1.キリストの復活と礼拝
(1)復活の確かさに裏付けられる礼拝
イエスの復活について今日はルカによる福音書の箇所から学びます。今日は特に、私たちが毎週日曜日に守っている礼拝とキリストの復活との関係について考えたと思うのです。ご存知のように私たちが毎週の日曜日に献げている礼拝はこのキリストの復活を記念して始まったものです。それ以前までユダヤ人たちは旧約聖書の律法に従って土曜日の安息日を神様に献げる日として守り、その日に礼拝を献げていました。ところが、キリスト教会が始まりますとこの礼拝の日が土曜日から日曜日に変ります。どうして、そう変ったかその主な理由はこの日曜日の朝にイエス・キリストが墓から甦られたことにあると言えるのです。この日曜日の日、イエスの死を悲しみ、自分たちの運命に不安を覚える弟子たちの群れに復活されたキリストはご自分の姿を現わしてくださいました。その出来事によって弟子たちに与えられた喜び、感動、さらには希望が、この日曜日に礼拝が移された根拠と考えることができるのです。
作家の遠藤周作氏はカトリックの信仰を持った人でしたが、その著作の中で「キリストの復活を簡単に信じることができない」と言う自分の気持ちを率直に述べています。しかし、その遠藤氏が否定することができない事実として語っているのは、イエス・キリストに従った弟子たちがある時点を境に驚くべき変化を遂げたと言うことです。それまで自分を守ることで精一杯で、そのためにイエスを十字架に残して逃げ出してしまった弟子たちが、ある時を境として劇的と言ってよい変化を遂げているのです。どうして弟子たちはこのときから自分の命も惜しむことなく福音伝道に励むことができたのか。その事実を突きつけられるときに弟子たちの上に重大な何かが起こったと言うことを否定することはできないと遠藤氏は語っているのです。
人は容易に変るものではないことを私たちは自分の人生を通してよく知っています。そんな私たちと同じような人間であった弟子たちが変ってしまったことを説明できる唯一の理由は、キリストの復活以外ありえないのだと思います。復活されたキリストが弟子たちのところに確かに現れてくださったことによって、恐怖と絶望に襲われていた弟子たちが、喜びと希望に満ちた者たちに変えられたのです。そしてこの確かな事実がキリスト教会の日曜日の礼拝の原点に存在しているのです。つまり、私たちの日曜日の礼拝はこのキリストの復活が事実であることを示す一つの証拠とも言えるのです。
(2)生けるキリストの聖霊によって守り続けられる礼拝
私は牧師として改革派教会から任職を受けました。私たち牧師に与えられている任務はいろいろとあると思います。しかし、その中で最も重要な任務は日曜日の朝に神様に礼拝を献げること、礼拝を守ることだと言えるのです。残念ながら地方の改革派教会で様々な理由によって牧師がいない教会があります。そのような教会に対して、改革派教会が責任を果たすためにすることの第一はその教会の毎日曜日の礼拝を絶やすことなく守り続けることです。そのために説教者を送ったり、それが出来ないところでは礼拝のためのテープを送るなどの様々な努力がなされています。礼拝を行わない教会は教会ではありません。ですからイエスの復活を記念する日曜日に教会は礼拝を献げるために最大の努力を払うのです。
おそらくここに集まる皆さんもこの日曜日の礼拝のために様々な努力を払っておられると思うのです。私たちが日曜日に礼拝に集うのは生活に余裕があるからではありません。この礼拝こそが私たちの人生にとって最も大切なことだと信じているから様々な犠牲を払って出席しているのです。キリスト教会は誕生して2000年近い歳月を経ています。その歴史の中で日曜日に礼拝を献げることが困難であったことがたびたびありました。しかし、それでも信者たちはこの礼拝を守り続けてきたのです。それは礼拝を献げる人々の熱心さの背後でイエス・キリストが聖霊を送って、その信仰生活を励まし、導いてくださっていた証拠だと言えるのです。つまり、日曜日の礼拝が今もなお続けられているのはこのイエスが確かに復活されて、聖霊を送って私たちの信仰を守り続けてくださっているためなのです。私たちはそのことからもイエスの復活の確かな証拠をこの礼拝を通して得ることができるのです。
