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礼拝説教 桜井良一牧師
イエスの与える休息

2006.7.23)

聖書箇所:マルコによる福音書6章30〜34節
30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

1.弟子達に休息を与えられるイエス
(1)休みを必要とする私たち

 すでに7月も半ばを過ぎ、普段なら学校に行っている子供たちも夏休みに入っています。彼らにとって夏休み心待ちにしていた楽しいものなのでしょう。しかし自分の時間を取り上げられて、その子供たちの面倒を一日中見なくてはならないお母さんたちにとっては忙しいときになるかもしれません。
 私も子供のころ、夏休みに忙しい両親がわざわざ時間割いて、連れて行ってくれた奥多摩や秩父旅行の思い出が今での心に残っています。そう考えると、私もやはり子を持つ親の心として、子供たちによい思い出を残してあげたいと言うことになって、いろいろと計画を立てることになります。
 今日の聖書箇所では使徒たちに語られたイエスの「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言う言葉が登場します。このときイエスの弟子たちは休息を必要としていたようです。だからイエスは弟子たちに「人里離れた所へ行くように」と命じられたのです。私たちは今日の聖書箇所を通して私たちの身も心も安らぐことのできる休息はどこで見出すことができるかと言うことについて考えたいと思うのです。

(2)宣教旅行からの帰還

 まず、イエスの弟子たちはどうしてこのとき休息が必要であったのでしょうか。先ほどのイエスの言葉のすぐ前にその事情が少し説明されています。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(30節)。

 このときイエスの弟子たちはイエスに自分たちの行ったことや、教えたことを報告をしていたと言うのです。このときの弟子たちの報告の内容については同じ6章の6〜13節が語っています。ここで弟子たちはイエスによって二人一組のチームに分けられて、イエスの福音を伝える宣教の旅へと遣わされています。そして彼らは「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(13節)と語られているように、大きな成果を上げて帰って来たのです。つまりイエスの弟子たちはこのとき自分たちが行って来た宣教旅行の結果をイエスに報告をしていたのです。
 神戸の改革派神学校では夏期伝道と言うものがあって、神学生は夏の二ヶ月間、各地の教会に派遣されます。その奉仕を終えて9月に新学期が始まると、まず学校では夏期伝道の報告会が開かれます。慣れない土地で、地方の教会のために奉仕して、いろいろな経験をしたことが学生から報告されるのです。不安を抱えながらも、神様に守られて二ヶ月間を過ごすことができたことを多くの学生は教授たちや他の学生たちに報告します。
 イエスの弟子たちも同じような思いでイエスに報告をしていたのかもしれません。彼らの派遣は私たちの夏期伝道よりも遙かに厳しい条件が付けられていました。

 「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた」(7〜9節)。

 彼らはこの旅のために杖一本のなにも持って行くことが許されませんでした。それらの持ち物に替わって彼らに与えられたのは「汚れた霊に対する権能」、つまり人々を苦しめる悪霊の力を支配し、彼らを追い出すことのできる力です。

 この力は以前にも学びましたように、この地上に神の国を実現するためにやって来られた救い主イエスが持っておられたものの一つです。そのような意味では彼らの悪霊を追い出す行為は、救い主イエス・キリストこの地上にやって来られたことで、神の国が実現しようとしていることを人々に知らせることになりました。そして、彼らは旅先で立派にその使命を遂行することができたのです。旅先でイエスの弟子たちは人々の驚嘆と関心を集めることができたはずです。きっと彼らは胸を張って帰って来て、そのことをイエスに報告したのだと思います。

(3)休息の必要性

 こうなれば彼らは、この力をもっとたくさんのところで発揮したいと考えたはずです。なぜなば、人々の関心を集めることは彼らにとってたいへん心地よいものだったからです。ところが「イエス様、続けて私たちを他のところにも派遣してください」と願い出ようとする彼らを前に、イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と命じたのです。
 このときイエスは弟子たちをリゾート地や温泉ではなく「人里離れた所」へ行かせようとします。このときの弟子たちの状態から考えると、イエスが命じる休息は第一に弟子たちが人々の関心や注目から離れることを意味していたと考えてよいのではないでしょうか。確かに人々の向ける弟子たちへの関心は、彼らにとって心地良いものであったに違いありません。しかし、彼らがその関心を気にして働き続けようとするなら、彼らの生き方は大きく変わってしまいます。人の関心を集めるために、彼らはいつも人の期待を気にして、その期待に応えることに時間と労力を傾けなければならなくなるのです。
 ここでマルコは彼らイエスの弟子たちを「使徒」と言う特別な名称で呼んでいます。これは「神から遣わされた者たち」と言う意味を持った言葉です。彼らの使命は人々の関心を集めることではなく、神から与えられた使命を遂行して神の福音を伝えることにあるのです。だからこそ、彼らはこの使命を果たすために、人々の関心から離れる必要があったのです。
 第二に「人里離れた所」はイエスが祈りのためにたびたび向かわれた場所でした(マルコ1章35節など)。ですからこのイエスの命令は弟子たちに本当の休息を与えることができる方が誰であるかをも教えているのです。それは私たちの祈りの対象である神様ご自身です。この方こそ、私たちに本当の休みを与え、新たな力を与え続けてくださる方なのです。だからこそ弟子たちはこの休息を得るために「人里離れた所」に行く必要があったのです。

2.飼い主のいない羊
(1)計画の中断か?

