1.イエスの「血と肉」であるパン
(1)イエスを信じて、永遠の命を受ける
イエスが五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で満腹させた奇跡から、それを体験した群衆は自分たちの飢えを解決し、毎日の生活で困ることがないようにとイエスを自分たちの王にしようとしました。そのために群衆は彼らの前からいなくなってしまったイエスを探し回り、ガリラヤ湖の向こう岸、カファルナウムの町(59節)でイエスを発見します。ここで交わされたイエスと群衆との会話を続けて私たちは学んでいます。
群衆は自分たちが飢えることがないようにこれからも奇跡によって食べ物を分け与えてほしいとイエスに願っていたようです。ところがイエスは、自分が五千人の人々の飢えを満たした奇跡は人々にそのような願望を抱かせるためにあったのではなく、イエスが救い主であり、人々がそのイエスを信じて永遠の命を受けるために為された「しるし」であったと教えています(26節以降)。その上で彼らに「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」(27節)を求めるべきであると語り、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節)と語って、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物はご自分のことであると教えたのです。
ここまでの会話をたどるとイエスが人々に求めておられたのは「救い主として遣わされた自分を信じて、永遠の命を受けること」であることが分かります。イエスはこの永遠の命を人々に与えるため神様から遣わされた救い主であり、ちょうど地上のパンが私たちの地上の命を支えるように、このイエスによって私たちは永遠の命に生きることができることをイエスは語っています。そのような意味でこの会話で最も大切なのは、何度も語られるように「イエスを救い主として信じること、それによって永遠の命を受けることだ」と言ってよいのです。
(2)イエスを食べる
とこがこの51節からはイエスを「信じる」と言う言葉よりは、そのイエスを「食べる」と言う言葉が頻繁に登場してきます。そのためにイエスは「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)とパンをわざわざ自分の肉であると言い換えているのです。そしてこの言葉を聞いたために、そこにいたユダヤ人たちの間で「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(52節)と言う激しい論争が起こったと記されているのです。
ローマ時代、まだキリスト教が迫害され、信者が隠れて礼拝をしていたときに、「キリスト教徒は人間の血を飲み、肉を食べている」と言うデマが飛んだといいます。また、日本にキリスト教が伝えられた当時も、それと同じような誤解が人々の間で起こったと言うことを聞いたことがあります。彼らがそのように誤解したのは、キリスト教徒がイエスの死を記念して行う聖餐式を見て、それを曲解したせいだと思います。パンはキリストの体、葡萄酒はキリストの血と理解されるこの儀式を、文字通りそこに参列する人は本当の肉と血を食べていると思ってしまったのでしょう。
ヨハネの福音書にはイエスを信じる者が聖餐式を守り続けるようにと定められた制定のみ言葉がありません。他の三つの福音書にはその言葉が記されています。ですから多くの聖書学者は今日の箇所がこのヨハネの福音書の中でイエスの聖餐式制定のみ言葉に代わる箇所と考えているのです。
聖餐式はイエス・キリストを信じる者にとって大切な儀式(礼典)です。実際に、イエスを救い主と信じる人はこの聖餐式を通して大きな祝福を受けることができるのです。ここでイエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)と語られています。聖餐式を通して与えられる祝福とは私たちが永遠の命を得ること、そして終わりの日に復活することが保証されることだと言えるのです。
私たちはこのイエスが制定された礼典、聖餐式ともうひとつ洗礼式を「目に見えるみ言葉」とも呼ぶことがあります。このヨハネの福音書の箇所でユダヤ人たちは目に見えるしるしを自分たちに示してほしいとイエスに願っているところがあります(30節)。彼らに限らず、私たち人間はとても弱いものですから、何か目に見えるものに確かさを求めようとするところがあります。神様はその私たちをよくご存知の方ですから、私たち信仰者を励ますためにこの「目に見える」礼典を私たちに与えてくださったと言えるのです。ですから、私たちは自分の信仰のために進んでこの聖餐式にあずかることが大切なのです。それを信じて、この聖餐式に参加する者に、イエスは聖霊を通して永遠の命の祝福を今、与えてくださり、終わりの日に私たちが必ず甦ることができることを保証してくださるのです。
2.イエスを「食べる者」
(1)餌を「食べる」動物
さてここで興味深いのは何度もこの箇所で登場するイエスを「食べる」と言う行為に使われているギリシャ語の言語です。実は日本語聖書ではその違いがよく分かりませんが54節以下で使われている「食べる」と言う言葉はその前から使われている言葉と違うギリシャ語が用いられています。そして、この54節から使われる「食べる」と言う言葉は、私たちが食事をするときに使われる言葉と違って、動物がえさを食べるときに用いられる、いささか乱暴な食事の姿を示すときに使われる言葉なのです。
子供の頃、母の実家に夏休みに帰りました。母の実家は昔からの農家で、私が子供の頃はニワトリや豚をたくさん飼っていました。ときどき祖母がそのニワトリや豚たちに餌を与える光景を見た覚えがあります。餌がえさ箱に入れられたとたん群がるように集まって来て、餌をついばむニワトリたちの姿がありました。このニワトリたちと違って豚の場合はもっと迫力がありました。豚たちは一心不乱に餌を食べ始め、近くに寄ることも危険に思われるような勢いで餌を食べて行きます。
ここではそのような動物たちが餌を食べるときに使われる言葉が繰り返されます。それは動物たちが自分の命を維持するために必死になって餌を食べるように、私たちが必死になってイエスを食べることが教えられていると言えます。なりふり構わず、とにかくこれを食べないと死んでしまう。そんな危機感を持ってイエスを食べる、そんな姿を連想させるような言葉なのです。