2.証言と共に現れるイエス
今日の箇所ではエマオと言う村に行く途中で復活されたイエスに出会い、彼と対話し、エマオの村の宿で食事を共にした二人の弟子の物語(24章13〜32節)に続く出来事が語られています。ここで二人の弟子は復活されたイエスに出会ったという出来事を他の弟子たちに伝えるためにその日の内にエルサレムへと引き返しています。35節の「二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」とはこの二人の弟子たちの行動を指しています。ところでここで注目すべきなのはこの二人の弟子たちが他の弟子たちに自分たちが復活されたイエスに出会ったと言う体験を語っている途中で、35節で記されているように復活されたイエスご自身がその場所に現れたと言うことです。
このことはイエス・キリストがその復活の証言を語る人々の群れに、ご自身の姿を現わされ、そしてご自身が十字架の上に勝ち取ってくださった平和を賜物として与えてくださると言うことを私たちに教えています。私たちは日曜日毎に集まり、礼拝を献げます。礼拝で説教者はこの復活されたイエス・キリストを示す福音を語ります。そしてそれだけではなくて、そこに集う者すべてがそれぞれ、自分の人生を通して復活されたキリストが今も生きておられることを証し、語り合うのです。そしてそれは礼拝に集う者に与えられた重要な使命であり、恵みなのです。そしてその証言が語られるところにイエス・キリストは現れてくださり、平和を豊かに与えてくださるのです。その意味で、この日曜日の礼拝こそ、私たちが復活されたキリストと出会いその平和をいただくことのできる素晴らしい場所であると言えるのです。
3.心はいつ開かれるか
(3)復活のキリストに気づかない人間
さて、今日の箇所とこの前の箇所に示されるエマオの物語では復活されたイエスに出会った人々の報告が記されていますが、そこにはいくつの共通点を確認することができます。第一にイエスに出会った人々は、最初その方が復活されたイエスであると言うことが分かりません。エマオに向かう二人の弟子は自分たちの目が遮られていて、自分たちに親しく語りかけてくれた人がイエスではなく誰か他の第三者のように考えています(16節)。また、今日の箇所でも復活されたイエスを目撃した弟子たちは、そのイエスが「亡霊」かもしれないと思い込んでいます(37節)。これは大変、関心のある出来事です。つまり、私たち人間はたとえ身近に復活されたイエス・キリストが現れても、そのままではその方に気づくことができないことを教えているからです。その限りでは、イエスの復活を信じられないと言う人は、むしろ、復活されたイエスに気づいていない人々だと言ってもいいのかもしれません。
そこでさらに二つの物語に共通にしているのは、イエスに気づかない人々に自らの復活の出来事を預言する旧約聖書を用いて、その出来事についての説明をしているというところです(25〜27節、44〜47節)。そしてその説明の経て、はじめてエマオに向かう弟子たちの目が開き(31節)、弟子たちの心の目が開かれたと言うのです。
(2)聖霊はどこで私たちの心を開かれるか
これらの言葉を通してわかることは本来、復活されたイエスに気づくことのできない私たち人間がそれを信じることができるためにイエスは聖書の言葉を教えて、その目を開いてくださるということです。
このことを考えるときに私たちの礼拝の中心に聖書の朗読とそれを解き明かす説教が置かれていることがどんなに重要であるかがわかるのです。この礼拝で私たちはどうしてこの聖書の言葉に耳を傾けようとしているのでしょうか。それは私たちの閉ざされた心の目をイエスによって開いていただくためなのです。イエスの送ってくださる聖霊はそのことを私たちにしてくださるのです。そしてその結果、私たちは確かにこのイエスが私たちの礼拝の中心におられ、私たちの礼拝を喜んで受けてくださっていることを知るのです。私たちの礼拝はそのような意味で復活されたイエスを信仰の目を持って確認し、そのイエスを通して神様を礼拝することができる恵みの場所であると言うことができるのです。
