1.三位一体の神の救い
今日は教会暦に従えば「三位一体の主日」と言う名前がついた日曜日になります。最近では三位一体という言葉をニュースなどでよく耳にすることがありますが、もともとこの用語はキリスト教会が生み出した言葉です。教会は昔から自分たちの信じる神を「三位一体の神」という用語で表現し続けてきました。しかし、この「三位一体」を説明することは容易なことではありません。ですからこの教えを批判する人々が昔も現在も存在するのです。人間の論理を超えた神を言い表す言葉ですから、それを人間が簡単に説明することができないのは仕方がないことであると言えます。ところが私たち人間は、自分は賢くて、何でも理解できると誤解しているところがあります。ですから三位一体の教理を批判する人々の心にはそのような高慢な気持ちが隠されていると言えるのです。一言で三位一体の神とは聖書を通して私たちにご自分を示された神をそのままで受け入れる信仰の言葉だと言ってよいのではないでしょうか。
ここ一月ほど実家の父の入院に伴い私は一週間のかなりの部分を実家の家で暮らすことになりました。もともとの私の家は道路の拡張工事に引っかかり、移転を余儀なくされ、壊されてしまいました。今すんでいる家は10年ほど前に新築した家です。ところが年老いた母や父の様子を見ていて、私がつくづく感じたのはこの家が体の不自由になりつつある年老いた両親にはまったく不便な作りになっていると言うことです。この家は父が一人で間取りを考えてそれを大工に立てさせたようなものです。ところがその父は自分が10年先にどんな風になっているかを全く考えないでこの家を作ってしまったのです。父を笑うことはできません。私たちは明日自分がどうなっているかも知らないまま、ひょっとしたら明日は何の役にも立たなくなってしまうことに力を注ぎ、努力していることが多いと言えるのです。
しかし、私たちの神はそのような方ではありません。神様は私たちの過去と現在、そして未来をよく知っておられます。そしてその私たちのためにもっともよい救いの計画を持っておられ、それを実現するために救い主イエス・キリストを私たちのために送ってくださったのです。私たちが簡単に神様をまた、その救いの計画を理解できないのは、私たちの方に問題があるのであるのであって、神様に問題があるのではありません。ですから、私たちには今は簡単に理解することができないとしても、聖書に示された神はまことの神であり、その神のみ業はすばらしいと信じるのです。教会は昔からそのまことの神、私たちに救いを実現してくださる神を「三位一体の神」と呼んで褒め称えて来たのです。
2.疑う弟子達
(1) ガリラヤの山に登る弟子たち
さて今日の聖書の箇所はマタイによる福音書の最後の締め括りの部分です。ここでは復活されたイエスがガリラヤの山に昇った弟子たちとお会いになり、「すべての民を自分の弟子とするように」と彼らに命令を出されるところです。
同じマタイによる福音書28章では日曜日の朝早くイエスの葬られた墓にやってきた何人かの婦人たちがイエスの復活という驚くべき出来事に出会ったことが記されています。その際、墓に現れた天使は婦人たちに「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(7節)という言葉を弟子たちに伝えるように命じます。また、その後で復活されたイエス自身が彼女たちに「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)と語られているのです。ですからこのガリラヤでの出来事はこの天使とイエス自身が語った言葉が実際に実現したことを語っています。しかもガリラヤは弟子たちがイエスに従うことになった言わば彼らにとって出発の地です。ですから彼らがこの地に戻ることは弟子としての歩みがもう一度始まったこと、その再出発を意味しているとも言うことができるのです。
ここで弟子たちはイエスの指示に従って山に昇っています(16節)。マタイによる福音書はイエスが弟子たちに重要なことを教えたり、命じる際には「山」に登ったことを記しています。イエスの語られた大変有名な説教は山の上で語られたために「山上の説教」と呼ばれています。またイエスは同じように弟子たちと山に登り、ご自分が神の性質を持っておられること、神の子であられることをご自分の姿の変化を通して彼らに示されたのです。旧約聖書では預言者モーセが山に登り、そこで神から聖なる掟である「十戒」を受ける場面が有名です。あの「十戒」を通してイスラエルの民は神の民とされる祝福を受けました。同じようにここではすべての民がイエスの弟子となるための命令と約束がイエスによって語られているのです。
