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礼拝説教 桜井良一牧師
ベトザタの池でのいやし

2006.11.5)

聖書箇所:ヨハネによる福音書5章1〜18節
1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
4 *彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

1.ベテスダの池と病人たち
(1)豊かなメッセージを伝えるヨハネの福音書

 牧師になり、このように皆さんの前で聖書のお話をするようになって早くも20年近くの歳月が流れました。いままでどれだけの回数お話をしているか、数えていないので分かりません。しかし、私が最初に教会で聖書のお話したときのことは今でもはっきりと覚えています。実はこのとき私はヨハネによる福音書の4章の「サマリアの女」と呼ばれる箇所から説教をしました。
 このヨハネによる福音書の特色の一つは他の福音書に比べて、物語の区切りとがとても長いという点にあります。「サマリアの女」の箇所は1節から26節くらいまで続いています。しかも、そのなかで見逃すことのできないメッセージがとてもたくさん納められているのです。当然、この福音書のメッセージを忠実に伝えようとしたら、その説教はとても豊富な内容を含む、長時間のお話になってしまいます。たぶん、そのためでもあったのでしょう。私はこのお話を京都にあった小さな伝道所で行いましたのですが、私の説教を聞いてくれていたのはわずか3人の会衆が私の説教の途中ですべてぐっすりと深い眠りに陥ってしまったのです。もちろん、私はそれでも最後まで準備してきた原稿を読み切りました。
 今日は5章の「ベテスダの池で病人をいやす」と言う物語から学びます。この箇所も聖書のテキスト自身長く、その上でたくさんのメッセージが散りばめられているという点ではヨハネによる福音書の特徴をよく表しています。しかし、私はこの場で皆さんを深い眠りに追い込むような同じ過ちを犯したくありませんので、今日はいくつかの興味深いメッセージを拾いながら、皆さんにお話をしたいと思います。

(2)ベトサダの池

「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(2〜3節)。

 エルサレムの町の北東に「羊の門」があり、その近くにベトサダと言う名前のついた池があったと語られています。この池の存在は長い間、忘れられ、このヨハネの福音書の中だけにその名が残されていました。そのため、実際にこのような池があったか、長い間、その史実性が疑われていたのです。しかし、エルサレムの町の発掘調査の結果、この池の後が出現し、ヨハネの福音書の記録の確かさが今では証明されています。
 このベトサダの池には五つの回廊があって、そこにはたくさんの病人たちが集まっていました。ところがこの新共同訳では、そこにどうして病人たちが集まっていたのか、その理由を記す箇所が抜けています。よく見るとこの箇所の3節の最後のところに変なマークが印刷されていて、その後に4節の本文が記されず、すぐに5節の本文が記録されています。これは4節の内容が本来のヨハネの福音書にはなかったものであり、後から誰かが加筆したものであることを表す印です。つまり、ヨハネの福音書のオリジナルなテキストは現存していませんから、それを書き写した古い写本で、この4節が書かれていないと言うことを示しているのです。ところが、この4節の説明がないと、この池にどうして、たくさんの病人が集まっていたのか。そしてそもそも7節で今日の聖書箇所の主人公が38年間もここに横たわっていた訳を語る、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と言う言葉の意味が分からなくなってしまうのです。
 おそらく、当時のエルサレムの事情をよく知る誰かが読者の疑問に答えるために、後になってここにその理由を書き足したのではないか。聖書学者たちはそう考えているのです。この抜け落ちている4節の本文はこのヨハネの福音書の最後のページ(212ページ)に記されています。

 「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(4節)。

 そこはとても不思議な池あったようでうす。何かの拍子に水面が動いたとき、人々はそれを天使が池に降りて来た証拠だと考えました。そしてそのときに真っ先に池の水に入ったものはどんな病気でも癒されると信じられていたのです。つまり、ここに集まっている多くの病人は水が動くときを待って、真っ先に池に入って、自分の病気を治してもらおうと集まっていた人々だったのです。おそらく、そんな奇跡がいつもたびたび起こったとは考えられません。そこでここに集まる人々は「めったに起こらないその瞬間を見逃してはならない、その瞬間が来たら、真っ先に飛び込もう」。そう考えて集まっていた人々だと言えるのです。そこでは他の人のことなどを思いやっていたら、いつまでも自分の番が回ってきません。つまり、この池の周りでは大変厳しい競争が繰り広げられていたと言うことになります。

