1.王であるキリスト
来週の日曜日から教会ではアドベント、待降節が始まります。教会でもそのために、もうクリスマスツリーを飾りました。私が礼拝で説教をする際に使っている教会暦はこの待降節から新しい年に入ることになっていますから、その一週間前の今日の日曜日は教会暦では一年で最後の礼拝の日になります。教会暦の最後の日曜日の主題は毎年、「王であるキリスト」、つまりキリストが私たちの王であることを考える為の礼拝になっています。また、その事実を示すための聖書箇所が選ばれているのです。
少し早いと思われる方もあるかもしれませんが、皆さんは今年一年の歩を振り返ってどのようなことを思い出されることでしょうか。一年前には全く考えていなかったような出来事が自分の人生に起こり、いい意味でも、悪い意味でもとまどいを感じた方がおられるかもしれません。また、それとは全く逆に自分の計画通りに一年を歩むことが出来た方もいるかもしれません。そのように私たちの一年の歩を振り返りながら、今日の礼拝では私たち皆が「確かに私の王はイエス・キリストである」と確認することが求められています。この一年、主イエスは私たちの王としてどのように私たちの人生と関わってくださったのでしょうか。そのことを理解するために、今日の聖書箇所ではイエスが王であるとはどのようなことか、その意味を取り扱っています。
2.民衆を恐れる「指導者」たち
今日の箇所ではイエスが総督ピラトのもとで裁判を受ける場面が記されています。ピラトはローマ帝国の役人であり、当時ローマの植民地の一つであったユダヤを治めるために総督として赴任していました。イエスはユダヤ人の指導者たちから告発され、総督ピラトの裁判を受けることになりました。その事情についてはこの前の箇所の28節から記されています。このときユダヤ人の指導者たちはイエスを逮捕し、ピラトの待つ官邸に連れていきます。奇妙なことに彼らはこのピラトの家に一歩も立ち入ろうとしませんでした。福音書はその事情をこう記しています。「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」(28節)。
彼らは異邦人であるピラトの家に入れば自分たちが汚れてしまい、そのままでは過越の祭りの食事の席につけないと考え、ピラトの家の門の前でこの裁きの経過を待ち続けたのです。そのため、ピラトは官邸の中にいるイエスと門の外で待つユダヤ人との間を行ったり来たりしながら、双方の証言を聞き、その裁きを行わざるを得なくなっています。そんな面倒くさい仕事を彼が喜んで引き受けるはずがありません。彼はユダヤ人たちに「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」とその気持ちを正直に語っています。ところがその言葉に対してユダヤ人たちは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えています。この答えから明確になることは、ユダヤ人たちはイエスのために正しい裁きが行われことよりも、はじめからイエスを死刑にしたいと考え、そのために彼をピラトの元に連れてきたのだと言う事実です。
「自分たちには死刑を執行する権限がない」と言う言葉にはいくつから異論が存在します。使徒言行禄を見れば教会の最初の殉教者ステファノはユダヤ人たちによって石打ち刑が執行されています(9章54〜60節)。またその他にもたくさんのクリスチャンがユダヤ人の迫害にあって命を落とした記録が残されています。これらの記述から推測できることは、ユダヤ人たちはイエスを殺害する責任を自分たちが負うことなく、第三者であるピラトにその責任をなすりつけようとするためにイエスをピラトに裁かせたのではないかと言うことです。
ほんの数日前にイエスはたくさんの群衆の歓迎の言葉を受けてこのエルサレムに入城していました(12章12〜19節)。ユダヤ人の指導者たちはもし自分たちがイエスを殺したことが明らかになれば、この群衆たちがどのような反応を示すか、そのことを恐れていたのです。
このことは総督ピラトの場合も同様です。彼はローマ皇帝の代理者としてこのユダヤの総督として派遣され、たくさんの兵士を抱えながら絶大な権力を保持していました。しかし、そのような彼であってももし、ユダヤ人たちが問題を起こし支配地が混乱に陥るならどうなるでしょうか。その混乱がローマの皇帝に耳に入るなら、たぶん彼の統治能力が問われ、総督の地位を奪われる可能性も出てくるのです。だから、ユダヤ人たちの機嫌を損ねないために彼は不本意ではあってもこの裁きを引き受けなければならない立場に追い込まれていたのです。
3.キリストが王であること
(1)「ユダヤ人の王」とは?
