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礼拝説教 桜井良一牧師
マリアへの知らせ

2006.12.17)

聖書箇所:ルカによる福音書1章26〜38節
26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

1.おめでとう、恵まれた方
(1)生誕劇の中心マリア

 今日はクリスマスの出来事を伝える大変有名な箇所から学びたいと思います。神から遣わされた天使ガブリエルによって、ナザレの処女マリアに神の子イエス・キリストの誕生が告げ知らされる「受胎告知」の場面を描いた物語です。皆さんはこの聖書の本文と同時に西洋の有名な画家たちが描いた受胎告知についての絵をご覧になられ、またそれをよく記憶されているかもしれません。画家たちは特に聖書のこの物語を好んで自分の絵の題材として選びました。それはおそらく、彼らの心にこの出来事に隠された神の祝福を伝えたいと言う思いがあったからかもしれせん。
 先日、幼稚園のクリスマス会でまた今年も奉仕する機会を与えられました。このクリスマス会では毎年、幼稚園の年長組の生徒たちが生誕劇を演じます。たくさんの子供たちが生誕劇に登場して、そして見事にいろいろな役を演じます。しかし、劇の中心であるマリアの役に選ばれるのはただ一人です。どういう基準でこのマリアの役が毎年選ばれるのか私には分かりませんが、それはある意味ではとても名誉なことかもしれません。おそらく本人よりもその家族のほうがうれしいのではないかと思うのです。

(2)喜びなさい

 しかし、最初のクリスマスの日に神の子を産むという役目を与えられたマリアはどのような立場に立たされ、またそれをどのように考えたのでしょう。そこには有名な絵画や生誕劇では伝えきれない複雑な事情があったと考えることができるのです。

 マリアの前に神様のメッセージを携えて現れた天使ガブリエルはまず「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と彼女に語りかけました。「おめでとう」と言う言葉は原語ではむしろ「喜びなさい」と訳した方がよい言葉です。天使はこれからマリアの上に起ころうとしている出来事を喜びなさいと語りかけたのです。なぜならそれは神の恵みの現われであり、その出来事を通して神が彼女と共におられることが分かるからだと言うのです。
 私は幼稚園の園児たちにクリスマス会で聖書のお話をするときに最初に尋ねました。「どうしてマリアは天使から「おえでとう」と言われたの」。「どうして世界中の人は今でも「クリスマスおめでとう」と言って、この日をお祝いするの」。子供たちはすぐに「赤ちゃんが生まれるから」と答えました。でも、どうして一人の赤ちゃんが生まれることが世界中の人が喜ぶべきことなのでしょうか。そもそも、その赤ちゃんを産むことになったマリアにとってこの出来事は本当に喜ぶことのできる出来事であったと言えるのでしょうか。

2.マリアの疑問
(1)天使の知らせ

 「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)。

 ナザレと言うガリラヤの町に住む一人の女性アリアはこの出来事に戸惑いを感じたと語られています。彼女もまた「自分にとって喜ぶべきこととはどのようなことか」と考え込んでいるのです。
 マリアは特別な女性ではありませんでした。小さな田舎町に住む一人の平凡な女性です。彼女の家も特別な家ではなく、小さく貧しい家であったと考えられます。聖書学者たちの見解によれば、このときのマリアの年齢は13〜14歳であったと考えられています。ですから西洋の画家たちが描いたマリア像とは少し違って、彼女はまだ幼さを残した女性であったと考えることができます。
 天使はこのマリアに彼女が喜ぶべき内容を語ります。これから彼女は男の子を産む。その子はこれから偉大な人となる。「いと高き方の子」と言う言葉は「神様の子」と言う意味を持った言葉です。彼はダビデに約束された王座を受け継ぐ者となり、ヤコブの家、つまりイスラエル、神に選ばれた人々のための王となると言うのです。
 おそらくマリアはこんな重大な出来事を自分が担うことになるとは今まで一度も思ったことがなかったでしょう。また、おそらく天使の伝える重要な内容を十分理解することができる予備知識も知恵も彼女は持ち合わせていなかったのかもしれません。しかし、彼女の心にはただ一つのことが引っかかっていたようです。マリアは次にその疑問を天使に投げかけています。

