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礼拝説教 桜井良一牧師
役人の息子のいやし

2006.10.29)

聖書箇所:ヨハネによる福音書4章43〜54節
43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。
44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。
45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

1.聖書の言葉は時代遅れ
(1)結婚式にはふさわしくない

 だいぶ以前のことです。あるカップルの結婚式を挙げることになりました。牧師は通常、結婚式を執行する前に、何回かにわたって結婚の意義について、また、実際に結婚式で制約される誓約文についての学び会をこれから結婚する二人のために持つことになっています。実はその学び会をしていたときのお話です。結婚式で朗読される聖書の箇所を学んだとき、これは新郎の方、つまり男性なのですが、「この聖書の言葉は女性差別を肯定するような言葉なので、どこか別の聖書の箇所を結婚式では読んでほしい」と言われて、ちょと困ってしまったことがあります。確か新約聖書のエフェソの信徒への手紙の一節だったと思います。皆さんも何度も結婚式などの席で聞いたことがある言葉だと思います。あそこでは「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」(5章22節)と言う言葉が記されています。しかし、一方の夫には「妻を愛しなさい」(25節)と言う言葉は記されていても「妻に仕えなさい」と言う言葉は出てこないのです。おまけにこの箇所では「夫は妻の頭だ」(23節)と言う言葉まで登場します。
 「もし、結婚式でこの言葉を読んだら、自分の友人達はキリスト教に躓いてしまう」とまで彼は発言するのです。この男性、洗礼を受けて、長く教会生活を送っている信者でしたから、私も意外な言葉を聞くようでびっくりしてしまいました。結局、短い結婚式の説教のさいに聖書は女性差別を教える書物ではないことを説明することになって、なんとかこの聖書の箇所を式文の通り読むことができました。そうして私も改革派教会の牧師としての務めを全うすることができたわけです。

(2)変わってしまう人間の常識

 確かに今の時代、「妻は夫に仕えなさい」とか「夫は妻の頭である」と言う言葉を聞くと、おそらく多くの人は時代遅れの封建社会の遺物を教えていると批判するかもしれません。そのような意味で、男女の立場や、それに関する価値観は時代とともに変化するものだと言えるのです。おそらく、エフェソの信徒の手紙を書いた使徒パウロが想像もつかないような価値観を、現代人は常識として信じているのだと思います。

 しかし、もう少し考えてみると、今、私たちが常識として考えていること、信じていることも100年後、200年後でも本当に通用しているのかと言えば、そうとも言い切れないのではないでしょうか。パウロの時代の価値観を、私たちが時代遅れと批判するように、私たちの価値観を未来の人々は同じように批判しているかもしれません。今日の箇所では離婚の問題が取り扱われています。律法にてらして「離婚をすることは合法なのか」、そして「いかなる離婚が合法と認められるか」と言う問題が取り上げられています。私たちはこの問題についてのイエスの答えを通して、離婚や結婚の問題に背後に隠された神様の私たち人間に対する思いと、人間の思いがその神様の思いとどのように異なっているかについて少し考えて見たいのです。

2.離婚についての解釈
(1)質問の意図

 「ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである」(2節)。

 日常の生活の中で厳格にモーセの律法を守ることを人々に勧めたファリサイ派の人々がここに登場し、イエスに質問を投げかけています。その質問の目的は「イエスを試そうとした」からだと福音書は説明しています。つまり、ファリサイ派の人々はこの質問の答えが分からないからイエスに聞きにきているのではなく、この質問を通してなんとかイエスを罠にかけようとしていたと言うのです。
 イエスの登場を準備した人物として有名なバプテスマのヨハネはこの離婚の問題を巡って、牢獄に入れられ、最後には処刑されるという運命をたどりました。ヨハネは当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの結婚が律法に反する行いであると非難したのです(マルコ6章14〜29節)。ですからここでイエスからヨハネと同じような発言を引き出せれば、イエスも逮捕され同じ運命をたどらせることができると考えたのかもしれません。

 また、この離婚の問題に関して当時、ファリサイ派の中には二つの対立する意見があって、激しく論争し合っていたと言います。つまり、この離婚の問題は簡単には決着の付かない複雑な問題だったのです。そのために、この質問をして、イエスがもし簡単に答えることができなければ、それを元にイエスを批判しようとしいう意図も彼らにはあったのとも考えられるのです。

