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礼拝説教 桜井良一牧師
飢えることのないパン

2006.8.6)

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章24〜35節
24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

1.しるしを見ていない群衆
(1)イエスを捜し求める群衆

 前回につづきヨハネによる福音書から学びます。五千人の人々に五つのパンと二匹の魚から食べ物を分け与えられたイエスの奇跡、それを体験した群衆はイエスを自分たちの王としようとします。しかし、群衆の魂胆を知ったイエスはすぐにその場を退かれます。ここには群衆のイエスに対する意図とイエスが救い主としてこの地上にやって来られた使命が明らかに違っていたことが示されています。この後、福音書ではガリラヤ湖上を歩かれるイエスの奇跡が記された後で(16〜21節)今日の物語が始まっています。
 群衆は弟子たちが舟に乗って湖の向こう岸に渡ったことを知っていましたが。その舟にイエスだけは乗っておられなかったことにも気づいていました(22節)。イエスの行方を見失ってしまった群衆の一部は、それでも諦め切れずわざわざ舟に乗って、弟子たちが渡って行ったであろう湖の向こう岸に至ります。そして彼らはカフェルナウムの町までやって来て、そこでやっとイエスを見つけ出します。そこで彼らはイエスに「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と問うたのです。群衆はイエスがガリラヤ湖上を歩いて弟子たちの舟に近づき、その舟に乗ってこちら側にやって来られたことを知らなかったからです。また、「自分たちが一生懸命になってあなたを王としようとしているのに、どうしてその私たちがから逃げるようなことをするのか」と言う、群衆の意図に合わない行動をするイエスに対する非難の言葉も隠されていたのかもしれません。

(2)イエスを信じ、命を受けるためのしるし

 だからこそイエスはそのような人々の心を見透かされて、次のように語ったのです。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。

 群衆はイエスのなされたしるしを見たのではなく、「パンを食べて満腹したから自分を王にしようとして捜し回っている」とイエスは語られるのです。この言葉は先日、礼拝で読んだ箇所である14節の「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った」と言う言葉と矛盾しているように思われます。群衆は確かにイエスのなされたしるしを見ています。しかし、イエスは彼らは「しるしを見ていない」とここで語られるのです。それは群衆がイエスのなされたしるしを外面的にしか理解しなかったこと、あるいは自分たちに都合よい解釈に従ってイエスのしるしを見ていたことを言っているのではないでしょうか。群衆は正しい意味でイエスのしるしを見てはいませんでしたから、「イエスを自分たちの王としよう」と言い出したのです。
 それではイエスのなされたしるしを正しい意味で見た人は何を知ることができるのでしょうか。そこのことについてこのヨハネによる福音書は最後の結論部分のところで説明しています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない 。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20章30〜31節)。
 「イエスのなされたしるしはこの書物に書ききれないほどある」と断り書きを記した後でヨハネは、しかし、その一部をこの書物に紹介したのは読者がそのしるしを知って「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とヨハネは説明しているのです。
 ある説教者はここの部分に登場する群衆の気持ちを「彼らはイエスをコンビニエンスストアーのように考えていた」と面白い表現で語っています。現在は、どんな時間にでもお金さえあればコンビニエンスストアーで欲しいものが手に入る時代になっています。ですから私たちは近くにコンビニがあるととても便利だと思います。それと同じような感覚で群衆はこのときイエスを求めていたのではないかと言うのです。しかし福音記者ヨハネは、イエスがコンビニはもちろんのこと、イエス以外の誰も提供することができない「命」、「永遠の命」を私たちに与えるために来られた方だと説明するのです。そしてそれを明確に理解させるのがイエスのなされたしるしなのです。私たちは聖書を読むときに、イエスが永遠の命を私たちに与えるためにやって来られた救い主であることを知ります。聖書を通して様々な物事を読み取る人がいます。しかし、永遠の命を与えるためにやって来られたイエスを見出し、その方を信じることができなければ、その聖書の読み方はむなしいものにすぎないと言えるのです。

2.神の業

 さてイエスを捜し出すために一所懸命になった群衆に対してイエスは、その同じ労力を本当に必要なところに傾けなさいと次のように奨めています。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」(27節)。

 群衆はイエスの言葉を正しくは理解していません。むしろ、自分たちの肉体の飢えをいつでも満たすことができる食べ物としてそれを求めています。その誤解の上で、彼らはイエスにその食物を得る方法を尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)。イエスはこの質問に対して次のように答えています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)。ここで群衆が尋ねた「神の業」とイエスが語る「神の業」では原文において複数形と単数形という違った言葉で示されています。つまり、ここで群衆は「その食べ物を得るためには、どのようなもろもろの業をなすべきなのでしょうか」と問うているのに対して、イエスは「なすべきことは一つしかない」と語っているのです。
 人間は自分に必要なものをいろいろと並び立てて、それを自分のものにするために様々な努力をしています。しかし、イエスは私たちに本当に必要なものは一つであり、それを得るためにすることは一つだと教えているのです。それは神が遣わされた方、つまりイエス・キリストを信じること、それによって永遠の命をいただくと言うことです。これは先ほどのヨハネによる福音書の結論部分と同じ内容になり、ヨハネによる福音書が一貫して述べようとする主題がここにあることが分かります。