さてこの裁判の焦点はいったいどこにあったのでしょうか。ピラトがイエスに問うたのはただ一つのことでした。「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)。ピラトはそのことをイエスに問い続けています。それではどうして「イエスがユダヤ人の王であること」がこの裁判の焦点になり得たのでしょうか。
この当時、ユダヤに「王」と言う地位を持った人物は一人も存在していませんでした。これからクリスマスを迎えると必ずその物語に登場するのは「ヘロデ王」という人物です。彼はこの物語の中で「王」と呼ばれていましたが、むしろその地位はユダヤの実際的な支配者であったローマ皇帝に取り入って手に入れたものにすぎませんでした。しかしヘロデ王の死後、彼の後継者たちはこの「王」としての地位さえ受け継ぐことができませんでした。彼の息子はガリラヤの「領主」と呼ばれていましたが、決して「王」ではありません。つまり、この当時、ユダヤの地はローマ皇帝の直轄地となっていたと考えることができるのです。そうなれば、ユダヤの王とはこのローマ皇帝であると言うことになります。
そしてもしここでイエスが「ユダヤ人の王」と自分を主張するならば、ユダヤには二人の王が存在することになってしまいます。つまり、イエスはローマ皇帝の権力を認めず、それに反旗を翻す人物と言えるのです。ですからイエスが「ユダヤ人の王」であるかと言う質問は、イエスがローマ帝国への反逆者であるか、そうでないかを判断する重要な質問であり、この裁判の焦点でもあったのです。
(2)あなたはユダヤ人の王なのか?
「あなたはユダヤ人の王なのか」と言うピラトの問いかけに、イエスは次のように答えます。
「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34節)。
これは不思議な答えです。ピラトの質問にイエスは「あなたは私を王だと思うのか」と問い返しているのです。かつてイエスは弟子たちにご自分についての人々がどのような噂をしているか、尋ねられたことがあります。その上で質問に答えた弟子たちに「それではあなたたちは私を何者だと言うのですか」と問い返されているのです(マタイ16章13〜20節)。イエスはこの質問の後、「わたしはこの岩の上に教会を建てる」と言う有名な言葉を語られ、弟子たちに教会を建てるという重要な使命が委ねられています。
おそらくこのピラトへの問いもまた、その質問に答える人の人生を変えるような重要な問いであったと言えるのです。福音記者ヨハネはこの質問をピラトだけではなく、この福音書を読むすべての読者に投げかけています。そしてこの質問に私たちがどう答えるかで私たちの人生は大きく変わってくるとも言えるのです。
ところがピラトはこの質問の重要さが理解できませんし、イエスが王であるという事実を全く誤解してしまっているのです。ピラトは続けて問います。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」(35節)。「私はユダヤ人でない。だから、あなたがたとえ「ユダヤ人の王」であっても私には直接関係ないことだ。しかし、もしあなたがユダヤ人の王であるとしたら、どうしてそのユダヤ人たちにあなたはこのように訴えられているのか。彼らにこんなにも嫌われているあなたがどうして「ユダヤ人の王」と言えるのだろうか」。ピラトはそう考え、目の前に立つ人物を決して王と認めることはできなかったのです。ピラトはローマの役人として、地上の権力がどのようなものであるかをよく知っていました。彼自身、ユダヤの総督としての権力を保つために相当の努力をしてきたのです。その彼の経験から考えても、イエスが王であるとは決して認められないことだったのです。
4.イエスこそ確かで信頼すべき私たちの王
(1)私たちはどう考えているか
イエスはこのピラトの考えを理解した上でこのように語ります。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」(36節)。
ピラトはこの世の権力、この世の国家のことを考えているためにイエスが王であることを理解することができないのだとイエスは語っておられるのです。