2.二つの疑問
(1)良くなりたいのか

 今日の箇所で箇所を読んでいて私が疑問に思った点は二つありました。それはこの後、38年間も病気を患い、この池の傍らに横たわり続けていた人が登場します。そこでその病人をご覧になったイエス様が一言「良くなりたいのか」(6節)と尋ねられているのです。皆さんが、病気になってお医者さんにかかるようになったとき、もしその医師があなたに「良くなりたいのですか」と問うてきたら、皆さんはどう答えるでしょうか。「そんな馬鹿なことを聞かないでください。良くなりたいからここに来ているのではありませんか」。皆さんはたぶんそう答えるかもしれません。
 ところがカウンセリングなどを勉強していると、人間にはそうはっきりとは答えられない現実があるということが分かります。つまり病気だからこそ、その人の今の人生がなんとか支えられている。そんなことがあるのです。そう言う意味では病気は必ずしも、私たちの人生に役に立たないものではありません。
 たとえば、私たちは人生を生きるために、たびたび、重要な決断をして行かなければなりませんし、そしてそれに沿った行動をする必要に迫られます。しかしもし、人がその決断ができず、その行動ができないとき、そのままであるなら非常にその人の立場は悪くなってしまいます。「どうして、みんなもしているのに、あなたはそれができないの」と他人から非難されるかもしれません。そんなとき病気はとても便利な言い訳の理由になるのです。たぶん、皆さんも大切な約束が果たせないとき、「ちょっと身体の具合が悪くて」と答えられるときがあるかと思います。この場合、本当は病気でない人が「病気だ」と言えばそれは仮病になってしまいます。ところが本当にまじめで、嘘をつけない人は、心が理由を正当化させるために本当にその人自身を病気にしてしまうと言うことが起こるのです。現代社会では「鬱病」にかかる人が多く存在します。その人たちは本当にまじめで、誠実な人たちが多いと言われています。その一つの原因はそのまじめさのために自分の本当の気持ちが言えないで、その代わりに身体や心がブレーキをかけるということが起こるのです。しかし、このイエス様の質問は何を意図するものだったのでしょうか。この人は実際に38年間の間、横になったまま立ち上がることすらできない人でした。その人にどうしてこんな言葉をイエス様はかけられたのでしょうか。

(2)もう、罪を犯してはいけない

 その上で、もう一つ疑問に感じるのは、後半部でこの病人が癒された後に再びイエス様にお目にかかる場面で、イエス様が彼にかけられた言葉の内容です。

 「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(14節)。

 このイエス様の言葉を読むと、ここで38年間も病気で苦しんでいた人の病気の原因は彼が犯した何らかの罪によるものだ言っているように聞こえます。昔から因果応報と言う言葉がありますが、病気は自分の犯した罪の結果から起こるものだと洋の東西を問わず多くの人が考えて来ました。それはこのイスラエルの人々も例外でありませんでした。ところがこの後、ヨハネによる福音書の9章では「生まれつきの盲人」と言う人が登場し、その際に、これと同じような考えを持ったイエス様の弟子たちの発言が記録されています(2節)。イエス様はこの弟子たちに対して「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)と答えられているのです。この答えは人間が考えて来た因果応報という考え方とは全く違った考え方をイエス様が持っておられたことを明らかにしています。ところが、今日の部分ではどうもイエス様はこのときの発言とは違ってむしろ、因果応報を支持するようなことを言っているように思われるのです。それではこのイエス様の言葉の意味はいったいどこにあるのでしょうか。

3.自分と向き合うことのない人生

 まず、第一の疑問について考えて見ましょう。どうしてイエス様は「良くなりたいのか」とこの人にあえて尋ねたのでしょうか。カルヴァンはこの言葉を「この人自身の心に、良くなりたいという願いを起こさせるためであり、その一方でその場に集まっている人々にこれから起こる出来事に注意を促すためである」と説明しています。もしイエス様のこの言葉が無かったら、良くなりたいと言う思いが彼には起こらなかった。彼の状況はそれほど深刻であったと言うべきでしょうか。
 そう考えながら、この箇所に登場する、彼の発言を拾ってみると、そこにはある特徴が浮かび上がってきます。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)。「イエス様、私が問題なのではありません。私が水に入ろうとしても誰も助けてくれません。そればかりか、我先にと水の中に入ってしまうので、私の順番は永久に回ってこないのです」。自分の不幸はここに集まっている人が親切にしてくれないためだ。そしてこの状況はこれからも変わらないだろうと彼は語っているように聞こえます。
 ついでにこの後半部分で安息日に床を担いで歩いたことが安息日違反だとユダヤ人に指摘されたとき(10節)、彼はそのユダヤ人たちにこう答えています。「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」(11節)。確かにこの言葉は事実を語っています。しかし、ある意味でこの言葉も「自分がこのように床を担いで歩いているのは私の責任ではなく、私にそうしなさいと命じた人の責任です」。そう言っているようにも聞こえるのです。
 どうも、彼の発言からは彼が自分の責任を一切回避して、その責任を周りの人々に押しつけているような傾向が見受けられるのです。確かに彼は「このままでは自分はここにいてもどうにもならい」と分かっていたはずです。それなのに彼は別の行動を考えることなく、諦めきったようにそこに38年間も留まり続けたのです。これは彼自身がもはや自分の人生に希望を持つことを放棄してしまっていることを表す証拠ではないでしょうか。
 イエスの奇跡にあずかって病気を癒された人は聖書に何人も登場します。その場合、そこに登場する人自身の信仰が評価されたり、ほめられたりすることがあります。しかし、ここに登場する人にはそのような信仰の姿は全くと言っていいほど見られません。むしろ、信仰がなく、希望もない、自分の不幸を他人のせいにして、諦めきった人生を送っているのが彼の姿です。そう考えるとまさにこの彼の人生の姿こそが、後半部分の「もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言うイエスの言葉につながってくると言えるのではなにでしょうか。