(2)疑いながらひれ伏す弟子たち
さてここには続いて大変興味深い言葉が記されています。復活されたイエスに出会い、おそらく感動を持ってイエスにひれ伏した弟子たちでした。ところが聖書はここで「しかし、疑う者もいた」(16節)と語るのです。彼らが何をここで疑っていたのか、それは詳しく記されていません。おそらく、彼らはイエスの命令どおりにこの山に登り、そこで復活されたイエスに出会ったのでしょう。そこで彼らが疑うとしたらその出来事そのものが本当か、それとも自分たちは白昼夢を見ているのかと言うものだったのかもしれません。私たちも信じられない出来事に出会うと、これは本当に起こっていることかどうか考えることがあります。テレビの主人公ならこんなとき必ずほっぺをつねったりするものです。弟子たちは実際に復活されたイエスに出会っているのに、それをまだ信じることができないでいたと福音書は語っているのです。しかも、私たちの読んでいる新共同訳聖書では「疑う者もいた」とそれは弟子たちのうちに一部であるかのように訳していますが、原文を直訳すると「しかし、彼らは疑った」となるのです。こうなると11人の弟子たち全員が「ひれ伏しながらも疑った」ということにもなるのです。こうなるとこの言葉はとても短いものですが、このときの弟子たちのかなり深刻な状況を伝えていると言っていいかもしれません。
(3)疑うことと信じること
この「疑う」という言葉はマタイによる福音書には別のところにも登場します。14章にはイエスが湖の上を歩いて、船の上にいる弟子たちのところに近づいてこられた出来事が紹介されています。このとき弟子のペトロはイエスに向かって「自分も同じように水の上を歩いてみたい」と願い出るのです。イエスにその願いを許されます。そして湖の上に足をおろしたペトロは最初は水の上を歩くことができたのに、強い風に気がついて怖くなり、次の瞬間、湖の中へと沈みはじめます。そこでイエスはペトロを水の中から助け出します。そのときイエスはペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけられるのです。ここでも同じように「疑う」という言葉が使われます。ですからこのペトロの物語は「疑う」という言葉の意味をよく説明するものだとも言えます。
この「疑う」という言葉はもともと「心が二つに分かれる」とか「二つの心を同時に持つ」という意味を持っています。ペトロはこのとき湖の上を歩いて来られる人がイエスであることが分かると、自分も同じように湖の上を歩いて、イエスのところに近づいていきたいと考えます。イエスにはこの自分でさえも湖の上を歩くことができるようさせる力があると彼は信じたのです。そしてペトロはこのとき、そのイエスの力を信じて湖の上に足を踏み入れたのです。ところがその一方で彼は自分を取り巻く状況が恐ろしいものであることを風の音を聞いて思い出してしまいます。そのとき彼の心にはイエスの力を信じる心と、自分を取り巻く過酷な現実を恐れる心が分裂し、イエスを信じる心を現実を恐れる心が追い出すことになってしまいます。
私たちは信仰者として疑うことは許されないこと、恥ずかしいことだと考える傾向があります。しかし、実は信仰者の心の中にはいつもこの信仰と疑いと言う二つの心が同居しているとも言えるのです。そもそも、ペトロがイエスの力を信じて湖の上を歩き出したことからこの事件は生まれています。彼が何もしなかったらここで彼の疑いは問題にはされなかったかもしれません。人間は何かを信じようとするときに、それに反する強い力が心のうちに存在することに気づくのではないでしょうか。しかしもし、私たちが疑うことを恐れて、信じることを放棄してしまうなら、それこそが大きな問題であるといわざるを得なにのです。
イエスは疑いのために水に沈んでいくペトロの手をすぐに捕まえられ、彼を助け出しました。同じようにこのガリラヤの山の上で「ひれ伏しながらも疑う」弟子たちをイエスは呆れて、見捨ててしまうことはありませんでした。むしろそのような弟子たちのところにイエスの方から「近寄って来て」くださったと聖書は語っているのです(16節)。
3.すべての民をイエスの弟子とする命令
(1)イエスの命令
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18〜20節)。
