1.復活のイエスの自由な存在
今日の聖書箇所には復活されたイエスが弟子たちの前に現れた出来事が記されています。まずここでは、エルサレムのある部屋の一室に閉じこもっていた弟子たちの真ん中に復活されたイエスが現れます。次にこの出来事に関係して、弟子の一人のトマスがそこに居合わせなかったために起こった出来事が紹介されています。そしてこのトマスのために復活されたイエスが再び現れるという出来事が記されているのです。
まず、この箇所で私たちが注目すべきことは復活されたイエスが自由にご自身を現しておられるという事実です。そのために二つの出現物語を知らせる聖書の記述にはわざわざ「戸には鍵がかけてあった」(19、25節)と説明されています。これは復活されたイエスの体が十字架以前の体とはまったく違ったものであること示しています。しかも後のトマスの物語ではイエスは「自分の体に触ってみなさい」と言われていますから、復活されたイエスの体が幽霊のような存在ではなく、実際に手に触れることのできる体を持ちながら、しかもその体はどこにでも現れることができる自由な存在であったことを示しています。
さらに復活されたイエスの自由を語るときにもっと大切なのは、その出現が誰の指示によるものでもなく、イエス自らが自由な意思によって出現されているという事柄です。私の子供のころにやっていたテレビドラマに『マグマ大使』というのがありましたが、彼の場合は危機を感じた主人公の少年が吹く笛の音を聞いてその場所に飛んできます。この場合はマグマ大使の出現を指示する主導権はその少年にあるということになります。ところが、復活のイエスの出現は彼自身の全く自由な主導権によって起こっているのです。つまり言葉を換えれば弟子たちがいくらイエスに会いたくても、彼らはイエスの出現を自分から指示することができません。むしろ、イエスはご自身の決断によって、ご自身の現れたいところにその姿を現れるのです。ですから、必ずと言っていいほど、人間の側には驚きと混乱が起こります。それは人間の筋書きを超えたイエスの主導権がこの事実の中に貫かれているからです。
イエス・キリストの復活と言う出来事は人間の側からの理解を拒み、人間の作った脚本を受け入れない、全く自由な神の主導権によって起こる出来事として紹介されているのです。
2.平和はイエスの贈り物
私たちの信仰とはこのような意味で自分の人生の主導権を復活の主イエスに委ね、神様がイエス・キリストを通して示してくださる脚本に従うことであると言えるかもしれません。そうでなければ私たちはいつまでも自分の作り出す信仰生活に固執して、復活イエスに出会うことができなくなってしまいます。しかし、そのことは案外簡単なように見えて、罪人である私たちに人間には非常に難しいことであると言えるのです。ですから、神様はときには私たちを自分の力の限界に立たせ、これ以上は自分には何もできないという状況に導かれた上で、私たちが自分の主導権を神様に委ね、神様の脚本に自分を従わせるようにしてくださることがあるのです。このとき、エルサレムの部屋に閉じこもっていた弟子たちはそのような状況に立たされていた人々だと考えることができます。
イエスはかつてご自分が十字架にかけられることを弟子たちに予言されたとき、それを聞いた弟子たちはまずその事実を受け入れようとしませんでした。その一方で彼らは自分の力に自信を持っていたようです。たとえば弟子一人のペトロはイエスのためであるなら「命を捨てる」とその覚悟を語っています(ヨハネ13:37)。また別の箇所でイエスがエルサレムに危険を顧みずに入城されようとしたとき、そのイエスに対して今日の物語のもう一人の主人公のトマスは「イエス様とともに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と勇敢な発言をしています。ところが実際に弟子たちはイエスの十字架の出来事を前にして彼を捨てて逃げ出してしまいます。つまり自分たちが描いた筋書き通りに現実は進まなかったのです。
おそらくこのとき彼らはイエスを捕らえたユダヤ人たちが自分たちにも迫害の手を伸ばすだろうと考えていたのでしょう。ですからエルサレムの一室で扉に内側から鍵をかけ、脅えながら部屋に閉じこもっていたのです。
私の叔母は癌でなくなりましたが、抗がん剤の治療で苦しんでいる最中に見舞い客から「がんばれ」と言う言葉をかけられて、「これ以上どうしたらいいの」と涙を流していたことがありました。私たちは間単に人に「頑張れ」と言ってしまいますが、このときの叔母のように人間の力のぎりぎりのところで闘っている人には返ってその心を苦しめ追い詰めてしまう言葉になってしまうのだなとそのとき思わされました。
