1.イエスによって実現した神の国
(1)天国は死んでから行くところ?
教会学校で子供たちに聖書を教えていると様々な質問に出会うとこがあります。以前、子供に「天国は人間が死んでから行くところでしょう」と尋ねられて、なかなか上手く答えることができずに困った経験がありました。この子供だけではなく、世の多くの人は「死んだ人が行くところが天国」だと考えているところがあります。しかし、そのような解釈で聖書の語る「天国」を考えると、すぐに辻褄が合わなくなってしまうことが分かります。マルコの福音書の冒頭にはイエスの有名な次のような言葉が記録されています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。この同じ言葉をマタイによる福音書は次のように記しています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)。聖書では「神の国」と「天の国」つまり「天国」は同じ意味を指す言葉として用いられています。そしてイエスのメッセージの中心はこの「神の国が近づいた」と言うところにありました。もし「天国が死んだ人が行くところ」と考えるならば、「神の国、天国が近づいた」と言うイエスのこの表現はおかしなことになってしまいます。それでも無理な読み方でこれを押し通すなら「死んで天国に行くときが近づいた」とイエスの福音は私たちに教えているようになってしまいます。
(2)神の国を実現させるイエスの力
むしろ、イエスの語られたこの言葉から「神の国」、「天国」はこの地上に実現するものであることが分かります。ですからイスラエルの人々は先日もお話ししましたように、このことを自分たちの国が再建されること、つまりローマの支配から解放されてイスラエルが独立することだと考えていたのです。
しかし、聖書が言う「神の国」とはそのようなスケールの小さなものではありません。むしろ全世界、全国民がその神の国の中に生きることができる、それを実現するためにイエス・キリストが救い主としてこの地上に来てくださったと聖書は語っているのです。そしてマルコによる福音書はその救い主であるイエスが神の国を実現するためにふさわしい力を持っておられ方であることを読者に紹介するのです。先日、この礼拝で学んだ通りイエスは荒れ狂う湖で舟に乗り、苦しんでいた弟子たちを救い出されます(4章35〜41節)。イエスが風や波に命じると、その嵐が一瞬にして収まったのです。この出来事は大自然の力をも支配する力をこのイエスが持っておられることを示しています。
またマルコによる福音書は5章では悪霊に取り憑かれて苦しむ人からその悪霊を追い出したイエスの姿を示されています(1〜20節)。イエスは救い主として目に見えない悪霊の力をも支配する力を持っておられることがここでは示されているのです。また次の箇所には人の力では癒されることができない病を持った一人の婦人がイエスの衣にふれることでその病が癒された話、そして会堂長ヤイロの娘が死んでしまったのにイエスの力で生き返ったという物語が記されています(21〜43節)。ここではイエスが人の命を支配する力を持っておられる方であることが明確に示されています。
聖書はこのように神の国を実現するためにやって来られたイエス・キリストがその任務を遂行する適切な力を持っておらたことを明らかにし、このイエスの力を阻むことができるものは何もないと私たちに教えているのです。
2.神の国の国を阻む不信仰
(1)イエスの力を阻む
ところが今日の部分では一転してこのイエスの力が全く示されないという出来事が起こっています。ですから今日の箇所の結論部分ではこのような言葉が記されます。
「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(5〜6節)。
大自然も悪霊も人の命さえ支配することのできる力を持ったイエスがその力を表すことができない出来事がここで起こっています。そのイエスの力を拒んだものは何であったのでしょうか。それは故郷の人々の不信仰であったと言うのです。イエスの行った奇跡の数々を目撃した人々は、その出来事を通して「驚きました」。ところがここではむしろ、イエスのほうが故郷の「人々の不信仰に驚かれた」と記されているのです。それではイエスの力を阻み、イエスを驚かせた故郷の人々の不信仰とはどのようなものだったのでしょうか。イエスの力を阻む人間の不信仰の正体と、それとは逆にイエスの力が発揮される信仰とは何かということを考えることができるのです。
