1.イエスを拒むユダヤ人
(1)必死な思い
先日、私は千葉県の柏にある国立がんセンターに父親と行ってきました。私たちは「12時半までに病院の受付をすませるように」とあらかじめ予約を取るときに電話で言われていました。ところが、受付を済ませて、外来の待合室に行くと、もうたくさんの人が自分の診察の番を待っています。結局、私の父の番が回ってきたのは午後4時近くになってからでした。その待ち時間に反して、診察はわずか10分もかからない簡単なものだったので、とても疲れてしまいました。しかし、待っていたのは私たちだけでないわけですからあまり文句も言えないかもしれません。
このがんセンターは他の病院でがんと診断された人だけが訪れる仕組みになっていますから、待合い質の様子も深刻です。待合室の長椅子に具合悪そうに横になっている人が何人もいました。また、そうでなくても苦しそうな顔をしたり、本当に不安そうな顔をして待っている人がたくさんいました。そのような人たちが何時間も自分の番を待ちながらそこに座っているのです。もちろん、怒って診察を受けないで帰ってしまう人はほとんどいません。そこにやってくる人はガンの専門家の治療を受けて、最前の治療を受けたいと願ってやって来ているからです。その診断に自分の生死がかかっています。ですから疲れても、具合が悪くてもずっと自分の番を待つしかないのです。
五千人の人たちを五つのパンと二匹の魚から満腹にさせたイエスを群衆は自分たちの王としようとたことを学びました。そしてその群衆の願いとは違った使命を持っていたイエスは彼らから逃れて湖の向こう岸に行ってしまいます。ところが、群衆はそれでも諦めずにイエスを追い続け、やっとイエスを見つけ出したというお話を先週学びました。
群衆は必死にイエスの後を追い続けます。体の具合が悪くても、いや悪いからこそ、医師の診断を待合室で待ち続ける患者たちのように必死でイエスの後を追ったのです。それは彼らが「なんとかしてイエスの力にあずかりたい」と願っていたからに他なりません。
(2)群衆から「ユダヤ人」へ
ヨハネの福音書は今日の箇所になって、イエスの後を追い続けてきた群衆たちを「ユダヤ人」と言う名前で呼び始めています。ヨハネの福音書はこの「ユダヤ人」と言う言葉を特別な意味を込めて使っています。ヨハネの福音書に登場する「ユダヤ人」とは、特定の民族の名前を指すと言うよりはイエスに敵対する人、イエスを受け入れない人々の代名詞として使われる傾向があるのです。つまり、ここで「ユダヤ人」と言う用語が彼らに向かって使われ始めたのは、イエスに関心を持って彼の後を追い続けた人々が、ここから明確にイエスに対する拒否の態度を取り始めたことを示そうとしているのです。
「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」」(41〜42節)。
イエスは神様が永遠の命を与えるために遣わされた救い主です。そのことを説明して、彼は「自分が命のパンである」と語り、その際「わたしが天から降って来たのは」(38節)とも語りました。そこで彼らはこの言葉に引っかかり、イエスがどこからやってきたのかに関心の的を移していくのです。以前、この礼拝でもイエスが故郷の町で、その町の人々から受け入れられなかったことと、そこに住む人々の不信仰を嘆かれたと言う物語を学びました。ここではそのときの故郷の人々の言葉と同じような言葉が繰り返されています。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」(参照:マルコ6章3節)。おそらく、このときのユダヤ人の中にはあの故郷の人々が含まれていたのではないでしょうか。
解説書によればこの福音書が書かれた当時、すでに神の御子キリストはイエスという人間の体に一時的に留まっていたにすぎないと言う誤った主張を唱える人々が生まれていたと言われています。彼らは神の御子は死ぬはずがない、だから神の御子キリストはイエスが十字架かけられる前に天に帰られ、十字架で死んだのは人間イエスにすぎないと考えたのです。そのような誤った主張に対して、ヨセフの息子イエスこそが、天から遣わされた神の御子であることをこの福音書は強調していると言うのです。ヨハネの福音書は真の人であると共に、同時に神であられるイエス・キリストだけが私たちに命を与えることができること教えるのです。なぜならば私たちの命はキリストの死と言う擬声を通してだけ私たちに与えられるものだからです。だからこそ、このような形でイエスを誤って理解しようとする人々を、イエスに敵対したユダヤ人と同じであると指摘するのです。
