1.ベツレヘムの宿屋の主人たち
今朝はイエス・キリストの誕生の次第を告げるルカの福音書から学びます。このあまりにも有名な物語を今までたくさんの説教者が取り上げて説教をしています。今回それらの説教のいくつかを読んで、色々と考えさせられたり、学ばせられることがありました。しかし、ある説教者はあまりにも聖書本文のテキストの解釈に集中してしまっていて、返って聖書の本文が示そうとする豊かな味わいを奪ってしまうようなことをしているようなケースもありました。その点で先日紹介したマルチン・ルターのクリスマス説教集「クリスマスブック」は大変、素朴ですが、そこでルターの語るメッセージは明解であり、わかりやすいものだと思いました。ルターはこの説教の中で自分の想像力を豊かに働かせて、このクリスマスの出来事をその説教を聞いている人びとの身近に起こった出来事のように紹介しています。たとえば「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)と言う聖書の言葉を紹介しながら、彼は聴衆に問いかけます。「皆さんは、救い主を自分の家に泊める機会が与えられながらも、それを拒否した宿屋の主人たちを愚かで、憎むべき人々だと考えるかもしれない。しかし、もし皆さんが同じようにこのベツレヘムの宿屋で忙しく働く人であったとしたら、本当に「自分は彼らとは違う」と言い切れることができるでしょうか」と聴衆に語りかけながら、次のように彼は想像力を働かせます。
客で一杯に溢れる宿屋の中で、食事の準備や酔っぱらいの世話をするために懸命になっている彼らは、きっと宿屋の玄関に佇む貧しい二人の男女を顧みる余裕は無かったに違いないと…。
はたして私たちもこの宿屋の主人たちを非難できる立場にあるのでしょうか。私たちも同じように目の前に起こることで精一杯になって働いているのではないでしょうか。体は動かしていなくても、目の前に起こることで日々悩み続け「どうしたらいいのだろうか」と考えては、やはりそれらの事柄で心を一杯にして生きています。そんな私たちがベツレヘムの宿屋の主人たちとどこが違うのでしょうか。おそらく、私たちの誰もが「私は違います」とは胸を張って言えない、そんな信仰生活を送っているのではないでしょうか。
またある説教者はクリスマスの祝福のメッセージを私たちはこの過ぎ去った一年の中でどれだけ感じることができたかと聴衆に問うことで説教を始めています。「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」と言う天使がマリアに語ったメッセージはクリスマスの礼拝だけに当てはまる言葉ではありません。私たちの信仰生活全体に語られたメッセージなのです。しかし、私たちはやはりベツレヘムの宿屋の主人たちのように、この言葉を聞くことができません。むしろ、私たちの耳は私たちを思い煩いと悩みに陥れる言葉によって占領されてしまっていたのではないでしょうか。それが私たちの現実です。しかし、キリストの救いはこの私たちの現実に向かって豊かに働くことを、私たちはこの聖書の語るクリスマスの物語から心に刻みたいのです。
2.ローマ皇帝と真の王イエス・キリスト
(1)人間の歴史の中に確かに存在されたイエス
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」(1〜2節)。
当時の地中海世界を支配するローマ帝国の皇帝とその臣下であるシリア州の総督の名前がここに登場します。この記述には二つの意味合いが隠されていると思います。一つはここに記されるイエス・キリストの誕生が人間の歴史の上に起こった確かな出来事であると言うことを証明するためです。この世にはたくさんの宗教が存在します。その多くは人間がどのように生きるべきか、大切な真理を伝えようとしています。しかし、そのような宗教の場合、大切なのはそこで語られている教えであり、その教えを最初に発見した人物は確かに偉大ではありますが、その人が実際に存在した人物かどうかを証明する必要はなにと言えます。その教えが人間の生活に役に立つなら、それでいいからです。
ところがキリスト教はそのような教えを説く宗教ではありません。イエス・キリストが確かにこの地上に生まれ、生き、十字架にかかられたこと、また復活されたこと、その全てを含めて、確かに私たち人間の歴史に起こった真実であることが確かでなければ私たちの信仰は意味がなくなってしまうのです。なぜなら、私たちの救いは私たち自身がキリストの教えに従って勝ち取るものでなく、キリストご自身が私たちのために勝ち取ってくださったものを受けるものだからです。キリストがこの世界の歴史の中に存在していなければ、私たちの救いは成立しないのです。ですからルカはこの救いの確かさを語るために、イエスが人間の歴史の中に確かに生まれたこと、存在したことをここで語っているのです。