「これ以上どうしていいのか分からない」。そんな自分の力の限界にこのときの弟子たちは立たされていました。もう彼らには自分ではこれ以上頑張る力はないのです。しかし、そのときに復活されたイエスが彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と声をかけてくださったのです。この出来事は私たちの信仰生活にとって大切なことを示しています。私たちは普段、自分の力で、あるいは自分の頑張りで自分の人生に、そして自分の心に平和を実現させようと必死になっています。しかし、本当の平和は私たちの力や私の内側から生まれてくるものではなく、イエス・キリストが私たちに与えてくださる賜物、贈り物と言えるのです。そしてこのイエスが与えてくださる平和は私たちの力の限界を超えて私たちを支配し、私たちを導く力となるのです。それではその平和は具体的にどのような形で私たちの人生に実現していくのでしょうか。
3.聖霊によって神に主導権を委ねる生活
聖書は次にこのようなイエスの言葉を記録しています。
「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」」(21〜22節)。
イエスはここで聖霊を受けるようにと弟子たちに言われ、実際に彼らに「息を吹きかけ」られました。この言葉は創世記で神様によって人間が土の塵から造り出されたときに、神様が人間に息を吹き入れられて生きる者になったときの表現と同じものです(創世記2:7)。つまり、この箇所から考えるとこのときイエスは弟子たちに新しい命を与えられてということになります。そしてその命を支えるのが聖霊なる神様の役割であるとイエスは説明しているのです。この言葉の通りイエスを信じて新しい命に生きる者は誰でもこの聖霊を受けなければなりませんし、この聖霊を受けなければ信仰者として生きていけないのです。
それではこの聖霊を受けたときに信仰者の人生はどのように変化するのでしょうか。簡単に言えばその人生の主導権が自分から神様に替わるということなのです。弟子たちの生き方は今までは自分の力で「頑張る」人生であったということができます。興味深いことに日本語の「頑張る」という言葉は「我を張る」という言葉から生まれてきたと言う説があります。確かに、私たちは頑張るとき自分の力をフル回転させ、自分の力に100パーセント頼ることになります。ところがそうなると私たちの人生に神様の力が入り込む余地はなくなってしまうことになります。つまり、「頑張る」、「我を張る」という生き方は神様なしで生きる人間の生き方を指すと言えるのです。
聖霊を受けるということは、この私の人生の領域すべてに神様の力が働いてくださるように神様にその人生を委ねることを言っています。言葉を変えて言えば先ほどから私たちが論じているように自分の人生の主導権を神様に委ね、私たちが神様の脚本に従って生きて行く生き方を表すのです。聖霊なる神はそのような出来事を私たちの信仰生活に実現してくださるのです。
4.イエスの愛を信じる
(1)示された傷跡
さて、ここで私たちは今日の物語の後半の出来事、トマスに現れたイエスの姿から復活のイエス・キリストを信じるということがどのようなことであるかをさらに詳しく考えたいのです。トマスはほかの弟子たちがイエスの姿を目撃したときにそこに居合わせなかった(24節)と聖書に語られています。先ほども触れましたが、トマスはかつてイエスに対して「自分も一緒に死ぬ覚悟ができています」と勇敢な発言をしたことがありました。おそらく、この言葉はトマスのイエスを愛する正直な気持ちから生まれてきたものと考えることができます。しかし、実際のイエスの死を前にして彼は自分の気持ちや自分の決心がどんなに頼りなく、不確かであるかを痛感させられたのです。「自分は取り返しのつかない失敗をしてしまった」。そう考えるトマスに、イエスが自分だけを差し置いて、他の弟子たちに復活された姿を現されたというニュースが伝わります。
「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」」(25節)。