4.イエスの御業があらわされる礼拝
(1)イエスの御業を証しする
さて、復活されたイエスによって心の目が開かれた弟子にそのイエスは重要な命令を下しています。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(46〜48節)。
イエスは私たちに証人となりなさいと命じています。それはメシアであるイエスが死者の中から復活されたこと証するために、また罪の許しを得させる悔い改めが、このイエスの何よってあらゆる国々に宣べ伝えられることの証人となることです。ここで私たちは聖書の語る微妙な表現に注意を払いたいのです。普通、私たちは罪の許しを得させる悔い改めをすべての国々に伝えるのは私たち信者に与えられた尊い使命であると考えます。ところがここでは私たちが証するのはその罪の許しを得させる悔い改め、つまり福音がすべての国の人々に宣教されていることを証ししなさいとイエスは語っているのです。ここで、福音をすべての人に伝えるのは私たちではなく別の方で、その方がされているみ業を告げ知らせる証人とさなたがたはなりなさいと言われているのです。
使徒言行録によれば弟子のペトロはエルサレム神殿の美しの門の前で物乞いをしていた人にこう語りかけています。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3章6節)。このときペトロは自分には何もできないことがわかっていました。しかし、復活されたイエス・キリストがそこで働いてくださることを彼は知っていたのです。ですから彼はその御業をこの物乞いをする人にも証言したのです。
私たちに与えられた使命は私たちが何かをすることではなく、この復活されたイエスが今も豊かに働いてくださることを証し続けることにあることをこのイエスの言葉は教えているのです。
(2)命の支配の勝利を告げ知らせる礼拝
むかし仏陀は死体が無数に転がっている村はずれの墓場で何日間も瞑想を続けたといわれています。それは人間を支配する死の現実と向き合い、その死の現実から人間はどのように解放されることが出来るかを探るためだったのかもしれません。
ローマ時代、キリスト教会は迫害を避けるために当時の共同墓地で礼拝をささげたと伝えられています。普通は誰も怖がって墓には近寄らないことが、弾圧を避けて礼拝を守ろうとする信者たちには好都合だったのでしょう。しかし、どうして人間は墓に近づくことを恐れ、また避けるのでしょうか。そこには死の現実が横たわっているからではないでしょうか。そしてその現実に耐えることができず、恐怖や不安、さらには絶望を覚えるのが私たち人間の本当の姿なのです。しかし、ローマ時代の信者はその死の現実が支配する墓でこの礼拝を守ったのです。それはどうしてでしょうか。人間を恐怖と不安で縛りつけ、絶望に追いやる死の力をイエス・キリストが打ち破ってくださったことを彼らが確信していたからです。そこに集まる者にとってイエス・キリストが復活されたことと、その方によって私たちに新しい命が与えられたことは私たちを支配する死の現実以上に確かなものとなっていたのです。確かにイエスは復活されて私たちに新しい命を与えてくださっています。そのイエスの祝福の力が満ち溢れる場所こそがこの日曜日の礼拝であることを私たちは覚えたいのです。
【祈祷】
天の父なる神様。
私たちを恐れと絶望につなぎ止めていた死と罪の現実を打ち破って、復活されたイエスのみ業に心から感謝いたします。多くの信仰者が抱いた喜びと希望を私たちは受け継いでこの礼拝に参加しています。私たちの上に聖霊を遣わして、私たちの心の目を開き、この礼拝の真ん中におられるイエスを確認することが出来るようにしてください。そしてそのイエスが地の果てまで福音を宣べ伝えてくださることの証人として生きることができますように、最初の弟子たちと同じように私たちにも相応しい言葉と力を与えてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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