 しかし福音書は弟子たちがイエスの命令の通りに休息を取ることができなくなったことを続けて説明します。

「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた」(33節)。

 イエスと弟子たちが舟に乗ったことを知った群衆たちは、彼らを先回りして、舟の行き着くはずの向こう岸に先回りしたと言うのです。人々は決して、イエスと弟子たちを手放そうとはしなかったのです。それほど、彼らの関心と期待はイエスとその弟子たちに向けられていたのです。そして、その熱意は舟に乗ったイエスと弟子たちを追い越してしまうほどであったと聖書は説明しているのです。そしてこの人々の熱意のためにイエスと弟子たちの休息計画は中断されたかのように見えるのです。

 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(34節)。

 このとき、イエスは群衆を見て「深く憐れ」まれました。これは「はらわたが揺り動かされる」と言う意味を持ったたいへん強い感情がイエスの内側から起こったとことを示す言葉です。そしてイエスはこのときの群衆を「飼い主のいない羊のような有様」としてご覧になられたと言うのです。それ故にイエスは彼らに深い憐れみを感じられたのだと福音書は説明しているのです。

(2)牧者としての王の使命

 この「飼い主のない羊のような有様」と言う言葉は旧約聖書を背景としたものだと考えられています。旧約聖書の時代、イスラエルの王は「牧者」、つまり羊の飼い主にたとえられ、イスラエルの民はその羊だと考えられていたのです。ですから、イスラエルの王の使命は神様から委ねられている民を養い、守ることにありました。ところが実際のイスラエルの王はその使命を遂行することができません。だからこそイスラエルの民は「飼い主のいない羊のような有様」になって苦しむほかなかったのです。
 旧約聖書に登場する預言者たちはそのような使命を忘れるイスラエルの王に警告を発するために神から遣わされた人々でした。その預言者の一人エレミヤは次のような神の言葉を取り次いでいます。
 
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。(23章1〜2節)。

 エレミヤはここで自分の大切な使命を忘れた牧者であるはずのイスラエルの王を神が厳しく裁かれると語っているのです。

3.真の牧者に従う生活
(1)真の牧者であるイエス

 このように旧約聖書は民の苦しみの原因を牧者がその使命を果たしていないためだと語るのです。イスラエルの民が安らぎを得ることができないのは、彼らを導く真の牧者が不在だからだと説明しているのです。
 ところで先ほどのエレミヤ書はイスラエルの王にくだされる神の厳しい裁きを語る一方で、神がイスラエルの民のために「真の牧者」を送ってくださると言う預言を語り続けます。
 
 「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる」(5〜6節)。

 真の牧者が神様の約束の通りやって来られるとき、イスラエルの民は救いを受けて、安らかに住むことができるとエレミヤ書は語ります。そのときこそ本当の休息を受けることができるときであるとエレミヤ書は預言しているのです。
 ですからこのマルコによる福音書は「飼い主のいない羊のような有様」と言う言葉を使用することで、読者に旧約聖書の神様の約束を思い出させ、その約束の通りにこの地上に来られたイエス・キリストを指し示そうとしているのです。
 そう考えると弟子たちに「休息」を与えようとしたイエスの計画は中断されたのではなく、不思議な形で実現していることが分かるのです。つまり、福音書は彼らに本当の休息を与えることができるのは主イエスだけであると教えているのです。そして弟子たちはそのイエスを見つけ出すことによって真の休息を得ることができたのです。

(2)牧者イエスを人生の主として受け入れる

 先日、祈祷会でルカの福音書の伝える有名な「マルタとマリアの姉妹」のお話を学びました。興味深かったのはマルタの名前には「女主人」と言う意味が込められていると言う解説でした。この名前の通りマルタはこの物語の中で一家の女主人としての役目を最後まで果たそうと必死になっています。ところが、その学びの中で明らかにされたことは、その彼女の行動こそが彼女の心を乱し、ある意味では疲れさせる原因となっていたと言うのです。なぜなら、彼女はせっかく彼女の家に彼女の人生の「主人」となってくださるためにやってきた主イエスを受け入れず、それとは反対に依然として彼女は自分の人生の主人として立場を守り続けようとしたのです。
 この失敗はマルタに限ることでないと思うのです。私たちは私たちの人生を導く牧者としてやって来て下さったイエスを無視して、むしろ自分で自分の人生を支配し、何とかしようと努力し続けているのです。しかし、私たちは何をしなければならないかさえ本当のところ分かってはいません。これでは私たちの人生は疲れるだけではないでしょうか。だからこそどんなに肉体の休みを取ることができても、心には様々な思い煩いが存在し続け、私たちをますます疲れさせるのです。
 本当の休息を得たいならば、私たちは真の牧者であるイエスに自分の人生を委ね、その方に従って行く必要があります。そしてイエスは今でも私たちに真の休息を与えるためにこのように招かれているのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11章28〜29節)。

 真の安らぎはこのイエスを自分の人生の主人として、牧者として迎える者の上に実現することを今日の聖書の箇所は私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちに真の救いと安らぎを与えるために救い主イエス・キリストを遣わしてくださってありがとうございます。私たちを捕らえてやまない思い煩いや、さまざまな出来事から私たちの心をお守りください。私たちが真の牧者であるイエスに従うことで、この人生で本当の自由を得ることが出来るようにしてください。
イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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