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礼拝説教 桜井良一牧師
イエスへの期待とイエスの求め

2006.7.30

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章1〜15節
1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

1.何が必要か
(1)愚かな願いごと

 子供のときに聞いた童話の中で、三つの願いごとが、何でもかなえられると言うお話がありました。ところがどんな願いごとでもかなえられると言うのに主人公は結局、愚かな願いごとをしただけで、三つの願いごとすべてを使い果たしてしまいます。その物語を聞いて子供心に「自分だったらこんな愚かなことはしないのにな…」と思ったことがありました。しかし、案外この童話は私たち人間の本当の姿を表わしているのかもしれません。私たちは普段「こうなってほしい、ああなったらいいのに…」と様々な願いごとを持って生きています。それがかなえられれば自分の人生はもっと幸せになれるはずだと信じているのです。しかし、もし私たちが今、生きていることの喜びを少しも感じることができず、かえって不満を抱えながら生きているとすれば、自分が今、持っている願い事自身に問題があるのではないかと疑う必要があるのかもしれません。本当に自分が望んでいることは自分の人生に必要なものなのかどうかと言った具合にです。むしろ、私たちが人生で本当の幸福感を味わえないのは、愚かな願いごとに固執して、それを手放せないでいるからなのかもしれません。

(2)イエスを追い続ける群衆

 イエスのなされた驚くべき奇跡のみ業を体験した人々は、そのイエスに関心を持って、イエスの行くところどこにでも付いて行こうとしました。私たちはイエスが行くところに先回りして、その到着を待っていた群衆の姿を先週の礼拝で学びました。教会暦では今日の礼拝でヨハネによる福音書の箇所を読むように指示されています。ですから読む福音書はマルコからヨハネへと変わりますが、しかしお話自身は前回の続きと理解していいと思います。

 「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」(1〜2節)。

 この部分で「イエスが病人たちになされたしるしを見たから」と群衆がイエスの後を追った動機が記されています。これはこの福音書の5章のところでベトサダの池で38年間も病気で苦しんでいた人をイエスが癒されたという記事が記されています。その前の4章後半には病で危篤状態だった役人の息子をイエスが癒されたと言う記事も紹介されています。これらの癒し物語が人々の耳に入り、たくさんの群衆がイエスの後を追ったのです。お話の前後は違うのですが、結局、イエス一行はガリラヤ湖の向こう岸に(舟で)渡られます。ところがその場所まで群衆がついて着て、イエスを取り巻こうとするのです。ついでに言えば、今日の「五千人に食べ物を与える」と言う出来事は四つの福音書が共通して取り上げている箇所です。このように四つの福音書が共通して取り上げる物語は結構、珍しいのといえます。しかし同じ物語でもヨハネは独特の立場でこの出来事を紹介しようとしています。
 いずれにしても群衆はこのとき、ただ闇雲にイエスを後を追いかけて来たのではなく、イエスへのそれぞれの期待、願いを持って集まっていたと考えられます。ですからこの物語の結論部分では「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(15節)と言うふうに閉じられています。これは群衆のイエスへの期待を知ったことで、イエスがその場を立ち去ったと考えることができます。それはイエスの使命と群衆の期待の間に大きな違いが生じていたことを表わしているのです。
 おそらく群衆はイエスの奇跡を体験して、「この人が自分たちのリーダーになってくれれば自分たちの生活は困らない」と思ったのでしょう。イエスがいれば病気も治る、食べ物にも困らない。そう彼らは考えたのです。しかしイエスはそのような群衆の願いを受け入れるのではなく、ひとりで山に出かけられたイエスはもっと大切なものを私たちに提供されるためにこの地上にこられたのです。今日の物語はそのことを私たちに教えるものだと言えます。