(2)二つの異なった結論
イエスはここで生まれ故郷のガリラヤのナザレに帰られています(1節)。しかし、それは里帰りのためと言うよりは、故郷の人々にも福音を宣べ伝えるためであったと考えることができます。そしてそのためにイエスはこの故郷の村でもまず会堂に入って、そこに集まる人々に聖書の教え、福音を語ったので。おそらく故郷の人々も既にイエスについての様々なうわさを聞いていたのだと思います。そのうわさを耳にした故郷の人々はその真実を知るべくこの会堂に集まりました。そして彼らはイエスの語る言葉を聞いてやはり驚いたのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(2節)。
故郷の人々はイエスの語る言葉を聞き、またイエスの行う奇跡を目撃して、一様に驚きの態度を示します。彼らはイエスを通して不思議な力が働いていることに気づきます。そして彼らはそのイエスの力は「どこから得たものなのか」と言うところに関心を持ったと言うのです。
ヨハネによる福音書では生まれつき目が見えなかった人がイエスの力によって見えるようにされたという物語が紹介されています(9章)。そして、ユダヤ人たちの間で、そのような業を行ったイエスはいったい誰であるのかという議論が起こりました。そのときに自分の目を見えるようにしていただいた当の本人は次のような証言をしています。
「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(30〜33節)。
イエスのみ業を通してこの人は「イエスは神の元から来られたかたに違いない」と確信し、人々の前でそれを証言しています。ところが、同じイエスのみ業を見ながら故郷の人々はそこから全く違った結論を導き出すのです。
「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)。
「私たちはあいつのことをよく知っている。子供の頃から、ここで自分たちと一緒に暮らしていた仲間の一人ではないか。大工のヨセフの息子で、その仕事の後を継いでいたイエスではないか。彼の母親や、兄弟姉妹は今でもここに住んでいる。だから彼は私たちと全く同じ人間ではないか」。故郷の人々はイエスについてそう考え、結論づけてしまったと言うのです。
(3)答えをどこに求めるか
それではどうして故郷の人々の結論とイエスによって目を見えるようにされた人の結論はこうも違ってしまったのでしょうか。目を見えるようにされた人は語りました。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません」。彼はこのようなことは一度も今まで聞いたことも経験したこともないと、人間の認識と経験の限界を超えるものだからと考え、そのためにこれはもう神様にその答えを求めるしかないと考えているのです。
ところが一方の故郷の人々はその驚くべきイエスの御業を自分の認識と経験の範囲の中に閉じ込めてしまいます。イエスは結局のところ自分たちのよく知っている大工のせがれではないか…と。このようにイエスの言葉を、イエスのみ業を私たちの持っている認識と経験に合わせようとするなら、誰もがこの故郷の人々と同じ失敗を犯すことになります。そして今でもたくさんの人が、救い主イエスの示された罪の赦しや、復活の出来事、永遠の命の祝福を自分たち人間の持っている認識や経験の内で理解しようと試み、故郷の人々と同じ失敗を繰り返しているのです。
3. 信じる者の上に実現する神の国
(1)人生の難問に出会うヨブ
先日、水曜日のキリスト信仰の基本の学びの会で、旧約聖書のヨブ記のお話を学ぶ機会がありました。旧約聖書に記されているヨブ記はとても不思議な書物で、その書物が何を教えようとするのかなかなか難解で捕らえがたいという面がある一方でありますが、その反面ヨブ記はこの書物を読む人々の心をとられて話さないような魅力をも持っています。
神様に祝福され、豊かな財産と幸せな家庭を持っていたヨブがある日を境にしてそのすべてを失ってしまうと言う人生の危機を経験することからこの物語は始まります。しかし、ヨブはこのような人生の危機に立たされながらも「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1章21節)と神様への堅い信仰を告白したと言うのです。
