1.期待と敵意
(1) 誤った期待
人はいつも自分を取り巻く人々や環境に何らかの期待を持って生きています。「世界はこうあってほしい」、「本当の友達ならこうしてくれるはずだ」。私たちが何かに期待を抱くことは、それ自体は悪いことではないと思います。しかし、私たちの抱く過剰で、誤った期待は返って大きな問題を生み、私たちの人生に影響をもたらすものです。なぜなら、私たちが持つ過剰な期待は、それがかなえられないとき、簡単に敵意や憎しみに代わることがあるからです。だから人は本来、親しい間柄であるべき、家族や友人に特に強い怒りを感じてしまうのではなにでしょうか。何度も言うように、期待をすることそれ自身は誤りではありません。しかし、その前に私たちはその相手を本当に理解しているのか、むしろ自分の勝手な思いこみや期待から相手を批判したり、憎んでいるのではないかと反省する必要があると思うのです。
(2)なぜイエスは人々の憎しみを買ったのか
ご存じのようにイエス・キリストは人々の憎しみを買って十字架にかかり、処刑されました。それではイエスは彼らに対してどんな悪いことをしたと言うのでしょうか。彼は死に価するような罪を何一つ犯すことはありませんでした。それなのに彼が民衆の強い要求の中で十字架につけられ、死ななければならなかったのは、彼が民衆の期待を裏切る「救い主」であったからです。民衆は「救い主」であるイエスに大きな期待を寄せて、彼の周りに集まりました。しかし、イエスはその民衆の期待に沿うような行動をしなかったのです。だからこそ、彼に期待を寄せていた人々の心は強い憎しみへと変わっていったのです。
マルコによる福音書の4章の最初ではイエスを追ってガリラヤ湖畔に集まった人々がイエスから神の国のたとえを聞いたことを記録しています。当時の人々は「救い主」が神の元から遣わされる理由は「神の国」を自分たちのためにこの地上に実現してくれることにあると考えていたようです。そして事実、イエスもこの「神の国」が訪れたことを人々に告げ知らせたのです。ところが、ここで問題になるのは人々が「神の国」について考え期待することと、イエスの語る「神の国」の間には大きなずれがあると言うことです。ですから人々は自分たちの期待からだけイエスの言葉や行動を理解しよとするだけで、本当にイエスの言葉をそのままで理解し、受け入れようとはしなかったのです。そのことについてイエスは『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』(12節)と語ります。
先日、一人の婦人がこんなことを語っておられました。「自分の通っている教会の牧師は毎週の説教の最後に決まり文句のように「今週も喜びを持って生きましょう」と結ぶ。ところが、そこで自分は今週、いったい何を喜べばいいか疑問に思ってしまう。でも、最近やっと分かったことは、牧師が言う喜びとは神様が自分の罪を許してくださったことを喜びなさいと言うことなのだと…」。私たちがもし聖書の語る福音を自分の期待を通してだけ考えようとするなら、イスラエルの人々と同じ過ちを犯すことになります。しかし、私たちがイエスの語られる福音をそのままで受け入れ、信じようとするならば、私たちは神様が提供してくださる本当の救いと、そこからくる喜びを受けることができるのです。
2.神の国に対する誤解
何度も語ってきたように、イエスが活動された時代の人々は「神の国」と言う言葉の中に地上のユダヤ国家の現実的な変革を期待していました。ローマという大国の支配の中で苦しんでいた当時の人々はそのローマの支配から解放され、自分たちの国家がローマに代わるような強国になることを夢見ていたのです。なぜなら彼らは自分たちこそが神様に選ばれた民であり、神の祝福を約束されている特別な民族はだと考えていたからです。
ところが、その神の国を実現するためにやってきたと考えられる救い主イエスは、彼らの期待の通りには行動しません。しかも、イエスはローマからの解放という変革を求める人々に対して、既に神の国は実現したのだとまで語るのです。何も変わらない現実を見て、民衆はイエスの言葉がますますわからなくなってしまうのです。
この問題は遠いユダヤの国の問題に限るものではありません。イエスを信じる人すべてに突きつけられる問題でもあると思うのです。イエスの救いはどのように私たちの人生に実現するのか。いや、実現しているのか。ですからある人々は「自分の人生は以前と同じように何も変わっていないではないか」と考え、キリストの教会から離れて行こうとします。
今日の聖書箇所では弟子達の乗った船が嵐の中で沈みかける姿が記されます。昔から、教会はこの船を自分たちの姿を現す象徴のように考えてきた歴史があります。そのためキリスト教会を現わすとき船の形のマークによく使うこともあるのです。
教会とそこに集う信仰者の歴史は苦難の歴史です。嵐の中で沈みかけるような出来事を絶えず経験しながら、教会とそこに集まる信仰者は主イエス・キリストを信じ続けました。それではその教会とそこに集う信仰者にとってイエス・キリストが提供してくれる救いとはどのようなものなのでしょうか。その答えの一部を今日の聖書のお話は私たちに教えていると言えるのです。
3.キリストに従うものが体験する神の国の力
「その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった」(35〜36節)。
この物語はイエスが弟子たちに語った「向こう岸に渡ろう」と言う言葉から始まります。この後、イエスと弟子達はガリラヤ湖の向こう岸で悪霊にとりつかれたゲラサ人と出会います(5章1〜20節)。そのために弟子達はこのイエスの誘いの言葉に従って船に乗ります。もし、彼らがイエスの言葉に従わず湖のこちら側に民衆とともに留まっていたのなら、彼らはこの嵐を体験することはありませんでした。つまり、彼らが命の危機を感じるようになった出来事に遭遇するきっかけを作ったのはイエスの誘いの言葉であったとも考えることができるのです。