2.父が引き寄せてくださらなければ
(1)つぶやき合うユダヤ人
それではどうして、この人々はイエス・キリストを正しく理解することができなかったのでしょうか。どうして命をあたるためにこの地上にやって来られたイエスを歓迎することができず、拒否してしまったのでしょうか。そこには様々な理由が存在するのかもしれません。しかし、イエスはそのことを神様の御業の側から理解するようにと教えるのです。
「イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(43〜44節)。
出エジプト記ではモーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民が何度も「つぶやき合う」シーンが登場します。彼らは神様のすばらしい業を何度も体験しながら、それを忘れて目先の問題に心が奪われてしまします。そこで彼らはモーセに対して、そして神様に対してつぶやき始めます。その際、彼らは神様への信頼を忘れて、自分の力や知識で問題を解決しようとするために、「つぶやく」ことしかできなかったのです。この箇所でも人々は神様に信頼することなく自分の知恵と知識で、イエスの言葉を理解しようとしたので「つぶやき合う」ことしかできなかったのです。
(2)引き寄せてくださる聖霊
しかし、イエスはユダヤ人たちの「つぶやき合い」の背後にもっとも重大な原因が隠されていることをここで説明しています。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(44節)。
原因は人間の不安定で頼りにならない心にあるのではないのです。むしろその人間の背後で働かれる神の力によるものだとイエスは語られるのです。「父が引き寄せてくださらなければ」。この「引き寄せる」というギリシャ語の言葉は舟や車にロープを縛り、思いっきり引き寄せるときに使われる言葉です。舟や車は外からの力がロープを通して加わらない限り、全く動くことはできません。これと同じようにイエスを信じ、彼を受け入れることと、それとは逆に拒否する出来事の背後には神様御自身の力が100パーセント働いている、人の力はまったくそこには入る込む余地がないことをイエスはここで明らかにするのです。
この言葉は一見、不公平な言葉に聞こえますが、キリストを救い主と信じ、永遠の命が約束されている私たちにとっては慰めに満ちた言葉だと言ってよいのです。イエスを信じて、洗礼を受けようとするとき私たちが一番、不安を感じるのは自分のこの決心は本当にいつまでも変わらないで、信仰を持ち続けることができるのだろうかと言うところです。どうして、そう悩んでしまうかと言うと、その際私たちは自分の決意、あるいは自分の力でイエスを信じたと考えてしまっているからです。しかし聖書は、本当はそうではないと語るのです。父なる神様が私たちに聖霊なる神様を遣わしてくださり、イエス・キリストを信じることができるようにしてくださるからだと教えるのです。その聖霊の働きの結果、私たちはキリストを信じることができたのです。この信仰生活は私の力によるのではなく、私たちを聖霊を通してキリストの元に引き寄せてくださる父なる神様の力によると考えるとき、私たちはその神様を信頼して、将来を心配することなく信仰生活を送ることができるのです。
このように私たちをキリストへ引き寄せてくださる父なる神の不思議な力、それは聖霊なる神の働きを語っています。そしてアウグスチヌスやカルヴァンと言った人たちはこの言葉を私たちが誤解しないようにと解説を加えています。聖霊は私たちの意志を無視して私たちをイエスに引き寄せるのではないと彼らは言うのです。聖霊は私たちに無理矢理、いやいやながら、あるいは恐怖のあまりイエスを受け入れさせるよとするのではなく、私たちの心にキリストへの愛を与えてくださり、喜んでこの方を信じ、受け入れることができるようにしてくださると言うのです。私たちが自らの愛を持ってまったく違和感なしに神様を信じさせることができるようにさせる。それがこの聖霊なる神の働きだと言うのです。
