1.実を結ぶため
(1) イエスと私たちとの関係
イエスを信じる私たちにとって、最も素晴らしい祝福とは何かと尋ねられたとしたら、きっと多くの人は「主イエスがこの私といつでも一緒にいてくださることです」と答えるかもしれません。ところで主イエスがこの私たちと一緒にいてくださると言うことは具体的にどのようなことを言っているのでしょうか。それはイエスはいつも私たちの傍らに立って私たちの人生をそっと見守ってくださっていると言うことなのでしょうか。今日、私たちが読むヨハネの福音書はこの私たちの疑問に答えてくれる箇所だと言えます。ヨハネの福音書は聖書の中でも最も後に書かれたものと信じられています。当時、福音記者ヨハネの周りには地上で活動されていたイエスの姿を知っている人はほとんどいなかったのです。ですから「目で見ることのできないイエスをどのように信じることができるのか」。そして「そのイエスは今、私たちとどのような関係にあるのか」。福音記者ヨハネは当時の信仰者たちのこの疑問に答えるべく、この福音書を記したと考えられているのです。
今日の箇所はイエスが逮捕される直前に行われた弟子達との食事会で語られたイエスのメッセージの一部分です。このときイエスは間近に迫る自分の逮捕と十字架の死を前にして、弟子達に自分がいなくなった後のことについて語っています(14章28節)。しかし、ヨハネはこのイエスの言葉はイエスの姿を今は肉眼では見ることができない者たちにも語られた言葉であるとこの福音書を読む読者たちに紹介しているのです。
結論から言えばイエスは私たちの傍らに立って私たちをそっと見守っているような存在ではなく、むしろ私たちと切って切り離せない深い関係にあること、この復活のイエスが存在しなければ私たちは信仰者として存在もありえないと福音書は教えているのです。イエスはこの大切な真理を当時のイスラエルの人々にはたいへんに馴染みの深かったぶどうの木にたとえてお話されています。
(2) 私たちとイエスは一つ
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)。
私の家には子供のときからブドウの木が植えられていて毎年夏になると、たくさんのぶどうが実りました。残念ながらスーパーで買って来るようなぶどうと違って私の家のぶどうは甘くなく、とても酸っぱくて、しかもたくさん種が入っていたので自分でそれを食べた記憶はあまりありません。それでも実が熟してくると何とも言えない甘い香りがあたりに漂ったことを思い出します。父はよくそのぶどうをさとうと一緒につけ込んで、焼酎を入れて果実酒を作っていました。ぶどうの木と言うと私はあの家に生えていた木を思い出します。イスラエルに生えている木は私の家のぶどうの木とだいぶ違うのでしょうか。
私の家のぶどうの木はそんなに太いものではありませんでした。細くてひょろひょろしていてそれがぶどう棚に絡みついて広がっていきます。おそらく、どこからがぶどうの木で、どこからがその枝なのか厳密には分けられないのではないでしょうか。イエスがぶどうの木とぶどうの枝の関係でご自分と私たちの関係を言い表された第一の特徴はどこまでがイエスか、どこまでが私たちか区別が付かないほどに私たちの関係は密接であると言うことを教えているのです。ぶどうの木は木だけでは実を結ぶことはできませんし、枝だけでも実を結ぶことができませんつまり。木と枝は一体となって実を結ばせるのです。私たちが信仰者として生きていることとイエスが生きていると言うことは全くこれと同じなのです。
つまり、もしキリストの復活と彼が今も生きておられることを否定するなら、私たちの信仰者としての存在も成り立たないことをこのたとえは私たちに教えているのです。
2.豊かな実とは何か
(1)「実を結ぶ」ことへの誤解
このイエスの言葉の中で何度も出てくるのは「実を結ぶ」と言う言葉です。農夫はぶどうの木を何のために植えるのでしょうか。それはぶどうの実を豊かに収穫するためであると言えます。その意味でここに出てくるぶどうの木は鑑賞用のものではなく、ゆたかな実を結ぶために植えられているのです。ですから、当然、実を結ばない枝は取り除かれてしまいます(2節)。そこで問題となるのはこの実とはいったい私たちの信仰生活において何を意味しているのかと言うことです。
