現れたものであり、彼の告白を通して、私たちはこの十字架にかけられたイエスこそまことの「神の子」であることを確認することができるようにされるのです。また、上から下に裂かれた神殿の垂れ幕によって象徴される新しい救いの時代の出発が彼のような異邦人をも神はその救いへと招いておられることを彼の信仰告白は表わしているのかもしれません。
いずれにしても百人隊長はイエスの十字架の死を通して実現した神のみ業の素晴らしさの前に「イエスこそ神の子である」と言う告白をせざるを得なくされた人物であると言うことができます。同じようにこのイエスの十字架の死と向き合う人は今まで持っていた神に対する様々な願望を粉々に打ち砕かれるのです。そして私たちのためにイエスを十字架にかけて、私たちの救いを成し遂げてくださった神の素晴らしいみ業を心から褒め称え、そこに希望を見いだす者に変えられることを彼の告白は私たちに教えているのです。
【祈り】
天の父なる神様
私たちの抱く願望とは全く違ったあなたの偉大な救いのみ業に感謝いたします。愚かな私たちはイエスを十字架にかけることしかできない罪人です。私たちに聖霊を送り、十字架の意味とそこから与えられる祝福を悟らせてください。百人隊長のようにこのイエスこそ「真の神の子」であり、私たちの救い主であることを告白できるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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