このように「自分はそんなことを決して信じない」と断言したトマスでした。私はこのトマスの発言を現代人と同じような科学的実証主義から生まれた疑いと同じように考えるのはふさわしくないと思っています。むしろこのときのトマスの心を推測するときに、この言葉は彼の心の悲痛な叫びに聞こえてくるのではないかと考えているのです。トマスはこのとき自分が取り返しのつかない失敗を犯してしまったと思っていました。そして復活されたイエスが自分以外の弟子たちの前に現れたと言うニュースを聞いたときに、トマスはおそらく「自分だけが取り残されてしまった。自分はイエスに見捨てられてしまったに違いない」と思ったのではないでしょうか。そんな彼にとってイエスの復活は到底受け入れることができない出来事として心に迫ってきたのだと思うのです。そしてその心の表明が「私だけは信じない」という言葉となったと考えるのです。
ところが復活のイエスは一週間後の日曜日に今度はトマスも含む弟子たちの前に現れます。そしてイエスはトマスに自分が十字架で受けられた傷跡を示し、それを触って見るようにと薦められます(27節)。もちろんこれはトマスが自分からそれを確かめなければ決して信じることができないと言っていた発言を直接には受けたイエスの行為と考えていいでしょう(25節)。しかし、ここで私たちが忘れてはいけないのは、イエスの十字架の傷跡はトマスにとって、そして私たちにとって何を意味するものかということです。イエスが十字架で受けられた傷跡は私たちへのイエスの確かな愛を示す印なのです。なぜなら、その傷跡はイエスが私たちの罪を担って十字架にかけられたことを示すものだからです。つまり私たちを愛するために受けられたものがこの傷跡だと言えるのです。
イエスはこの傷跡をトマスに示されたのです。そこにはトマスを心から愛しているイエスの愛の証拠が示されているのです。「自分はイエスに見捨てられてしまったに違いない」。そのように考え、苦しむトマスにイエスは「決してあなたを見捨ててはいない。そしてこれがあなたを愛している証拠だ」とご自分の傷跡を示されたのです。そして聖書はこのときトマスがその傷跡に触れたとは記していません。むしろ、トマスはイエスの愛の証拠を示されて「わたしの主、わたしの神よ」(28節)とその信仰を告白せざるを得なくなってしまうのです。
(2)イエスの愛を信じる
イエスはこのときにトマスに次のような言葉を語っています。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)。トマスは確かにここで復活の主を見ることができました。しかし、彼がイエスの復活の事実を信じたのは単にそれを肉眼で観察できたからなのでしょうか。むしろ、彼の信仰告白を決定的にしたのはイエスの傷跡が象徴するイエスのトマスに対する愛ではなかったのでしょうか。そして聖書記者はその事実を私たちに教えることで、私たちは今、この弟子たちのように復活の姿を目で確認することができないが、その出来事を信じるようにされていると教えるのです。そしてそれがどんなに幸いなことかと言うことをイエスの言葉を通して語りかけているのです。
私たちもみなこのトマスと同じような体験をして、実際に復活の主を信じる者とされた者たちではないでしょうか。私たちはイエスの復活を目で目撃したり、何らかの科学的証明に説得されて信じたのではありません。私たちはトマスのように聖書の言葉を通してイエスの私たちに対する愛を確信させられ、そのイエスを信じる者とされたのです。そして、このイエスの愛を信じる者はイエスが今も復活され、生きておられることを信仰生活の中で確信することができるようにされるのです。
復活の主を信じる信仰とは、単にイエスが死んだ人の中から甦ったことを信じる信仰ではありません。むしろ、私たちを愛して私たちのために十字架にかけられたイエスの愛を信じて、そのイエスに自分の人生の主導権を委ねいくこと、そしてそのイエスによって示された神様の脚本に自分自身を委ねていくことがイエスの復活を信じる信仰と言えるのです。そしてイエスはそのような信仰生活を私たちの上に実現させるために今も私たちに聖霊を送り続けてくださっているのです。
【祈祷】
天の父なる神様
私たちに聖霊を送ってくださり、私たちに対するイエスの愛を確信させ、そのイエスが今も生きておられる方であることを教えてくださるあなたの御業に感謝いたします。どうか私たちがその聖霊に自分の人生の主導権を委ねていくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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