(2)神にできないことは何一つない

 マリアは天使に言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(35節)。

 マリアはヨセフと言う人物の許嫁でした。しかし、彼らは結婚の約束をしているだけで、まだ実際の結婚関係に入った訳ではありません。そのような彼女がなぜ、子供を産むことができるのかと言うのがマリアにとっての最大の疑問でした。 天使はこのマリアの疑問に、この出来事は聖霊の力によって起るものであり、神ご自身のみ業によるものだと説明しています。そして、同じように神の働きかけによってマリアの親類エリサベトも年をとっているのに身ごもったと言う知らせを付け加えています。エリサベトの場合はザカリヤと言う夫がいますからマリアの場合とは事情が大きく違います。しかし、その出来事もやはり最後に天使が語る言葉を証明するものとして語られているのです。天使は語ります。「神にできないことは何一つない」。
 この「「神にできないことは何一つない」と言う言葉は「神の語られた言葉は必ず実現する」と言う言葉に置き換えることができるものです。これらの出来事を体験した人々、エリサベトやザカリヤ、そして今日のマリアたちにとって、それは突然のことであったと思います。しかし、そのすべては神が既に語って来られたことが実現するためのものだとこの言葉は語っているように思われます。また、天地万物をみ言葉を持って創造された神様の力が今、同じようにこの出来事の中に働いていると言っているとも考えることができるのです。

4.私は主のはしためです
(1)マリアに起った危機的な事態

 このような意味でマリアは神の言葉がこの地上に実現するための選ばれた人であったと考えることができます。確かにそれは大変に名誉なことなのかもしれません。しかし別の観点から見れば、マリアにとってはこれほど恐ろしいこと、また危機的な出来事はなかったのではないかと思われるのです。
 先ほど語りましたように、マリアはヨセフの許嫁でした。そして彼女は当時のユダヤにはどこにでもいるようなとても平凡な女性だったのです。おそらく彼女が夢見ていたのは、夫ヨセフとのまことに平凡な生活でした。しかし、彼女にとってはこれから始まろうとするヨセフとの平凡な生活こそが最大の喜びであったに違いありません。そのマリアが許嫁ヨセフとは全く関係のない子供を産むことになると言うのです。確かに天使はその事情をマリアに説明しましたが、彼女の他にはそれを知るものはいません。
 当時の社会は結婚をしていない女性が私生児を産むことに大変厳しい態度をもっていました。ましてや結婚の約束をした許嫁がいる場合には、その女性はその結婚相手に対して不貞の罪を犯したこととなり、罪に定められることになります。そしてその罰は死刑にも当たる大変な重罪だったのです。
 ですからこの天使の申し出を受けることはマリアにとって自分の命を捧げるような重大な出来事であったと考えることができるのです。マリアは「おめでとう」と言う言葉ではなく、「大変なことになってしまったね」と言ってもらった方がいいような厳しい決断を迫られたのです。

(2)わたしは主のはしため

 ところがマリアはこのような深刻な事態が自分の人生に起るかもしれない、その天使の知らせに対して次のように答え、この事態を自分で引き受けることを承諾しているのです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)