かつて、ある信仰者たちは自分が神様の救いに選ばれている証拠を自分たちの信仰生活に現れる「実」で判断しようとしました。そのために、彼らは大変まじめで、敬虔な生活を心掛けたのです。アメリカ大陸に渡った厳格なピューリタンたちの生活の背後にはそのような考え方があったと言われています。もちろんすべてのピューリタンがそうであったと言えませんが、そこで生まれてくる考えは、信仰者として立派に実を結ばせている自分に満足する反面で、そうでない人、信仰者として実を結んでいない人を裁き、冷たくあしらうと言うことになったのです。これはまるで新約聖書に登場するファリサイ派の人々の信仰に逆戻りしてしまうことになります。罪を犯したり、信仰者として惨めな生活をしている人を「キリストに結びついていない人だ」と彼らは判断してしまったのです。この15章には実を結ぶと言う言葉とともに「愛」と言う言葉が密接な関係で登場しますが。「豊かな実を結ぶ」と言うことを誤解してしまうとむしろこの「愛」からかけ離れた信仰生活が生まれてしまうことに私たちは注意しなければならないのです。
(2) 弟子になるために、神の栄光をあらわすために
イエスはこの箇所で「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)と言われています。そのまま読んでしまうと「イエスにつながっていれば自分の人生は何でも望み通りになる」と読めるような言葉がここには語られています。しかし、どうでしょうか。ここに集まっている者の中でどれだけの人が「自分の人生は自分の望み通りに実現しています」と言える人がいるでしょうか。おそらく、多くの人は「どうもそうは思えない」と答えるのではないでしょうか。そうすると私たちは、本当はイエスに「つながっていない」と言うことになってしまうのでしょうか。自分の人生が思い通りにならないのはそのためだと考えるべきなのでしょうか。このすぐあとのところでイエスは次のような言葉を付け加えています。
「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(8節)。
ここでは私たちが「豊かに実を結ぶ」ことがお金持ちや社長になることではなくて、イエスの弟子になること、それによって父なる神が栄光をお受けになるためだとイエスは説明されているのです。つまり、ここでの願いは私自身の勝手に抱く願いではなくて、キリストの弟子としての願い、神の栄光が現れるための願いであると言うことが分かるのです。そうなると私たちが普段思い描いている願いとこの願いはだいぶ違うことを言っていることになるわけです。
私たちは自分の人生が思うとおりにならないことで苦しみます。お金持ちになりたいのに財産を失うことがあります。また、健康で長生きしたいと考えながらも、突然、病に犯されることがあります。人々から評価され名誉を得たいと考えながら、恥をかくだけで、人々に邪魔者のように扱われることがあります。自分の思い通りに人生が進まないときに、私たちはイエスとの関係を疑うときがあります。本当に今、イエスはこの私と一緒にいてくださっているのだろうかと。
しかし、イエスは私たちが彼の弟子として生きるように、神の栄光を現すことができるようにと導いてくださると約束されているのです。そう考えるなら、私たちが人生に起こる出来事の意味の評価は大きく変わってくるのです。自分の思い通りに行かない人生が現実としてあります。しかし、それはイエスの弟子となるために、神の栄光を現すためにイエスが私たちのために豊かに与えてくださる実りなのです。その視点で考えるならば、私たちの人生に豊かな実が今も結ばれていると言うことが理解できるのです。このような意味で、ここで語られている豊かな実とは、私たちがイエスの弟子であることを示す実であり、それによって父なる神が栄光を受けられるための実なのです。私たち自身の自己満足が満たされるための実ではないのです。
3.どうして実を結ぶことができるのか
(1) イエスの言葉にとどまる
さて私たちはそのような豊かな実を結ぶようにと生かされているとイエスのこのたとえ話は教えています。それならば、私たちが豊かな実をその信仰生活で結んで、イエスの弟子として生き、神の栄光をあらわすために私たちはどうしたらよいのでしょうか。ここで何度も語られるのは「わたしにつながっていないさい」と言う言葉です。イエスにつながっていること、ぶどうの木につながっていなければ私たちは何一つ実を結ぶことができないばかりか、用のない枝として火に投げ入れられて焼かれてしまう(6節)とまでイエスは語られているのです。