(2)必死に食べ物を求める
飽食の時代と呼ばれる現代に生きる私たちは、幸いなことに食べ物のことではあまり困ることがなくなっています。しかし、戦争を体験した私の父や母の時代の人々とは私たちと違った感覚を食べ物に持っているようです。食べる物がなくって困った時代を身をもって体験しているからです。
私の父は終戦後間もなく、茨城の田舎から食べ物を売りに汽車に乗って上野のアメ横あたりに行った思い出を語ることがあります。粗末な食べ物でも並べるが早いか、あっと言う間に売れてしまったと言っていました。それほど、食べ物に苦労した時代が日本にもあったのです。人間は食べ物がなければ飢え死にしてしまいます。ですから死なないためには文字通り「必死」になって食べ物を求めなければならないのです。
イエスを食べる、イエスを信じるということもこれと同じであると聖書は私たちに教えているのです。イエスを信じることは決して生活に余裕がある人だけがするものではありません。イエスを信じなければ、誰でも必ず死んでしまうからです。私たちはイエスを信じなければ今日の日を送ることさえできないのです。そんなに大切なものこそが私たちのイエスに対する信仰です。ですからここで登場する「食べる」と言う言葉は私たちの信仰が、私たちの命にとってどんなに大切であるかを教えているのです。
3.命の交わり
(1)深い命の関係
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(56〜57節)。
ここではイエスと私たちとの関係がイエスの肉を食べ、その血を飲むことを通して確認されることが教えられています。ここで使われている「内にいる」と言う言葉は、ヨハネの福音書の有名なブドウの木と枝のたとえ(15章)で「つながっている」と語られた言葉と全く同じ言葉が使われています。そしてこのようなイエスと私たちとの親密な命の関係はここでは更にイエスと父なる神様との親密な関係にも似たものとして語られています。それほどに深い関係がイエスの肉を食べ、その血を飲む者に与えられていると言えるのです。
この言葉は私たちとイエスとの親密な命の関係を私たちはどこでいつも確認すべきなのかと言う点に注意を向けさせます。なぜならば、私たちはたびたび勘違いして、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むこと以外のところでその関係の確証を求めようとするからです。
以前、夜の教理の学び会の中で「困ったときの神頼み」はいけないと言うことを読んだことがあります。このテキストを書いている著者はその理由について「困ったときの神頼み」は、すぐに「困ったときの神離れ」になるからだと説明しているのです。「こんなに神様を信じているのに、神様はどうして私を助けてくれないのか」。「神様は困っている私をそのままにしていてもなんとも思っていない」。そう感じて、信仰から離れてしまう人がいると言うのです。その人たちの場合、神様との関係の深さは神様が自分の期待に応えてくれるかどうかで決まってしまいます。そして、その期待に応えてくれない神様は自分に対して関心がないと勘違いしてしまうのです。
(2)イエスの十字架を通して確認する
しかし、そのような判断はこの聖書に登場するユダヤ人たちと同じ誤りを犯していると言ってもよいのです。なぜなら彼らもまたイエスに自分の期待を適えてもらうことに必死になっていたからです。ところが、イエスはその期待に直接に答えようとはしませんでした。そのため彼らはやがてイエスから離れて行き、イエスに対して敵意さえ感じるようになります。そして最後にはイエスを十字架にかけるところにまで進んでしまうのです。
この誤りはどうして起こってしまうのでしょうか。神様との関係を間違ったところで確証しようとするからです。
ユダヤ人たちは自分が熱心に神様の律法を守ることを通して、そこに神様との深い関係の確証を求めようとしました。律法を熱心に守る者は神様から愛される資格を持っていると考えからです。しかし、そのような律法主義は自分で自分を満足させることはできるかもしれないが、神様を満足させることは決してできないことをイエスは明らかにしています。
本当に神様を満足させるものはこの世に一つしかありません。それは神から遣わされたイエス・キリストが十字架の上で裂かれた体であり、流された血です。その尊い犠牲によって、私たち人間の罪は完全に贖われて、神様に対する償いが支払われたのです。ですから、私たちは自分が神様から愛される資格を、この十字架のイエスの肉と血に求めなければなりません。
私たちの人生には様々なことが起こります。そんな中で自分と神様との関係が分からなくなってしまうことがあるのです。しかし、そのような人生の中でイエスは私たちを教会に招き、聖餐式に加わるようにと招待されています。それは私たちが、私たちと神様との関係の確証をこの十字架を通して確信させるためです。だからこそ、むしろ自分の信仰の弱さを感じて、神様の助けを必要とする者はこの聖餐式に進んで参加する必要があるのです。模範的な信仰生活を送っているからではなく、イエスを食べなければどうにもならないと感じる人がこの聖餐式に参加する資格を持っているのです。そして私たちが信仰を持ってこの聖餐式に参加するなら、聖書に記されている使徒パウロと同じような信仰の確信をそこで受けることができるのです。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章38〜39節)。
【祈祷】
天の父なる神様
私たちのために十字架につき、肉を裂き、血を流された救い主イエス・キリストの御業に感謝いたします。その犠牲によって、私たちは永遠の命を祝福にあずかり、終わりの日に復活すると言う希望が与えられています。地上の出来事に心奪われる私たちです。私たちの心を、イエスの肉と血に向けさせてください。あなたが私たちのために定めてくださった、聖餐式にあずかるごとに聖霊を遣わして、私たちに対するあなたの愛を更に確信させてくださり、私たちもあなたを心から愛することができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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