「イエスは王である。あなたはどう考えるか」。この問いはこの礼拝に集っている私たちにも向けられていると先ほど語りました。それでは私たちは本当に今、「イエスは私の王です」と胸張って言えるのでしょうか。もしかしたら、ピラトのような勘違いをしながらイエスを誤って理解し、その事実を受け入れることができないと言うことが起こっているのではないでしょうか。福音書記者はそのことに私たちの注意を向けさせようとしています。
毎日、信仰生活を送る私たちはこの問いをどのように考えているでしょうか。「イエスが王であるなら、どうして私はこんな人生を歩まなければならないのだろうか」。「イエスの力は私の人生のどこに働いていると言うのだろうか」。そんな疑問を抱きながら、私たちもまた「それでもあなたは私の王なのですか」とピラトと同じようにイエスに問い、ピラトと同じような誤解に陥っているのかもしれません。
(2)真理であるキリスト
そんな私たちにイエスは語っています。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(37節)。
イエスの時代のユダヤ人にとって「真理」と言う言葉はとても難しい哲学的な問題を論じる抽象的な言葉ではありませんでした。この言葉は私たちにとってもっと身近な事柄を語っているのです。真理と言う言葉はユダヤ人にとって「確実であり、信頼できること」と言う意味を示します。それではいったい私たちにとって確実で、信頼すべきものは何なのでしょうか。確かに世の権力者たちは自分こそ確実であり、信頼に値するものだと民衆に語るかもしれません。しかし、その権力はすぐに揺らぎ、確実でないことがすぐに分かってしまうものであることを私たちは知っています。私たちの人生を確実にするもの、私たちが安心して信頼できるものとは何なのか。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(14章16節)と御自身のことを語りました。イエスこそ私たちが確実に信頼出来るお方であることをご自身から明らかにしてくださったのです。
そしてそのイエスは私たちの王となるために、このピラトの裁きの座に立たれました。そしてこの裁判に結果、イエスは有罪となり十字架にかけられ処刑されます。その十字架の上に掲げられた罪状書きにこの「ユダヤ人の王」と言う名前が記されているのです。イエスは私たちの王として御自身の命を捧げられ、私たちを罪と死の呪いから救いだし、私たちが神の子として永遠の命を生きることができるようにしてくださったのです。そしてイエスは私たちに聖霊を送り、私たちに信仰を与え、御自身が勝ち取ったすべての祝福を受けることができるようにしてくださいました。ですからこのイエスの王としての支配がなければ私たちは一時たりとも信仰生活を続けることができないのです。
考えて見れば不思議なことです。この世のさまざまな価値観にたびたび支配され、イエスの姿を見失ってしまう私たちが、またピラトと同じようにこの世の権力者の物差しをもってイエスを裁き「それでもあなたは私の王なのですか」と問わざるを得ない私たちの姿があるにもかかわらず、それでも私たちはこのようにイエスを信じて生きていくことができるのです。イエスにだけ私たちの希望があると考えることができるのです。それはどうしてなのでしょうか。イエスはその答えをここで語っています。
「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。私たちがこんなに複雑な人生の現実の中でそれでもイエスを信じて、生きていけるのは、イエスが私たちの名を呼んで私たちを導いてくださるからです。私たちがすでにこの王の民とされているからなのです。イエスはまさに私たちの王になるためにこの裁きの座に立たれました。だからこそ、私たちの信仰生活は今、このように存在しているのです。このように私たちの信仰は100パーセント、この確実で信頼すべき真理、イエス・キリストによって成り立っているのです。
【祈祷】
天の父なる神様。
私たちのためにピラトの裁きを受け十字架に付けられた王イエスを心から賛美します。あなたの支配の故に私たちは毎日の信仰生活を送ることができます。どうか、私たちがそのことを悟り、驕ることなく、おびえることなく、あなたに信頼して、日々の歩みを続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。
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