このイエスにつながることを考えるために大切になってくるのは「わたしの言葉」つまりイエスの語られた言葉だと考えることができます。まず、最初のところでぶどう園の農夫である父なる神は実を結ばない枝を取り除いた上で、そのほかの枝はますます豊かな実を結ぶために手入れをされると語られています(2節)。そしてその後でイエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3節)と言われています。実はここで「清くなっている」と言う言葉は、2節の「手入れをする」と言う言葉と同じ言葉が用いられているのです。つまりここではイエスは「あなたたちは既に私の語った言葉によって豊かに実を結ぶために手入れをされた」と言われていることになります。つまり私たちが豊かに実を結ぶために必要な手入れとは、イエスの語られた言葉にあると言うことが分かります。
また、イエスは7節でこうも語っています。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。ここでもイエスが語る「つながる」と言う言葉と「内にいつもある」と言う言葉はほとんど同じ言葉が使われています。つまりイエスにつながることとはイエスの言葉の内にいつもあることだとここでは語られているのです。
福音記者ヨハネがこの福音書を記した背景には当時のキリスト教会がローマ帝国の迫害下にあったと言う理由があります。ローマの厳しい迫害の中で、残念ながら教会を離れ、信仰を捨てていく人々もあらわれました。「イエスを信じているのに、どうしてこんなひどいことが起こるのか」。そんな疑問が当時の信仰者たちを苦しめていたのだと思います。だからヨハネは彼らにイエスが語る「豊かな実」とは何であるのかと言うことを説明し、その実りのためにイエスのみ言葉に信頼し、そこに留まるべきであるとこの福音書を通して教えたのです。
(2) キリストの弟子として実を結ぶ
ある説教者はこの箇所のイエスの言葉を解説して、イエスの内にとどまること、その御言葉にとどまることとは私たちが教会にとどまることだと解説しています。確かに教会は別のところでは「キリストの身体」と呼ばれていますから、私たちが教会員となってその一員となることは、キリストの身体の一部にされること、つまりぶどうの木と枝のように切り離すことのきない関係に入ることになると言ってよいでしょう。
御言葉にとどまるということだけなら、一人で聖書を読んでいてもいいのではないかと私たちはふつう思います。しかし、イエスが私たちのために教会を建てられたのは、私たちが信仰生活で豊かに実を結ぶためなのです。教会生活を離れてはこの実りを得ることはできないのです。
ローマ帝国の迫害を受けていた信仰者に対して福音記者ヨハネはそれでも教会に留まり、イエスのみ言葉に留まるべきであると教えました。同じように私たちに対してもこの福音書は今、様々な困難があっても私たちは教会生活に留まり、キリストのみ言葉に留まるべきであると教えているのです。
先日、キリスト教綱要を学んでいて大変興味深かったのは、カルヴァンがストア派の哲学者達を批判するところでした。ストア派の哲学者は様々な苦難の中でもそれにかき乱されない平安な心を獲得するのが大切なことだと人々に教えました。現代で言えば巷に溢れる心理カウンセラーと同じようなことを教えているのです。ところがカルヴァンは「その教えでは人間があたかも石のように無感覚になってしまうことを目指しているようなものだ」と批判するのです。そして、彼はむしろ信仰者の生涯は苦しみによって、うめき続けることが多いと語るのです。そして「それでよいのだ」と信仰生活に起こる苦しみを肯定しているのです。なぜならキリスト者の人生の目標は平安な心を持つことにあるのではなく、キリストの弟子として生きることにあるからだと彼は教えるのです。そのような意味で私たちは悲しみながら、苦しみながら、うめきながらもキリストの弟子としてその実を豊かに結ぶことができるのです。大切なのは私たちがキリストの弟子として生きることです。そのためには私たちはキリストの御言葉にとどまり、その御言葉が語られる教会にとどまることが求められているのです。
【祈祷】
天の父なる神様
ぶどうの木である主イエスを離れて私たちは何もできません。しかし、あなたは私たちを教会生活にとどめて、その命の関係を深めてくださいます。私たちがあなたの弟子として豊かな実を結ぶことができるように聖霊を送って、私たちの信仰生活を励ましてください。困難な出来事、苦しくて、涙が止まらないような出来事も起こります。しかし、そのことを通してもあなたは私たちに豊かな実りを与えてくださることを信じることができるようにしてください。
主イエスのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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