1.教育ママの願い
(1)ヤコブとヨハネの願い
今日の箇所ではイエスの弟子であったゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟が登場しています。この二人の兄弟はアンデレとシモン・ペトロの兄弟と共にガリラヤ湖で最初にイエスの弟子とされた人々でした。マルコには少し前のところで山に登られたイエスが栄光に輝く姿に変化した物語を記していますが、この場面ではペトロとヤコブとヨハネの三人だけがその現場を目撃する特権にあずかったことが語られています(9章2〜13節)。また、有名なところでは十字架の出来事を前にしてイエスが祈るために赴かれた場所に、この三人の弟子だけが同行を許されている場面が記されています(14章32〜42節)。つまりヤコブとヨハネの兄弟とペトロの三人の弟子はイエスの最も身近で活動した人物として聖書では紹介されているのです。
そのような背景もあったからでしょうか。ヤコブとヨハネの弟子はここできわめて大胆な、願いをイエスに語っています。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と彼らはイエスに願い出たと言うのです。ここで彼らが語っている「栄光をお受けになるとき」とは、素直に考えればイエスが自分に与えられた使命を成し遂げて、その目的を達成されたときと言うことになります。つまり、エルサレムで十字架にかかり、命を捧げることで私たち人間の罪を贖われ、救いを成就されるときがそのときだと考えることができます。
しかし、この箇所のヤコブとヨハネの会話を見ても、どうも彼らはイエスの本当の使命をまだ理解していないように思えます。ですから、その二人が考えた「栄光をお受けになるとき」とはイエスがこれから訪れようとするエルサレムの町で民衆に迎え入れられ、彼らの絶大な支持によって新しい指導者に選ばれるときのようなことをヤコブとヨハネは想像していたと考えたほうがよいかもしれません。そして二人の兄弟はそのときになったら自分たちを特別に扱ってほしいとイエスに願い出たのです。
(2)母親の願い
面白いのはこの同じ出来事を記したマタイによる福音書の告げる内容です(マタイ20章20〜28節)。ここでは「ゼベダイの息子達の母」、つまりヤコブとヨハネの母親が登場して、彼女が二人の息子をイエスの前に連れて来て「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)と願ったと記されているのです。この二つの福音書の記述の違いを取り上げながら、韓国のある説教者はヤコブとヨハネの二人の兄弟の願いは母親の願いの現われだったのだろうと語っています。つまりマタイはむしろ二人の弟子がどうしてこんな大それた願いをイエスにしたのか。その原因を読者に説明しようとしたと言うのです。そして現代でも、たくさんの母親は自分の子供が有名大学に入学して、大企業に入り、出世してくれることを願っていると指摘した上で、この韓国の説教者はヤコブとヨハネの兄弟、そしてその母親の願いは現代の親子が抱く願いと変わりがないと言っているのです。もしかしたら、この二人の弟子は母親の強いプレッシャーを感じながらイエスに従っていたのかもしれません。
2.ご褒美がほしい
(1)エルサレム行きに伴うリスク
イエスはこの二人の弟子にすぐに答えています。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)。やはり、この二人の弟子はイエスがこれからエルサレムに赴き、そこで十字架にかけられ、命を捨てられるという出来事をまだ十分に悟ってはいないようです。なぜなら「イエスの右と左に自分たちをいさせてください」と言う願いは、イエスが十字架にかけられたときに、イエスの十字架の右と左で同じように十字架にかけられることを願っていると言うことになるからです。ここでイエスが語る「わたしが飲む杯」、「わたしが受ける洗礼」とは彼の十字架での苦しみと死を意味しているのです。
ところが彼らはここで簡単に「できます」と答えてしまっています。あるいはヤコブとヨハネの兄弟はこれから赴くエルサレムでの出来事をある程度は予想していたのかもしれません。エルサレムはイエスの活動に敵対するファリサイ派やサドカイ派の人々の牙城と言ってもいいところでした。イエスの弟子達も彼らがイエスの命を狙っていると言うことを知っていました。「エルサレムではきっと何かが起こる。ただごとでは済まされないだろう。もしかしたら自分たちの命も危うくなるようなことがあるかもしれない」。そのようにヤコブとヨハネは自分たちが背負わなければならないリスクを覚悟した上で「できます」と答えたのかもしれないのです。
(2)忠誠心に対するご褒美
しかし、そのリスクを背負わなければならないからこそ、この二人の兄弟にとって大切になってくるのは、それを通して自分たちにどんな利益が与えられるかと言うことだったのではないでしょうか。それをしたら何を自分たちは得ることができるのか、その苦難に見合う代償を得なければ自分たちは割に合わないと考えたのです。
ここ数日のテレビのニュースでは、隣国の独裁者は自分の権力を維持するためにその側近達に数々の贈り物を贈って来たと紹介されています。贈り物は独裁者に対する側近たちの忠誠心の代価として与えられるものだと言うのです。だから、もし高級品の輸入がストップしてその贈り物を側近たちに贈れなくなったら、彼らの独裁者に対する忠誠心は揺らいでしまうだろうと予測しているのです。ヤコブとヨハネもイエスに対する忠誠心をここで表しているのです。だからその忠誠心に対するご褒美をイエスに願い出たと考えることができるのです。
3.イエスの使命と目的
(1)それは関係のないこと
イエスは続けて彼らにこう答えています。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」(39〜40節)。このイエスの言葉はヤコブとヨハネの兄弟がやがてイエスと同じように苦しみ、死を迎えること、つまり彼らの殉教の死を告げる預言だと考えられています。しかし、このときのヤコブとヨハネの二人にはイエスの言葉を十分に理解する力がありませんでした。その預言はともかくとして、彼らが今理解しなければならないのは、このイエスの言葉の後半の部分、つまり「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と言う部分です。