 このマリアの答えはとても重要です。そこには私たちと神様との関係、そして私たちにとって最大の喜びとなる出来事は何かを指し示す鍵がこのマリアの言葉には隠されているからです。
 まずマリアは自分を「主のはしため」と語っています。「はしため」とは女奴隷と言った意味をもった言葉です。ですからこれが男性になると「しもべ」になる訳です。パウロが自分を「主のしもべ」と呼んだものと同じ言葉がこのときマリアの口を通して使われていることになります。マリアはここで自分を神様の女奴隷にすぎないと言っているのです。奴隷は文句を言わず、主人の言うことを聞かなければなりません。奴隷は主人から申し渡される任務を遂行するために生きている存在であると言えるからです。「これから自分の人生にどんなことが起るとしても自分は神様の奴隷なのですから、その言葉とおりに従うだけです」とマリアは語っているのです。しかし、この言葉は自分の奴隷としての立場の故にマリアが「そうするしかありませんね」とあきらめている言葉になるのでしょうか。そうなるとやはり彼女に「おめでとうございます」と呼びかけるよりは、「どうしようもありませんね」と天使は呼びかけるべきだったと言えるかもしれません。しかし、もし私たちがこのマリアの答えを不本意で諦めに近い応答と考えるなら私たちは信仰生活について大きな誤解をしていることになるのです。

(3)神のみ業が自分を通して実現する喜び

 私たちはよく自分の願いごとが神様の力によってかなえられたとき、それは「うれしい」ことであり、「よろこぶべき」ことだと考えます。しかし、その場合、私たちと神様との関係は「私は主のはしためです」とか「しもべです」とは決して言えない関係になってしまう恐れを持っています。むしろ私たちがこのようなところに信仰生活の喜びの根拠を置くならば、「わたしは神様の主人で、神様は私のしもべです。神様は私の言うことを聞くべきです」と言う関係になってしまうからです。
 しかし、聖書はこのマリアの答えを私たちに伝えることを通して、私たちにとっての本当の喜びとは何かを教えようとしています。聖書が伝える私たちにとっての喜びは、私たちの願いごとが実現することではありません。そうではなく、神様がすでに語られてきた救いの計画が私たちの上に実現することこそが最大の喜びであると言っているのです。
 私たちの抱く願いは、私たちを決して幸せにするものではありません。たとえ一つの願いごとが実現したとしても、それが実現したときには既に光りを失ってしまうような誠に不確かなものなのです。しかし、神様の約束は違います。それは光を失うことがありません。もし、私たちのうちにその計画が実現するなら、その光はますます輝きでて、私たちを本当の喜びへと導くものなのです。そしてその約束はこのクリスマスの日にお生まれになったイエス・キリストを通して実現しました。マリアはその出来事を真っ先に体験することができる者として選ばれたのです。そのために天使は「おめでとう」、「よろこびなさい」と彼女に語りかけたのです。
 改革者として有名なマルチン・ルターのクリスマスのメッセージが収められた「クリスマスブック」と言う本が日本でも出版されています。私はこの本の中の「受胎告知」を説明する文章の中で、興味深い表現に出会いました。ルターもこの物語に登場するマリアの信仰を賞賛しています。「まことに彼女の信仰はすばらしいものだ」と言っているのです。ところがルターはこのように彼女の信仰を褒め称えながら、「だから彼女は神様によって造りかえられた人だ」と語るのです。神に変えられていなければ、こんな信仰を誰も告白することはできないとルターは考えているからです。そしてルターは、結局はマリアではなく、マリアをこのように変えてくださった神様がすばらしい方だと結論づけるのです。
 神を信じ、そのクリスマスを、喜びをもって迎えることができる。そのような信仰を神様は私たち一人一人に確かに与えてくださいました。そしてその信仰を通して、私たちの人生にイエス・キリストの救いが実現するようにしてくださっているのです。そのような意味で私たちもまたこの物語に登場するマリアと同じように、神の救いを実現する者として選ばれているのです。ですから「おめでとう」、「よろこびなさい」と言う天使の言葉は確かに私たちに向かっても語られていると考えることができるのです。

【お祈り】
天の神様
私たちを今日も待降節の礼拝に招いてくださりありがとうございます。マリアを通して私たちのために生まれた救い主イエス・キリストを褒め称えます。その希望の光は私たちの闇の世界を照らし、消えることなく、輝きを増し続けています。私たちもまた信仰をいただき、その光を受け継ぐ者とされました。私たちを通してあなたの計画がこの地上に現されることをマリアと同じように信仰を持って受け入れ、それを喜ぶ者としてください。
救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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