キリストの言葉を信じ、キリストを信じる信仰生活を送ることは決して私たちが人生で危険を回避する方法でありません。むしろ、信仰生活を歩み出すことによって困難や試練がその人の人生に襲ってくるということがたびたび起こるのです。しかし、ここで私たちが忘れてはいけないことは、この湖上で弟子たちがイエスの力を体験することができたのは、イエスの言葉に従って船に乗ったからです。岸辺に留まった多くの民衆はその力を体験することができませんでした。だからこそ、彼らはイエスがもたらした神の国のすばらしい力を体験することができなかったと言えるのです。神の国の素晴らしさはイエスを信じ、イエスに従うものだけが体験できるものなのです。ですから私たちが本当に神の救いの力と神の国の素晴らしさを知ろうとするならば、傍観者として岸辺に留まってはいけないのです。むしろ、キリストの声に従って教会生活を始めるとき、私たちはその力を豊かに体験することができことをこの物語は私たちに教えています。
4.イエスがともにおられる
(1)イエスは私たちを観察しているのではない
イエスの言葉に従って船に乗った弟子達、その船は突然に起こった嵐の中で沈みかけるという危機に出会います。イエスの弟子の大半は元々このガリラヤ湖で働く漁師でした。彼らはこのガリラヤ湖に対する知識を充分に持っていた人々だったのです。その彼らが恐れにとらわれ、パニック状態に陥ったのですから、そのときの嵐がどんなにひどいものであったのかが想像できるのではないでしょうか。
ところが、この驚くべき嵐の中で彼らの船に同乗するイエスは枕して、寝入っていたと言うのです。この聖書の箇所は旧約聖書のヨナ書の記述によく似た部分であると言う人がいます。
旧約聖書の預言者ヨナは神様の命令に背いて、船に乗り逃亡します。ところがその航海の途中、ヨナが乗った船は激しい嵐に出会い沈みそうになります。そしてこの嵐の原因を作ったとも言えるヨナは船の中でぐっすり眠っていたと言うのです。実はこのヨナこそがこの嵐の中で船の乗組員を救う方法を知っているただ一人の人物なのです。このときイエスもこのヨナと同じように眠っておられました。
そこで弟子達は大あわてでこのイエスを目覚めさせ、助けを求めます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。「自分たちの危機に対して、主はどうして何もしないで眠っておられるのか」と弟子たちが考えたことがこのイエスに対する言葉から想像できます。そしてこれはおそらく、信仰者が抱きやすい疑問を弟子達の言葉を通して表現しているとも考えることができるのではないでしょうか。
私たちは困難や苦しみに直面するときに、「どうして神様はこのような事態をそのままにされるのだろうか」。「私の苦しみに対して神様は無関心でおられるのだろうか」と私たちは考えることがあるのではないでしょうか。しかし、この聖書の物語はそのような疑問を抱く私たちに、主はともにいてくださることを教えています。私たちを救う力を持った唯一のお方は何か私たちから遠く離れたところで、私たちがこの困難に対してどのようなに行動するかを観察しておられる方ではないのです。この苦難の中で私たちと一緒におられる方だと聖書は私たちに教えているのです。
そのイエスはどのような方であるのでしょうか。弟子達が何もすることができないで、恐怖するしかない嵐を「黙れ、静まれ」と言う言葉で一瞬の内に沈めてしまう力を持った方なのです。大自然の力をも支配することのできる方、それが私たちの主イエスです。弟子達はこの嵐の中でイエスの力を体験し、驚きます。
(2)私たちを救いの目的地に導くイエスの力
それではこの物語を通して私たちはイエスの救いをどのように理解すべきなのでしょうか。信仰生活についてのどのような誤解を取り去るべきなのでしょうか。まず私たちの信仰生活は私たちの人生から私たちにとって都合が悪いと思われるような危機を取り去るためのものではないことを知ることができます。ですから信仰者であってもこの世の人々が考えている不幸という出来事に同じように出会います。病気にもなり、事業にも失敗することがあるのです。私たちはやがて不治の病の故に死を迎えなければならないことがあります。
しかし、聖書が教えることはそのすべての出来事を支配する力を持っておられる方が私たちの救い主イエス・キリストであると言うことなのです。だからこそ私たちはこのような不幸と思われるような出来事に遭遇しても、その出来事を支配して導いてくださる方を信頼することができるのです。
私たちの主は私たちを真の祝福が待つ、向こう岸へと私たちを導きます。そのために、主イエスは私たち一人一人を信仰へと招いてくださったのです。そして今私たちは主とともに船に乗っています。そしてイエスが実現してくださる神の国はこの嵐の中でも私たちを導き、私たちを真の目的地へ、救いへと導く力を持っていることを今日の聖書の物語は私たちに教えているのです。
【祈り】
天の父なる神様
嵐のような試練の中で、あなたのすばらしい力を弟子たちも、また多くの信仰者が体験し、あなたがともにいてくださる喜びをしることができました。私たちもイエスの言葉に従い、舟に乗ることできるようにしてください。私たちの救いを完成してくださるあなたの力を信頼します。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。
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