(2)二つの解釈

 イエスはこの質問に対して「モーセはあなたたちに何と命じたか」とファリサイ派の人々に問い返しています。当時の人々はモーセを通して神様が与えてくださった律法を「モーセ」と名前を使って表現していましたから、これは「律法は何と言っているか」と言う質問になります。ファリサイ派の人々はこの問いにすぐに、旧約聖書の言葉を引用して答えています。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)。

 この言葉は旧約聖書の言葉、申命記24章1節の引用です。その部分を読んでみると、こうなります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。
 実は先ほどの少し触れましたように、このモーセの言葉を巡って当時、ファリサイ派の人々の見解は真っ二つに分かれていたと言うのです。ここには離婚の理由として「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」と言う条件を示す言葉が記されています。この言葉を厳格に考える人々は「妻に何か恥ずべきことを見いだし」と言う言葉に注目して、妻の不貞行為が認められた場合にのみ、夫の側からの離婚が許されるという見解を主張したのです。しかし、この見解と違って、当時の多くの人々に受け入れられたもう一方の解釈はこの条件の言葉の後半の部分にのみ注目します。つまり夫が「気に入らなくなったときは」と言う言葉です。この解釈に従うと、たとえば妻の「料理が下手だ」とか「掃除が苦手だ」と言った些細な理由でも、夫がそれを気に入らなければ妻を自由に離婚できると言うことになるのです。実際にそのような理由で、当時たくさんの離婚が成立していたと言うのです。夫が妻を気に入らなければ「離縁状を書いたら」それで離婚が成立してしまうのです。そしてむしろそちらの方が当時の社会で広く認められていた律法の解釈だったと言うのです。
 しかも当時のイスラエルの社会は男性中心の社会でしたから、当然、妻の側が夫を気に入らないから離縁状を書くと言ったケースは認められていませんでしたし、それはまったく想定されていないのです。

(3)離縁状の意味

 それではこのモーセの律法の元々の意図はどこにあったのでしょうか。実はこの律法で最も大切な部分は夫が妻のために「離縁状を書く」と言うところにあると考えられています。女性が働いて家計を支えると言ったことがほとんど不可能だった古代社会で、女性が生きるために残されている選択は、男性と結婚をすることでした。しかし、夫の身勝手のために家を出されてしまった女性でも、法的にはまだ元の夫の妻のままであり、そのままでは自由になることができません。つまり、彼女は新しい配偶者を見つけて、結婚することができないのです。結婚することができないと言うことは、女性にとって生きる道を閉ざされてしまうことと同じです。そこで律法は、夫が速やかに離縁状を書いて、妻を自由の身にするように、彼女に新しい人生を生きる道を与えるように促しているのです。ところが、その律法の精神がいつの間にか忘れられてしまい。離縁状さえ書けば、いつでも自由に妻と離婚することができると言う、夫の身勝手な思いを正当化するためにこの律法は利用されてしまったのです。

3.神のみ業に従って
(1)人間の現実を認める律法

 イエスは「イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(5節)と答えます。モーセの律法は「離婚は許されない」と語るよりも、実際にその離婚の問題のために犠牲を負わなければならない婦人達のために、夫達に「離縁状」の義務を負わせることで、彼女達の苦しみを軽減しようとしたとイエスはここで言っているのです。
 最近、ニュースでいじめのために自殺した女の子の話がよく放送されています。市や教育員会、学校側は「いじめはなかった」とか、「いじめの事実が確認できない」と言っているようです。いじめを認めれば、自分たちの側に責任がかかってきますからそれを認めたくないと言う気持ちも分かります。しかし、大切なのは「いじめはどこにでも存在する」と言う事実を認めて、そのために何をすべきかを考えることが一番必要とされているのだと思います。その点でモーセの律法は、避けられない離婚の事実を認めて、そのためにどうすべきかを現実的になって対処していると考えることができるのです。