3.命は神が与えるもの

 そこで群衆はイエスが語られる「神が遣わされた方」とは彼自身のことを言っていることを理解したのでしょう。彼らはイエスに対する新たな要求を語ります。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(30〜31節)。
 当時の人々はモーセのような預言者が再び自分たちのところにやってきて、同じような奇跡を行ってくれることを待ち望んでいたようです。そこでイエスに「モーセと同じような、あるいはそれ以上の奇跡を起こして欲しい。そうすれば自分たちはあなたを信じよう」と迫ったのです。群衆はモーセのような力を持った救い主があらわれることを待ち望んでいました。しかし、彼らはその救い主が何のためにこの地上に遣わされるのかを知りません。せいぜい、コンビニのように自分たちの飢えを沈め、困ったことを取り除くためと言った程度にしか考えていないのです。
 そこで、イエスは命をあたえる方は神であると群衆に説明しています(32〜33節)。神様は私たちに命を与えようとしておられる。そのために救い主を地上に遣わされた。肝心なのはその神様と私たちの関係なのです。その関係が回復されない限り、私たちは神様が与えてくださる命にあずかることができません。ですから救い主はその神様との関係を回復されるためにやって来られる方なのです。ところが、群衆はそのことには全く関心を示さないで、イエスはどんな奇跡を起こすことができるのかと言うところだけに関心を持っているのです。
 この群衆との会話はヨハネによる福音書が4章で紹介する「イエスとサマリアの女との会話」と非常によく似た構成を持って進んでいます。サマリアの女は始め水を求めてヤコブの井戸にやって来ます。しかし、イエスは彼女に「いつまでも渇くことのない…、永遠の命に至る水」について教えようとされるのです。このお話の転換点は30節以降の「どこで礼拝を献げることができるのか」と言う問題です。つまり、命の源である神様と私たちとの関係はどこで回復されるのかと言う議論にお話は変わっていくのです。ところがこの6章でイエスとの会話の相手となっている人々はいつまでも「自分たちが食べるパン」に関心を示すばかりで平行線をたどり、サマリアの女との会話のような深まりを持った進展が見られないのです。

4.永遠の命が今を生かす
(1)イエスによる神との関係の回復

 群衆はイエスに「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願います。その願いにイエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。

 このイエスの答えはこれから私たちがあずかります聖餐式の式文に記された言葉でもあります。この聖餐式で私たちはパンを食べ、ぶどう酒を飲みます。しかし、それは私たちの肉体の飢え渇きを満たすためのものではありません。聖餐式にあずかることはイエスがここで語っている「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言う言葉につながっています。イエスを信じることが私たちに求められている唯一の業です。その業を目に見える形で示すのがこの聖餐式です。
 ですからこの聖餐式に信仰を持って参加する人は、神様との関係が回復され、命の源である神様と結びついて永遠の命にあずかる祝福にあずかっていることを確信することができるのです。もちろん、この祝福の根拠は神によって遣わされたイエス・キリストがなして下さった救いのみ業にあるのです。罪を犯して本来は死だけを待つばかりだった私たちが命を得ることができるのは、キリストがその命を捧げられて、私たちを罪から救い出してくださったからです。ですからこの救い主を信じることこそ、イエスのしるしを知る者に求められているただ一つのものなのです。

(2)永遠の命の祝福が今日の労苦に意味を与える

 ここまで読むと私たちが日常、食べ物を求めて行っている労苦はどうなるのか。それは無駄なことになってしまうのか。そのような疑問が生まれてくるかもしれません。最後にその疑問に聖書はどう答えているかと言うことをお話したいと思います。このヨハネによる福音書が記された時代、この福音書を読んでいた者たちが抱えていた最大の問題はユダヤ教会からの破門であったと考えられています(参照:9章34節。ユダヤ人の会衆から追い出された「生まれつきの盲人」はその時代の信者たちの姿を象徴していた)。
 当時、ユダヤ教はローマ帝国が認める公認宗教の一つでしたから、そこからの追放はユダヤ教会だけではなく、当時の地中海一帯を支配していたローマ帝国の保護を失うという大変に厳しい処分でもあったのです。ですからユダヤ教会から破門されれば、明日の自分たちの生活がどうなるかわからない。そんな不安を抱えざるを得ないような状況に当時の信者たちは追い込まれていました。「そこまでしてどうしてイエスを信じる必要があるのか」と思った人もいるでしょう。ヨハネはこの福音書を通して、永遠の命を得るためにはイエスを信じるしかないことを語り、それが私たちにとってももっとも大切な業であると語るのです。
 どんなに現実の生活が満たされていたとしてもこの命を得ることができない者の人生は意味がありません。それは最終ゴールを目指していながら、途中で競技を棄権してしまったランナーのようなものです。それまで走り続けた労苦はすべて彼がゴールに達したときに意味を持つことができます。同じように私たちの様々な日々の労苦も、キリストを信じ、永遠の命にあずかるときに意味をもつことができるのです。もし、その命を得られないとしたら、私たちの払う日々の労苦は死と滅びを受けるためのものになってしまいます。
 この福音書はそのような前提に立って、私たちに命のパンであるイエス・キリストを信じることを薦めています。そのことによって私たちは永遠の命の祝福をいただくことができます。そしてその上で、私たちが人生で支払う日々の労苦が意味を持つようになり、この地上の人生そのものが祝福に変えられることを聖書は教えているのです。

【祈り】
天の父なる神様。
私たちの求めるべき唯一の祝福である永遠の命を御子イエスの救いのみ業を通して私たちに与えてくださったことを感謝致します。日常生活の中で様々な困難な出来事に出会いますが、私たちの人生のゴールはイエス・キリストにある永遠の命であることを感謝いたします。そのことを覚え、信仰生活に励むことができますようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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