2.試みられたピリポ
(1)フィリポへの問い

 この物語は弟子のひとりフィリポに向けられたイエスの質問から本題に入っています。

「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた…」(5節)。

 先日の祈祷会ではイエスがペトロに発した「あなたは私のことを誰だと思うのか」と言う問いに対して、「あなたは救い主、生ける神の子です」と彼が答えたところを学びました。キリスト教会はイエスのこの問いに、ペトロと同じように答え続けるところに存在することができると私たちはテキストから学ぶことができました。ここでもイエスは弟子のひとりフィリポに問うています。イエスの問いに答えることは、私たちの信仰生活にとっても重要なことなのです。そのような意味でこの問いを私たちはイエスから自分たちに今、向けられたものとして考えることは大切なのです。
 このときイエスの周りに集まっていた群衆の数は男だけで五千人いたと言われていますら(10節)、女性や子供を入れたらたいへんな数になっていたと思います。イエスは「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とフィリポに尋ねたと言うのです。そしてそう尋ねたのは「フィリポを試みるため」(5節)と聖書は説明しています。しかし、この試みはどこかに模範解答があって、フィリポがその答え通りに答えられるかどうかを調べるためにイエスがなされたテストのようなものと考えるのは無理があるような気がします。なぜなら、おそらくこのイエスの問いに対して、私たちは誰もフィリポと同じように答えることしかできないからです。

 「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)。

 フィリポはとても聡明であったのか、経済感覚があったのか、すぐに計算をして、群衆に食べさせるためにはいくら予算が必要かを算出します。二百デナリオンというのは当時の労働者の二百日分の賃金に相当しますから、たいへんな額であったと言えます。イエスも弟子たちもこのときそんなお金を持っていたとは考えることができません。しかもフィリポは群衆のためにパンを買うなら、その「二百デナリオンでも足りない」と言うのです。フィリポはこの群衆に食事を与えるのは無理であることを自分が作ったデーターを使って証明しています。しかし、結果的には彼のデーターはこれから起こるイエスのみ業のスケールの大きさを証明するものともなったのです。

(2)足りない、何の役にも立たない

 するともう一人の弟子で、ペトロの兄弟のアンデレが次のような提案をイエスにしています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。

 アンデレの申し出はむしろ問題を解決するための新たな提案と言うよりは、先ほどのフィリポの結論を応援するためのようなものとなりました。アンデレはこのときのフィリポの答えを援護射撃したのです。
 私が持っている聖書日課で今日の聖書箇所のところは興味深いことにこのフィリポとアンデレの言葉、「足りないでしょう」と「何の役にも立たないでしょう」と言うところが赤で印刷されています。そんな訳で、私はこの聖書日課を読んですぐに気づかされました。「足りない」、「何の役にも立たないでしょう」。この言葉はよく耳にするものです。そう自分が人生で不満を覚えるときに必ず口にする言葉でないかと…。皆さんはどうでしょうか。もし、この二つの言葉を口にしたことがないと言える人は、本当にすばらしい人生を送っておられるのだと思います。しかし、私たちは結構、日常生活の中でこの二つの言葉を手放すことができほど、慣れ親しんでいるのではないでしょうか。
 しかし、そのように「足りないでしょう」、「何の役にも立たないでしょう」と言う言葉をたびたび口にする私たちにイエスはこの物語を通じて意外な事実を知らせてくださるのです。