3.天から降ってきたパンを食べる
(1)私たちを罪と死の力から解放するパン
「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(49〜51節)。
ユダヤ人たちは自分の先祖たちがモーセを通して荒れ野でマンナを食べたことを誇りに思っていました。できることなら、自分たちもその同じ恵みにあずかりたいと、イエスの後を追って来たのです。しかし、イエスは彼らに「自分の与えるパンは、先祖たちが食べたマンナとは明らかに違う」とここで語っているのです。荒れ野でマンナを食べた人たちは、一時的に飢えが満たされ、命を長らえることができたかもしれないが、やはり死んでしまったのです。
私たちもまた、この地上で様々な努力をして地上の命を少しでも長くしようと考えます。しかし、その努力が実ったとしても、私たちはいずれ誰もが死を迎えなければなりません。しかし、イエスの与えてくださるパンを食べる者はそうではないと言うのです。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。永遠の命をいただいて、私たちを支配していた死の力から解放されることができるのです。そのために私たちはこのイエスを食べなければならないと聖書は重ねて語るのです。そしてヨハネの福音書は「そのパンを食べるとはイエスを信じる受け入れることだ」と私たちに教えているのです。
イエスを信じ、彼を受け入れるなら、イエスの提供する永遠の命にあずかることができます。そして神様はその命に私たちがあずかることができるようにと、私たちに聖霊を遣わし、私たちをご自分の元へと引き寄せてくださるのです。
(2)私たちを力づけるパン
私たちがこの礼拝の最初に読んだ列王記上の言葉は旧約聖書の預言者エリヤに関する物語の一部分です。当時、イスラエルの人々は偶像崇拝の罪を犯していました。エリヤやはそのために立ち上がり、偶像崇拝をする人々と勇敢に戦い勝利を収めたのです。ところがその勝利の結果、彼は返って自分の命を狙われると言う危機を招いてしまいます。そこで彼は逃亡生活に入ることを余儀なくされるのです。その厳しい逃亡の生活の中でエリヤは飢え疲れ、自分の死を神に願うというような状態にまで陥ってしまいます。そのエリアに神はパン菓子と水の入った瓶を与え、エリヤはそのパンを食べ、水を飲むことで励まされ、再び立ち上がることができたのです。
「主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」(19章7〜8節)。
私たちの信仰生活も「長く、耐え難い」ように思われることがあります。そのとき私たちが自分の力で、自分の知恵で困難を乗り越えようと考えるなら、私たちの心には「つぶやき」が生まれることでしょう。そしてその「つぶやき」は私たちを旅の目標に近づけるのではなく、そこから遠ざけるようにさせるのです。
しかし、神様は私たちがいつも力づけられるようにと命のパンであるイエス・キリストを送ってくださっているのです。私たちは聖書のみ言葉を通して、今日もまたイエス・キリストが私たちと共にいてくださることを知ります。そして十字架の上で罪と死に勝利してくださったイエス・キリストがその勝利を私たち一人一人に与えようとしてくださっていることが分かるのです。
このイエスによって力づけられて、私たちも再び立ち上がり、永遠の命の完全な祝福が待っている信仰のゴールを目指して歩んで行こうではありませんか。
【祈り】
天の父なる神様
私たちにイエスを遣わして、私たちの罪をあがない、その死を滅ぼしてくださったあなたの救いのみ業を褒め称えます。あなたは私たちに聖霊を遣わして、あなたへの信仰を与え、この地上の生活で喜んでイエスに従うことができるように、主イエスに対する愛を与えてくださいます。私たち自身は愚かで、無力な存在です。私たちがこれからもあなたを見上げて、信仰生活を歩み続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
このページのトップに戻る
|