(2)男と女を作られた神の思い

 イエスはこの言葉につづけて次のように語ります。

 「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(6〜9節)。

 イエスの離婚、あるいは結婚についての考え方は時代によって変わってしまう人の価値観によるものでものではありません。むしろ、天地を創造された神様の思いにまで立ち返るものだと言えます。神様はどうして人を男と女とに創造されたのか。どうしてその男女を一つにする結婚制度を設けられたのか。それは彼らが一つになって生きていくためであり、神様の祝福をその二人で分かち合って生きるためなのです。そのようにして神様が一つに結びつけられたものを人は離してはならない。それがイエスの見解であり、神様の思いであることをここで明らかにされたのです。つまり、このイエスの言葉に従えば、合法的な離婚は存在せず、すべての離婚は神の御心に反する不法な行為だと言うことになる訳です。
 ご存じかもしれませんがカトリック教会は今でも教会の教えとして離婚を認めていません。それは結婚がカトリックでは洗礼や聖餐式と同じような礼典の一つに数えられているところにも根拠があるようです。つまりキリスト信者が離婚をすれば、その人は天国には入れないとカトリック教会は理解しているのです。しかし、離婚が禁じられているからと言ってすべてのカトリック教徒の結婚はうまくいっていると言うわけでありません。むしろ、この教会の規則をくぐり抜けて、離婚を正当化させるような解釈がたくさん作り出されているのです。それはまさに、イエスの時代のファリサイ派の人々と同じような態度になってしまいます。

(3)神の思いを理解させるために与えられている律法

 イエスの言葉はあまりにも理想主義で、私たち人間は厳しすぎる。たくさんのカップルが離婚していく現代の社会で私たちはこのイエスの言葉に従うことの困難さを感じてしまいます。しかし、私たちはここでもう一度、考えるべきなのはこの離婚の問題を含めて、聖書は私たち人間の身勝手な思いを肯定する教えを何一つとして語っていないと言うことなのです。
 聖書に従えば「何が許されるのか」と私たちは考えます。どこまでが「ぎりぎりセーフ」で、どこからが「アウトか」と私たちは考えます。しかしその際、私たちが考えているのは神様の思いを実現することではなく、私の側の思いをどのようにしたら合法的に実現することができるかと言うことなのです。ところが、律法は私たちの側の思いを実現させるために作られたものではないのです。このような意味で私たち人間は自分の思いを実現するために律法を使うことは決して出来ないのです。
 この聖書の箇所ではそのためにこの神様の思いと、私たち人間の思いが衝突してしまっています。そして神様の思いを示す律法によって明らかにされるのは人間の身勝手な思いであると言えるのです。「自分の都合であれば大切な配偶者を離縁してもいい」と私たち人間は考えます。彼らは自分には不必要だからいらないと人間は考えるのです。その考え方は当時の人々の子供についての考え方の中にも生きています。子供は大人のように役に立たないと考えられました。そのため大人の都合のために子供の価値はたいへん低く見積もられていたのです。
 この人間の価値観にイエスの考えは挑戦しています。なぜなら、神の思いはこのような人の思いとは全く違っているからです。聖書はイエスがこのお話をエルサレムへ行く途中の道で語っていることを示しています(1節)。イエスはこのときご自分が十字架にかかって死なれることを弟子たちに理解させるために、何度も教えられました。その教えのちょうど間に挟まれる形でこの箇所のお話は登場します。人間は自分の身勝手な思いにしたがって、その人が自分に取って必要かどうかを判断します。ところが神様はそうではないのです。ご自分のために何の役にも立たない存在、むしろその栄光を汚すばかりの私たちを愛されているのです。そしてイエスは、その神様の愛を実現させるために十字架にかかろうとされていたのです。だからこそ、私たちに必要なのは自分の思いを実現することではなく、この神様の思いを理解し、受け入れることだとイエスは教えるのです。
 私たちの内にも不幸にして離婚せざるを得なかった人がいます。幸いにして結婚生活を続けることが出来ている人もいます。しかし、そのすべての人が覚えるべきことは、私たちの側がどんなに罪を犯し、失敗をしても、その故に私たちを見捨てることなく、むしろ、その私たちを愛し通すためにイエス・キリストを遣わしてくださった神様の思いです。今日の聖書箇所はその神様の思いをもう一度、明確にして私たちに教えていると言えるのです。

【祈り】
天の父なる神様
頑なな心を持った私たちです。いつも自分の都合を考えてしまい、あなたの思いを忘れてしまいます。聖霊を私たちに送ってあなたの思いを理解させてください。私たちのような者を捨てることなく、イエス・キリストの命を持って、私たちを救い、愛してくださったあなたに感謝します。あなたによって愛されている私たちが家庭においても、教会においても、一致してあなたのために生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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