3.少年のパンと魚
(1)少年奴隷の食事

 イエスは「何の役にも立たない」とアンデレが言った「大麦パン五つと魚二匹」を使って、そこに集まる群衆を満腹させると言う奇跡を行われます。フィリポの答え、アンデレの援護射撃はこの世の判断としては正しいものですが、イエスの前では正しくないことが証明されるのです。
 ある牧師はこの同じ箇所を取り上げた説教の中で大変興味深いことを教えています。それはこの「大麦パン五つと魚二匹」をイエスに差し出した少年のことについてです。ここで「少年」と紹介されているのは確かに年若く、まだ成人に達していない男性を指す言葉が使われています。しかしこの言葉は他にも「少年奴隷」を指す言葉としても使われると言うのです。
 それを証明するように、この牧師は彼が持っていたパンについて説明しています。パンは通常、小麦の粉によって作られます。もちろん大麦の粉からもパンは作れますが、当時大麦は通常、家畜のえさとして用いられることが多かったのだそうです。つまり、このとき少年が持っていたパンは家畜に食べさせる大麦で作られた大変に粗末なパン、奴隷が食べていた粗末な食事だったと言うのです。もしかしたらこの少年奴隷は主人のお供でここに来ていたのかもしれません。その主人はちゃんと小麦でできたパンを持ってきていたはずです。しかし、イエスに差し出され、五千人以上の人々を満腹させた食事は、少年奴隷が持っていた粗末なパンであったと言うのです。
 本当だったら恥ずかしくて隠してしまいたい、そう思われるような粗末な食事がイエスの手を通してすばらしい力を発揮するのです。世間から見れば粗末で取るに足りないもの、しかし、救い主イエスはそれを生かし、神様の役に立つものとされるのです。彼はそのようなことをされるためにこの地上にやって来られた救い主であることをこの出来事は教えるのです。
 ですから、イエスが私たちに「どうしようか」と尋ねられたとき、たとえ私たちがどんな存在であったとしても、私たちは「イエス様、この私の持っているものを使ってください。いや、私自身を使ってください」と答えることができる恵みをいただいていると、この物語は私たちに教えているのです。

(2)十二の籠にいっぱいになったパン屑

 五千人以上の人々がこの少年の粗末な食事で満腹することになりました。そこでイエスは次のように弟子たちに命じています。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(12節)。この命令に従って弟子たちがパン屑を集めると十二の籠にいっぱいになりました。

 聖書の解説書によればこれは食事の後かたづけをすると言うより当時のユダヤ人の習慣に従うものだったと考えられます。ユダヤ人は食事をするさい、出された物すべてを食べ尽くしてしまうのではなく、一部分を残して貧しい人に施すと言う習慣を持っていました。ですから、この十二の籠に集められたパンはそのためのものだったと理解することができます。
 さらにこの籠の数には聖書特有の表現が隠されていると考えることができます。聖書では十二は完全な数を表わすものとして使われます。ですからイエスの弟子の数は十二人、イスラエルの部族は全部で十二部族と言う具合に、十二は特別な意味を持った言葉として登場するのです。ここでも、十二の籠に集められたパン屑はイエスによって救いに入れていたただいた私たち自身を表わしていると考えることができるのです。イエスを信じ、その救いに入れていただいた者は、その救いから誰一人漏れることがないことをイエスのこのときの命令は教えるのです。ですからこの出来事を通して私たちはイエスの救いが完璧なものであることを確信するように導かれているのです。
 群衆はここでイエスが増やしたパンや魚に関心を示しました。だからイエスを自分たちの王としようとしたのです。だからイエスは群衆から離れていったのです。ところがこの物語は私たちがイエスについて何を信じるべきかを教えているのです。
 イエスは取るに足りない私たちを神の国のご用のために十分に用いることができる力を持ったお方です。そしてそのイエスを信じる者がすべて救われて、永遠の命を持つことができるようにしてくださる救い主なのです。この後、イエスはご自分を「命のパン」(48節)と紹介しています。つまり、群衆が求めるべきものは食べてすぐなくなってしまう地上のパンではなくて、私たちの命を生かし、そのすばらしい力を発揮させることができる方、永遠の命の祝福を私たちに与えることができるイエス自身を求め、彼を信じる必要があったのです。そして私たちの願いが、この主イエスを求め、彼を信じることに変わるとき、私たちが求めていた本当の幸せが私たちに与えられることを今日の聖書は私たちに教えているのです。

【祈り】
私たちに豊かな人生の日々を約束してくださるあなたに感謝します。「足りない」、「何の役にも立たない」と言う言葉を語っては、不満を口にし続ける私たちです。私たちを通してあなたのみ業を表わしてください。私たちが食物や健康を求め続ける以上に命のパンである主イエスを求めることができるように導いてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。アーメン。

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