(2)この世の王と真の王の使命の違い
そして私たちがこのルカの記述から学び得る第二の点は真の王である主イエス・キリストの使命と地上の王たちの使命が大きく違うと言う点です。マルチン・ルターは先ほどの「クリスマスブック」の最初の部分でこのことにふれています。イエス・キリストがベツレヘムで誕生する理由となった訳はここに記されているようにローマ皇帝の命令の結果でした。人口調査の目的はいろいろあったと思いますが、その最大の理由はローマの支配下にある地域に住む人々の上に、隅々までその支配が徹底されるためにであったと思われます。そしてイエス・キリストの誕生はこのローマの支配に彼が従順に従われた結果、起こったとルターは強調しているのです。いえ、誕生のときだけではなく、イエス・キリストはその生涯にわたって、この世の権力に従順に従いました、それらの権力を自分のものにしようとは一度も思われなかったのです。ルターはその理由を「イエスの使命とこの世の支配者の使命は全く違うからだ」と説明しています。
変なたとえになるかもしれません。あなたがラーメン屋を経営していると考えてみてください。そしてある日、自分の経営するラーメン店の隣に新しいお店ができることがわかりました。もし、その新しく出来るお店が洋服屋であったとしたら、あなたは「もしかしたら、洋服を買いに来た人が、帰りに自分の店によってラーメンを食べてくれるかもしれない」と考え、そのお店ができることを歓迎するかもしれません。しかし、もし隣にできるお店が自分の店と同じラーメン店であったとしたらどうでしょうか。たぶん、あなたは不安になるかもしれません。「これから自分の店はどうなってしまうだろうか。となりの店はどんなラーメンを出すのだろうか」とあなたは考え始めるはずです。二つの店が互いに競合することになるからです。
こう考えてみると、私たちがいらぬ心配から解放されるためには、自分の人生に与えられた固有の使命を自覚することが大切であると言うことがわかります。神様は私たち一人一人にその人にしかできない固有の使命を与えてくださっています。しかし、もしそのことを私たちがよく理解していなかったとしたら、誰が自分の隣にやってきても心穏やかではありません。その隣人によって自分の平和な暮らしが脅かされるのではないかと不安になるのです。しかし、キリストは自分に与えられた固有の使命を知っておられために、地上の権力に喜んで従われたとルターは説明しています。
3.主イエスが私たちと共にいること
(1)平凡でありながら、特別な存在
しかし、私たちがこの箇所で注目したいのはここに登場するヨセフとマリアの二人の人物と救い主イエス・キリストとの関係です。二人はこの物語の中ではある意味で特別な存在でした。一方では何の地位も持たない貧しい庶民の一人として彼らは生活し、行動しなければなりませんでした。その意味では彼らにとって支配者であるローマ皇帝の命令は絶対でした。どんなことがあっても彼らは従わなければなりませんでした。しかし、彼らはもう一方でやがて生まれて来る子供が神の子であり、約束された救い主であることを天使からすでに知らされていました。そのような意味で、彼らはこのベツレヘムの町に集まった人々の誰とも違った特別な存在であったと言えるのです。
この点でこの二人の存在はここに集っている私たちキリスト者と似ていると考えることができます。私たちもまた、この地上の世界に生きています。その意味で、私たちはこの地上で起こる出来事と全く無関係に生きることはできません。むしろ、その出来事に支配されながら生きています。毎朝、新聞を開けば、昨日起こったたくさんの事件がそこには紹介されています。私たちはその記事を読みながら、「もしかしたら同じようなことが私たちの生活の上にも起こるかもしれない」と不安になります。政府が国家の膨大な赤字を埋め合わせるために国民のための社会保障制度を縮小し、その反対に納税額を増やす記事を読めば、「自分たちの生活はこれからどうなるのだろうか」と不安になります。この点では私たちは一人の平凡な庶民でしかなにのです。
しかし、もう一方では私たちは私たちが信じる方がどのような方であるかを知っています。天地の創造主であり、この世界と私たち一人一人の命を支配される方が私たちの主であることを、そしてその主がこのクリスマスに私たちのためにこの地上に来てくださったと言うことを知っているのです。私たちはこの点で、ヨセフとマリアと同じように平凡でありながらも特別な存在として生きているのです。
(2)主イエスに導かれてベツレヘムに
「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」(4〜5節)。