4.どんな罪が問われているのか
(1)責任転嫁をし、絶望を選び取る

 最初の人間であるアダムとエバが神様から取って食べてはならないという善悪の知識を知る木の実を食べて罪を犯したとき、彼らの最初の反応はどのようなものだったでしょうか(創世記3章)。神様から「あなたがたは何ということをしたのか」と問われたとき、アダムは「あなたが造られたこの女が、私に木から取って与えたので食べたのです」とこの罪の責任はエバにある、あるいはそのエバを造られた神様にあると言うような答えをしています。また妻のエバも「蛇がだましたので、食べてしまいました」と語りました。つまり、彼女も自分の責任ではなく、蛇の責任だと弁明したのです。ここからも自分の責任を放棄して、他人にその責任を負わせるのが人間の罪の根本的な姿であることがわかるのです。そのような意味で、ここに登場する人もこの人間の根本的罪を担っていたことが分かります。
 また、ある説教者はヨハネの福音書の取り上げる罪と言う言葉について特別な解釈を加えています。ヨハネが問う人間の罪は究極的には私たちのために神様から遣わされた救い主イエス・キリストを拒むという姿を語っている。ヨハネの福音書の有名な一章の部分にこんな言葉が登場しています。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(10〜11節)。ここにも私たち人間の世界の罪が明確に表されています。私たちに希望を与えるために神様がこの地上に送ってくださった救い主イエス・キリストを拒むことによって、人間は絶望を選び取ってしまいます。それがヨハネの福音書が語る人間の究極的な罪だと言うのです。このような意味から考えると、イエス様がこの箇所で問うた罪とは、自分の人生と向き合うことなく、自分の不幸の原因を誰かに転嫁しようとする彼の生き方を指し、そして彼が神様から遣わされたイエス・キリストを拒否して、絶望的な生き方をしていることを語っていると言ってよいでしょう。

(2)神の法廷に立つ

 先日のキリスト教綱要の学びで、私たちはやがて自分たちが立たなければならない天国の法廷、神の厳しい審判に思いを巡らし、その裁きを瞑想することが大切であることを学びました。神様が開かれるこの天の法廷は、完全無欠なところであり、私たちの犯した罪の一切がそこで明らかにされます。そのため私たちはそこでは言い逃れることができないと言うのです。どんなに地上の人々に賞賛された生き方をしても、それはその裁きを免れる何の役にも立たないということをここでカルヴァンは何度も語っています。読んでいる私たちも苦しくなってしまうようなところでした。しかし、カルヴァンがこのように厳しく語るのは、このことを知らない限り、私たちの罪のために遣わされた救い主イエス・キリストにあるすばらしい希望が理解できないからだと語っているのです。つまり自分の罪と向き合い、自分の罪の姿に絶望する者は、そんな私たちのために神様が遣わしてくださったイエス・キリストの素晴しさを賛美せざるを得なくなると言うのです。
 今日のお話に登場する人は自分の本当の姿と向き合うことなく、自分の人生の悲惨の原因を第三者に転嫁しようとしました。だからこそ、せっかく神様がその彼のために遣わしてくださった救い主イエス・キリストに助けを求めることができなかったのです。
 大切なことは私たちが自分の罪と向き合うことです。そしてその私たちの罪のために遣わされたイエス・キリストを信じて、彼から希望をいただくことです。今日の箇所はそのような私たちの罪の問題とその罪のために来てくださったイエス・キリストの救いを教えているのです。

【祈り】
天の父なる神様
ベトサダの池のほとりで、38年間も自分の人生をのろい、他人を恨んで生き、全く希望を失っていた人にあなたは近づいて、驚くべきみ業を現してくださいました。私たちもまた、彼と同じような罪を負う者であることを覚えます。どうか私たちに自分の罪に向き合う力と、その罪を完全にあがなってくださったイエス・キリストにある希望を与えてください。あなたによって自分の力で歩ける者にされた私たちが、その人生であなたを賛美し、あなたに仕えることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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