同じ説教
(1)本当に分かるまで
韓国の教会のお話ですが、だいぶ以前に、こんなお話を本で読んだことがあります。ある教会に新しく牧師が赴任して来ることになりました。教会員はみな、「今度の牧師はどんな人だろう」と興味津々です。そのため日曜日の礼拝にはその牧師の説教を聞くためにたくさんの人たちが教会堂にやって来て、耳を傾けました。礼拝で牧師は聖書から丁寧に、しかもわかりやすい説教を語りました。ですからその説教を聞いた人々から「こんどの牧師の説教はすばらしい」と言う評判が広がりました。そこで次の週には更に多くの人々が教会堂に集まり、彼の説教に耳を傾けたのです。ところがどうでしょうか、彼が語った説教は前の週の礼拝と全く同じ聖書の箇所、説教の題名も同じ、内容までも全く同じものだったのです。そこでその説教を聞いた人々は「どうしてあの牧師は同じ説教を二度もするのだろうか」と疑問を抱いたのです。ところがその牧師はまた次の週にも同じ説教を同じ教会の礼拝で語ったと言うのです。さすがに、同じ説教を三度も聞かされたところで、その教会の役員数人が牧師を訪問して、こう語りました。「先生、あの聖書の箇所の説教はよく分かりました。ですから、次の礼拝では違うところから説教をしてください」。役員たちは丁寧にその牧師に願い出たのです。ところが、その牧師はその役員たちの言葉に次のように答えたと言うのです。「そうでしょうか。私には皆さんがあの聖書のメッセージを理解しているとは思えないのです…」と。
その牧師の答えを聞いた教会役員たちは、「牧師のあの答えの意味はどういうことなのだろうか」と考えました。そして次の週、もう一度、彼らはその牧師の語る同じ説教に今度は今まで以上に真剣に耳を傾けたと言うのです。そして彼らはそのときになって始めて、「この説教で語られているお話は私たち自身のことなのだ。私たちが悔い改めてもっと神様に信頼することが求められていたのだ」と悟ったのだと言うのです。彼らはそれからというもの礼拝で語られる説教を今まで以上に真剣に聞くようになりました。そしてその後、その牧師は二度と同じ説教を繰り返して語ることはなかったと言うのです。
(2)受難予告を理解しない弟子たち
このマルコによる福音書を読むと、イエスは何度も弟子達に自分が十字架につけられて、殺されると言う受難予告を繰り返して語っています。このようにイエスが何度も同じことを弟子達に語ったのは、彼らがそのお話を耳では聞いているが、本当には理解していないからでした。イエスはそのことを知っておられたからこそ同じ離しを繰り返して語られたのです。そしてマルコによる福音書はこのときの弟子たちの無理解な姿をその都度、描写しています。
マルコの8章32節では最初のイエスの受難予告を聞いた、弟子のペトロがすぐに「そんなことが起こるはずがありません」とイエスをいさめ、叱り始めたと言う反応が記されています。さらに今日の箇所では、イエスの二度目の受難予告を聞いた弟子達の姿が記されています。なんと彼らはイエスのその言葉には上の空で、自分たちの中で誰が一番偉いのかで言い争っていたと言うのです(34節)。この後、10章でもイエスは同じように受難予告を弟子達に告げますが、そのときには弟子のヤコブとヨハネの兄弟がイエスの元に進み出て、「あなたが栄光の座に座るとき、自分たちをその右と左に座らせてほしい」と願い出ています(10章37節)。イエスが真剣になって大切な事柄を弟子たちに語っているのに、彼らは自分のことだけに関心を抱き、イエスの言葉を理解しようとしませんでした。むしろ彼らはイエスが自分たちの願望を叶えてくれることだけに関心を持っていたのです。
現在、水曜日の基本教理の学び、雪の下カテキズムの学びでは私たち人間のキリストへの期待と言うものが取り上げられています。私たちはいったいイエス・キリストに何を期待し、願っているのでしょうか。実はその期待の中にこそ私たち人間の罪に陥った姿が明確に現れると言うのです。イエスはペトロに「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(8章33節)と非難されていますが、この言葉は私たちすべてに語られている言葉だと言えるのです。つまり私たちがイエスの受難の意味を自分の人生で何度も何度も問い返し、それを理解する必要があるのは、私たちが本来、自分のことしか関心を示さない罪人であるからなのです。
2.一番偉いのは誰か
(1)聞き返さない弟子たち
イエスがこの大切な受難予告をされたとき、弟子達はそれを理解することができませんでした。しかも、彼らはそこで「自分たちはそれがよく分からないので、もう少し詳しく教えてください」とはイエスに尋ね返していないのです。むしろ彼らは黙って、その話に一切触れようとはしなかったのです。聖書は彼らが「怖くて尋ねられなかった」(32節)ためだと説明しています。「そんなことは起こってほしくない。そんなことは決して自分たちには受け入れられない」。ここでもペトロがイエスをいさめたときと同じ反応が弟子たちの間に繰り返されていると言えます。
(2)権力争い
「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(33〜34節)。
イエスに従って歩むべき道の途中で弟子たちは「誰が一番偉いのか」と言う議論をしていたと言うのです。これがイエスから自分の弟子となるように選ばれた人たちの姿なのかと、私たちは耳を疑うかもしれません。何 子供がよくする言い争いをしているようにも見える出来事です。しかし、確かにこのときの弟子たちのようにはっきりとした言葉で言い争いをすることはないかもしれませんが、同じような争いを私たちは日常の生活で繰り返しているのではないでしょうか。
アドラーと言う心理学者は人間の争いの原因を「権力争い」と言う言葉で定義づけています。どちらが相手を支配する権利を持っているのか。夫婦喧嘩から、国と国との戦争に至るまで、その権力をどちらが握るのかを巡って争いは起こるとアドラーは説明しているのです。