ヨセフの家はダビデ王の家系に属していました。バビロン捕囚から帰還後、ダビデの一族に属した人々はこのベツレヘムの町に住んだと言われています。私の実家の近所で「櫻井さんの家はどこですか」と尋ねたら、たぶん尋ねる人も答える人も困ってしまう現象がおこるかもしれません。なぜなら私の家の近所には「櫻井」と言う名前の表札を掲げている家がたくさんあるからです。もしかしたら、櫻井姓の人たちの先祖をたどれば皆同じ人物に行き当たるのかもしれません。ベツレヘムの町はヨセフにとってそのような町であったのです。
ヨセフは人口調査のためにナザレの村からこのベツレヘムに行かなければなりませんでした。それは時間と負担のかかる、旅となりました。ある説教者はここでマリアがヨセフに同行した理由について関心を傾けています。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」と、この新共同訳の文章ではマリアもヨセフと同じように登録するためにベツレヘムに行く必要があったと読み取れる文章になっています。ところがギリシャ語原文ではここは「ヨセフは登録するためにベツレヘムに出かけた。その際彼は身ごもっていた、いいなずけマリアを伴って出発した」と理解すべきだと言うのです。つまり、人口調査のためにベツレヘムに登録をしに行く必要があったのはヨセフだけであり、彼がマリアの分もそこで登録すれば、わざわざマリアも一緒に旅につれて行く必要はなかったと言うのです。ですから、マリアが身重の体でわざわざこの旅に同行したのには、ローマ皇帝の命令以外の何かがあったはずだと推測するのです。
マリアにとっては住み慣れた故郷の土地で出産することのほうが本来、よほど安心であったはずです。ところが彼女にはそれができない事情があったと言うのです。まだ婚約期間でしかないマリアの不自然な妊娠しました。それは狭い町の人々の評判になっていたはずです。興味本位にマリアの変化を眺める人々、また、彼女の行動を批判する人々が彼女の周りにはいたのかもしれません。ヨセフはそんなところにマリアを一人で置いていく訳にはいかず、身重のマリアがいつ産気づくかもしれない危険を覚悟でベツレヘムの町に彼女を伴わざるを得なかった、そんな事情がこの聖書の箇所から読み取れると言うのです。
ヨセフとマリアはこの世の支配者の権威に何の抵抗もできずに従わざるを得なかった平凡な庶民です。そして彼らもまた、悩みや、問題を数々抱える平凡な人間の一人でしかなかったのです。「この問題をどうしたらいいのだろうか」と右往左往しながら、自分の悩みで心をいっぱいにしてしまう人間の一人として、彼ら二人はベツレヘムに出発したのです。その点ではベツレヘムで彼らの宿泊を断った、宿屋の主人たちと全く同じような人間でしかないのです。
しかし、彼らには違う点があります。彼らは平凡な人間でありながらも、確かに特別な存在とされています。なぜなら主イエス・キリストが彼らと共におられたからです。彼らは確かにこの世の支配者の権威に、そしてさまざまな問題に影響されて生きなければなりませんでした。しかし、彼らと共にあるイエスは歴史の主でもある方です。そしてこれらすべての事情を用いて、神様の聖なる計画を実現することができる方なのです。その証拠に救い主はベツレヘムでお生まれになると言う聖書の約束がここで実現しています。イエス・キリストはヨハネとマリアのこの世での立場も、そしてその抱えている問題も含めて、そのすべてを用いて神様の約束を実現してくださったのです。
クリスマスのメッセージを聞く私たちもこのことを覚えるべきではないでしょうか。最初に言ったように、私たちもまたベツレヘムの宿屋の主人のように、目の前に起こる出来事に精一杯となって、救い主の存在さえ忘れてしまうような愚かな者たちです。しかし、同時に私たちはイエス・キリストを信じる特別な存在とされています。そのイエスは、私たちの置かれている立場、問題、そして悩みのすべてを用いて私たちを約束のベツレヘムへと導かれる方なのです。私たちの人生の上に神様の聖なる約束に基づいた計画を実現してくださる方なのです。そしてこのイエスが私たちのためにクリスマスの日に与えられたからこそ、天使は「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共にいます」と言う祝福の言葉を私たちにも語ってくださっているのです
【祈り】
天の父なる神様
御子イエスをこの地上に遣わしてくださり、その支配を私たちの世界に、そして私たちの人生に実現したくださった救いの御業に感謝いたします。私たちはいつも忘れてしまいます。イエス・キリストは私たちの世界と人生に起こるすべてのことを支配して、それを用い、神様の約束を必ず実現してくださることを。このイエスが私たちと共にいてくださる幸いを何よりも喜ぶ者とさせてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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