ところが物語はここで終わるわけではありません。今度はヨブ自身が癒されることのない激しい病に冒されて苦しむことになります。そして先ほどの立派な信仰の告白をしたヨブが3章の始めで、自分の生まれた日を呪いはじめます。「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく/光もこれを輝かすな。暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。密雲がその上に立ちこめ/昼の暗い影に脅かされよ。闇がその夜をとらえ/その夜は年の日々に加えられず/月の一日に数えられることのないように。その夜は、はらむことなく/喜びの声もあがるな」(3〜6節)。
ヨブ記の本論はここから始まると言ってよいと言うのです。そしてこの信仰問答の解説をする加藤常昭牧師はこのヨブの叫びは神に向けられた祈りであると教えているのです。確かにヨブは突然、財産や家族を失い、自分も不治の病にかかるという危機に陥りました。そして彼はどうして自分がこのいうになったのか分からないまま、神に叫び続け、その答えを求め続けて行くのです。
(2)ヨブとその友人たちとの違い
一方で、ヨブ記には彼を慰め励ますために彼の元を訪れる何人かの友人たちが登場します。そしてその友人たちはヨブの抱えていた人生の問題についてのたいへん明快な答えを彼に披露して見せるのです。この友人たちの答えは非常に論理的で、説得力に満ちています。ところがヨブは決してこの友人たちの語る答えを受け入れようとしなかったのです。
ある有名な旧約聖書学者の記したヨブ記についての解説書を読むと大変興味深いことが紹介されています。ヨブの友人たちが語る言葉は、当時のオリエント社会に存在したさまざまな哲学や宗教の考え方を語っていると言うのです。つまり、ヨブの友人たちはここでヨブが遭遇した問題を自分たちの認識と経験から判断し、そこに何らかの答えを求めようとしたのです。しかし、ヨブはその知識に満足することはありません。むしろ、ヨブは自分の問題に答えることができるのは神様以外にはいないと信じ、神に自分の叫びを訴え続ける祈りをささげたのです。
このヨブの態度から分かるように、信仰とは私たちの人生の問題の答えをどこまでも神に求め続けることだと言えるのです。そして残念ながら、イエスの故郷の人々はここでヨブの友人たちと同じように、その答えを自分の認識と経験の内から求めようとして、神に求めることをしなかったのです。この物語はそれこそが不信仰の正体であると教えているのです。
「イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(4〜5節)。
すべてのものを支配する力を持った救い主イエスの力は不信仰な故郷の人々の間では働くことができません。このことは逆を言えば、イエスの力は信じる者の上に豊かに働き、その力を阻むものは何もないことをも私たちに教えているのです。ヨブは人生の問題への答えを神に求め続けました。このヨブ記が今でも、悩める人、苦しむ人を慰め続けることのできる秘訣はここにあります。このヨブ記を読み、ヨブと同じ信仰を持つようにされる者の上に神の力は豊かに現されるからです。生まれつき目の見えなかった人も同じです、人間の知識では解決のつかない問題に、神は答えを与えてくださると彼は考えました。そしてそのような信仰を持った彼の上にイエスの力は豊かに働き、彼は永遠の命への祝福へと導かれます。
神に答えを求める信仰、この世の知恵でなく、神が私たちの問題に答えてくださる。そのように信じる私たちの上に、今でも同じようにイエスの力が豊かに働くことを今日の聖書は反面教師のような役割を持ったイエスの故郷の人々の姿を通して教えているのです。
【祈祷】
天の父なる神様
せっかくイエスのみ業と教えに出会いながら、自分の経験や知識でその答えを求めようとした故郷の人々のように、私たちも同じ過ちを犯し、福音の力を隠してしまうことがあります。どうか、私たちにもあなたにのみ答えを求め続けた信仰者と同じ信仰を与えてください。そしてその私たちの信仰を通して、これからも豊かにイエス様がみ業が働くことができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。
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