ヤコブとヨハネの兄弟は今、自分たちがやがてどのような地位を得ることができるかに最大の関心を抱いています。先ほども触れましたようにそれは彼らの母からの彼らへの強い期待を背景にした関心であったかもしれません。しかし、イエスはここでそれは自分たちには関係のないこと、またヤコブとヨハネの兄弟たちにも関係のないことだと語っているのです。
ヤコブとヨハネの最大の関心事は、ある意味ではこの聖書を今、読んでいる私たち自身の人生での最大の関心事であるとも言えます。私たちもまた、自分が人々にどのように取り扱われ、どのような地位を確保することかに関心を払い、そのために努力しているからです。しかしイエスはその関心事を「あなたたちには関係のないことだ、あなた達が考える必要のないことだ」と断言されているのです。
イエスはかつて「明日のことで思い悩むな」(マタイ6章34節)と言う有名な言葉を語りました。それは自分に与えられた領分を超えることなく、今、与えられている今日と言う一日を忠実に過ごすことを勧められたみ言葉だと言えます。同じように、自分の地位がどうなるかと言う問題をイエスは「明日のことを思い悩む」ことと同じように無意味なことだと語るのです。そして、私たちが今、考えなければならないこと、行動しなければならないことは別なところにあると教えられたのです
(2)神を知らない人々の願い
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」(42節)。
先ほどの「明日のことで思い悩むな」と言うところでも、「明日は何を食べよう。何を着よう」と悩むことは神様を知らない異邦人たちがすることだとイエスは教えられました(マタイ6章31〜32節)。そして今日の箇所でも、「自分の地位を気にして、権力を得ようとする願いや行動は、やはり神様を知らない異邦人達のものなのだ」とイエスは教えているのです。そして、神様を知っている私たち、その神様の導きを信頼している私たちはそれを考える必要はなく、全く別のところに関心をもつべきだと語られるのです。それは「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43〜44節)という生き方です。
イエスはここで神様を信じる私たちに「仕える者になりなさい」。「すべての人の僕となりなさい」と勧めています。「仕える者」と言うのはその人の使命を表し、「僕」とは自分がおかれている立場、人間関係の中での位置を表している言葉です。つまり、私たちの人生に与えられている使命は「仕えられることではなく、仕えること」であり、「私たちは主人になろうとするのではなく、僕として生きていく必要がある」と教えられているのです。そして、どうして私たちがそのような生き方をすべきなのかその根拠をイエスは続けてこう語るのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)。
「人の子」とは聖書の中でイエスにつけられた呼び名の一つです。聖書はこの世の権力者たちを「獣の子」と語り、その一方で天の父なる神様がこの世に遣わす真の王を「人の子」と呼びました。つまり、神様から遣わされた真の王イエスは「仕えられるためではなく仕えるために」この地上に来て下さった方なのです。このためにイエスは十字架にかかり、ご自身の命を「身代金」として支払われることにより、罪と死の支配の元にあった私たちを命へと買い戻してくださったのです。
4.苦しむことの幸い
(1)イエスの救いによって変えられた立場
イエスは私たちが異邦人、つまり神様を知らない人のように生きる必要はないと教えています。明日のことを思い悩み、自分の地位を心配し、人々に権力を振るおうとするのは異邦人の行動であり、願いだと言うのです。それではどうして、私たちは明日のことに思い煩う必要がないのでしょうか。自分の地位を心配する必要がないのでしょうか。それは私たちの明日を導いてくださる主イエスを私たちは知っているからです。私たちのために命を捧げて、私たちを愛してくださった主イエスを知っているからこそ、私たちはもはや自分の地位、自分の取り扱いが地上でどうなるかを心配しなくていのです。なぜなら、私たちの地位はイエス・キリストによって神の子として取り扱われることが確定されているからです。その福音の上にたって、イエスは私たちに「仕える者になり、すべての人の僕になりなさい」と勧めているのです。
(2)苦しみこそ喜び
ヤコブとヨハネの兄弟は自分たちが受けなければならない苦しみに見合ったご褒美がなければ割が合わないと考えました。しかし、パウロはコロサイの信徒への手紙の中で自分が苦しみに合うことを次のように語っています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(1章24節)。彼はキリストの教会のために労苦すること、つまり、それを通してキリストに仕えることを喜びとするとまで語っています。それは「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしてい」るからだと彼は語るのです。
もちろん、ここでパウロはキリストの十字架の苦しみと死がまだ不完全であると言うことを言っているのではありません。むしろ彼は、キリストが自分たちを福音伝道の道具として用いてくださること、キリストが地上の人々に仕えるために自分たちをその道具としてくださることに喜びを感じていると言っているのです。キリストのために苦しむこと、それはパウロにとってイエス・キリストの働きを担う重要な役割を担った僕として自分が用いられていることを表わす証拠だったのです。つまり、キリストのために苦しむこと自体が、私たちが神様から大切にされている証拠なのだとパウロは語るのです。だから苦しみに見合ったご褒美をパウロは神様に要求する必要はなかったのです。なぜなら、その苦しみこそが私たちに対する神様の恵みであり、私たちに対する豊かな愛を示す証拠となっているからです。
【祈祷】
天の父なる神様
私たちのためにこの地上に遣わされた主イエスは私たちの真の王でありながらも、私たちに仕え、僕となって私たちの救いを成し遂げてくださいました。私たちはこの真の王の支配によって、すべての思い煩いから解放され、新しい使命に生きる者とされていることを感謝いたします。パウロと同じようにあなたの教会に仕え、そこから喜びを受けることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン
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