ここでイエスが弟子たちに委ねられた命令はただ一つです。「すべての民をイエスの弟子としなさい」。洗礼を授けることと、イエスの命じたことを守るように教えることは、このすべての民を弟子とするために行われるものですから、言っていることは同じことになります。そのためにイエスはこの地上に神様の救いを実現するための権利、すべての「権能」を父なる神から委ねられたと言っているのです。今、イエス・キリストの体とされている教会にはこの権能が委ねられています。ですから教会は、すべての民をイエスの弟子とするために活動しているのです。
(2)すばらしい約束
その重要な働きを私たちが遂行するためにイエスはここですばらしい約束を弟子たちに与えられています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。このマタイによる福音書は冒頭の箇所でイエス・キリストの誕生の次第を紹介しながら、次のような言葉を語っています。「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ1章23節)。マタイはこの福音書をこの約束の言葉ではじめ、そして同じ言葉で閉じようとしています。
イエスの力を信じてイエスに従う私たちは、同時にその心に疑いの心をも持つ愚かで、弱い者たちです。しかし、福音書をその問題を私たちが自分の力で克服するようにとは奨めていません。むしろ、そのような弱さを持つ者に神の祝福に満ちた言葉を語るのです。「イエスが共におられる」。「神が共におられる」。「聖霊が私たちの内に留まってくださる」。イエスの弟子とはそのようなすばらしい特権を与えられて生きる者のであると言うのです。
今から20年ほど前に私は神学校の卒業を記念して仲間たちと韓国旅行に出かけました。そのときの体験はいろいろなところでお話していますが、その中でこんな思い出があります。私たちのような未熟な神学生を迎えて、韓国の教会は大胆にも私たちに礼拝で説教する機会を与えてくれました。そこで何百人も集まる聴衆を前にして私たちは聖書の福音を語ることになりました。私たちはまだ神学生でしたから説教を語ることも慣れてはいませんでした。ところが、恐る恐る語り出した私のメッセージにたくさんの聴衆が「アーメン」、「アーメン」と力強く応答し、こちらが驚く反応が起こったのです。「自分の準備した説教はそんなに良かったのかな」と疑いつつ、私はその秘密をすぐに理解することができました。このとき私の語る説教は日本語です。そのままでは聴衆は理解できないので、同じように神学校で学んでいた韓国の牧師が私の説教を韓国語に翻訳していたのです。不思議なことに私の説教はこの牧師の口を通して韓国語で語られるときすばらしい反応を導き出すものとなりました。それはこの韓国人の牧師が私の説教の不十分な部分を補って、力強くまた慰めに満ちた説教と変えていたからです。私はこの後もいくつかの教会で奉仕をしましたが、そのたびに同じことが起こりました。「あの先生が一緒にいれてくれれば大丈夫」と言う不思議な安心感を持って私も何百人もの聴衆を前にして説教の奉仕をすることができたのです。
私はこのとき、イエスが共にいてくださると言うことはこれよりもすばらしいことなのかもしれないと思いました。自分がイエスの弟子として不十分な者であることは、私たちは自分自身で痛感しています。それでも私たちがイエスの弟子として生きることができるのは、私たちと共にいてくださる方がすばらしい方だからです。このイエスが共にいてくださるからこそ、私たちはこの重要な命令を実行することができるのです。ですから私たちは疑うことや失敗することを恐れて、信仰の歩みを始めることに躊躇する必要はありません。イエスはそんな私たちと共にいてくださり、私たちを助けてくださるからです。
【祈り】
天の父なる神様
父なる神の計画によって、この地上に遣わされた主イエス、そのイエスを私たちが信じることができるように私たちに送られた聖霊、その三位一体の神の働きによって私たちが今、救いにあずかることができたことを感謝いたします。
私たちにあなたの弟子を遣わし、私たちをもイエスの弟子としてくださり、その私たちを通してさらにすべての民を弟子としてくださろうとするあなたの御業に感謝します。その使命を遂行するためにあなたは私たちといつも共にいてくださいます。そのことを信じて、大胆にあなたに従うことができますように私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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