ですから「一番になりたい」。人間のそんな思いは、自分が権力者になって、相手を支配したいと言う気持ちを表わす強い願望なのです。人は自分の優れた能力や力を示すことで、その権利が自分にあることを示そうとします。しかも、その力を持ち得ないと考える人は、逆に問題行動を起こして、「私はあなたに簡単には支配されない」と主張するのです。
(3)仕える人になりなさい
ところが、「願わくば一番になってすべての権力を掌握したい」と願う弟子たちに、そして同じような願望を隠し持っている私たち人間のすべてにイエスは全く逆の勧めを語るのです。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35節)。
「すべての人に使える者になりなさい」。ここでの「使える者」というギリシャ語の言葉は元々は食事の席で給仕をする人を指す言葉として用いられていたようです。当時のイスラエルの社会において、食事の席で給仕をするのは、その席で最も地位の低い人が担当する仕事でした。イエスは誰よりも偉くなりたい、一番になりたいと考える弟子達に、そして、他人を支配して、彼らから仕えられることを望んでいた弟子たちに、「仕える人になりなさい」とここで勧めているのです。おそらく、この勧めはこのときの弟子たちに簡単には理解できないものであったと考えることができます。
3.子供を受け入れる者
(1)意外な行動
そこでイエスこの勧めを弟子達に理解させるために、次のような行動に出て、新たな勧めを語られています。
「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」」(36〜37節)。
イエスはそこに居合わせた一人の子供を抱き上げて、「この子供を受け入れた者は、私を受け入れる者であり、私を遣わされた父なる神を受け入れたことになる」と弟子たちに教えられたのです。私たちはここでイエスが可愛い子供を抱き上げる姿を想像して、何か微笑ましい情景を思い浮かべます。しかし、当時のイスラエルではこれは意外な情景だったと言えるのです。なぜなら当時の聖書の教師、律法学者たちはふつうこのようなことをしなかったからです。なぜなら、律法を守ることを熱心に教える教師たちにとっては、その律法をまだ十分に守ることができない上に、むしろ身勝手で、自分のことしか考えることのできない子供は人間として価値のないものだと考えられていたからです。そこで彼らは律法を守れず人間としての価値を持っていない子供を、人を数えるとき決してその人数に加えることはしなかったのです。子供は人間ではないと言う価値観が支配的な社会、イエスはそんな社会の中で人間としての価値をまだ持ち合わせていないと考えられる「子供を受け入れないさい」と弟子たちに勧めたのです。
(2)理解しきれない神の愛
これもまた弟子達の思いとは全く逆行する勧めだと言うことができます。なぜなら彼らが一番になりたいのは、「人々から自分は受け入れられ、尊敬されるべき価値を持っていることを示したい」と言う思いがあったからではないでしょうか。一番を目指す者は「私はあなたから愛されて当然なのよ」。「私を尊敬しないさい」と言う要求を持っています。そしてその私たちの要求を簡単には認めない相手がいたならば、その人よりもさらに優れた者になって、もっと一番になってそれを認めさせようと考えるのです。それが私たち人間の生き方、人の愛を獲得し、人に受け入れて貰おうとする方法だと考えるのです。
しかし、注意すべきことはイエスがここで「子供を受け入れなさい」と語っているのは、イエスを受け入れる者、そのイエスを遣わされた神様を受け入れることにつながるからです。つまり、ここには神様と私たち人間との関係が語られていると言えるのです。私たちが子供を受け入れなければ、私たちとイエスとの関係、神様との関係は成立しないとイエスは語っているのです。
私たちが子供を受け入れるということは、「私たちは神様から愛される資格を持っている、神様は私を受け入れるべきだ」と言う思いを放棄することを教えていると言えます。なぜなら、子供はそれを要求する資格を持っていないからです。そしてイエスは子供と言う存在を通して私たち人間の実像を明らかにしようとしているのです。私たちは人間としての価値を何も持っていないのです。私たちは誰も神様から受け入れられ、愛される価値を何も持っていない存在なのです。
そしてイエスはその事実を私たちが認めた上で、もう一度、イエスの受難の出来事、イエスが苦しみ、十字架にかけられ、命を捧げられた出来事を考え直すようにと教えられているのです。そうすれば、キリストの愛、神様の愛を知ることができるからです。本来、神様の愛を要求することができない私たちのために、神様に受け入れられることなど永久にできないと思われていた私たちのために、神様はイエスを遣わされ、十字架に付けてくださったのです。神の愛は人間の価値観、常識に逆行するものです。ですからこの神様の愛を私たち人間が完全に理解することは本来困難なのです。だから、神様はイエスの受難の出来事を私たちに繰り返して考え直すように要求されるのです。何度、礼拝に出て、何度、同じ説教を聞いても理解しきれない神様の愛がこのキリストの受難の物語には隠されているのです。ですから、このキリストの受難の物語に耳を傾け、自分のためのことだと理解しようとするものは、その都度ごとに新しい喜びと感動を受けることができるのです
【祈り】
天の父なる神様
私たちはいつも人より優位に立つことを願い、仕えることよりは仕えられる者であることを望み生きています。「あの人は役に立たない」と言って他人を軽視し、最後には自分の存在さえ絶望してしまう者たちです。このような私たちのためにあなたが御子イエスをお遣わしくださった救いのみ業に驚きを覚えます。このようにあなたの愛の本当の価値をなかなか理解できない私たちです。どうか私たちが何度もあなたの福音に耳を傾け、聖霊の力によってその愛を知ることが出来るようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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