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礼拝説教 桜井良一牧師
新しい年を主イエスと共に

(2007.01.14)

聖書箇所:ヨハネによる福音書2章1〜11節

1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

1.最初のしるし
(1)カナの婚礼

 私の故郷の茨城県南部ではテレビなどの放送で今では全国的に有名になった習慣があります。それは七五三の子供の祝いに大金をかけて盛大に行うと言う習慣です。私の家もその地域としては非常に質素な方でしたが、普段は結婚が行われる式場を借りて、隣近所、親戚一同を招待して、子供たちのお祝いをしたことがあります。そのとき式場の人に聞いたのですが、このお祝いは子供たちのためのものと言うより、たくさんの人に祝福されながら結婚した新しい夫婦が、無事に子供たちも与えられ、平和な家庭を営むことができていると言う報告と感謝を込めた儀式だと言うのです。なるほど、この式に招待される人はかつて結婚式に招待された人たちとほとんど同じメンバーです。そうなるとこの式は結婚式の披露宴を何年かたって再開するようなものであると考えていいのかもしれません。

 今日の箇所は有名なカナの婚礼の物語を取り上げる箇所です。当時のイスラエルの社会でも結婚式は大変に盛大に執り行われるもので、短くて3日、長くて1週間も祝宴が続くことがあったと言われています。

 今日はこの物語の中でとくに疑問に思う部分をいくつか取り上げながら、このお話を学んでみたいと思います。一番最初はこのカナの婚礼の席上でイエスが最初のしるしをなされたと言う点です。実は他の福音書にはこのカナの婚礼の物語は記されていません。興味深い教会の伝承によれば、このカナの結婚式の新郎はこの福音書を記した当人ゼベダイの子ヨハネであったと言うものがあるのです。そうなるとヨハネは特に自分とイエスの関係を結びつける思い出深い出来事をこの福音書の最初に記したと言うことになるわけです。しかし、それよりも重要なことは福音記者ヨハネは他の福音書の記者が「大いなる業」と呼んだイエスのなされた数々の奇跡を「しるし」と言う特別な言葉で呼んでいる点です

(2)弟子たちだけが信じた

 子供の頃に読んだ推理小説の少年探偵団では、小林少年が怪人二十面相に誘拐されてしまったとき、小林少年はそこにわざと少年探偵団のバッチを落としていきます。するとそれを見た少年探偵団の仲間や名探偵明智小五郎は「小林少年が二十面相に連れ去られた」と言うこと理解するのです。他の人にはわかりませんが、特定の人に隠されたメッセージを知らせるものです。この点で今日のこのお話の最後の結論に私たちは注意を傾ける必要があります。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。

 この結婚式にはたくさんの人々が出席していました。新郎新婦と彼らの親戚、またカナの村に住む人々で式場はあふれていたはずです。ところがイエスがなされたしるしを見て、イエスを信じたのは弟子たちだけだったと聖書は語るのです。ヨハネの福音書がこの後になってたびたび取り上げるのは、「イエスが救い主であると言う証拠を見せてみろ」と迫る群衆の姿です。彼らはイエスが「自分は神様のもとから遣わされた」と証言してもそれを信じることができません。そこで彼らはその根拠になる奇跡を行って証明してみろと要求したのです。イエスはこの群衆の要求に非常に冷淡に答えています。そしてその理由をこのヨハネの福音書は最初の部分から記しているのです。イエスのなされる奇跡を見たり、体験したとしても、誰もがイエスを信じる訳ではないと言うのです。なぜならイエスの奇跡は「しるし」であって、特別の人にしかその意味がわからないようにされているからだと語ります
 それではそのしるしを理解できる特別の人とはどういう人なのでしょうか。イエスによって召し出されて彼の弟子とされ人々です。つまり、イエスが選ばれた人にのみ、このしるしの意味は理解されると考えてよいでしょう。このことを別の言葉で言えば、私たちはイエスのしるしを見て、イエスを信じて弟子とされたのではなく、弟子とされたからこそ、イエスのしるしを見て信じることができたと言ってよいのです。ですから、私たちの信仰生活の出発点は「私がイエスを信じた」と言うことではなく、「イエスが私を選んでくださって弟子としてくださった」と言うイエスのなされた恵みのみ業がいつでも先になるのです。私たちはイエスによって選ばれ、その弟子とされました。だから今、このようにイエスを信じ、彼に従うことができているのです。この恵みの事実を私たちはいつも忘れてはいけないのだと思います。

2.隠されたイエスのみ業によって

 このことと関係して私たちが気をつけたい第二の留意点は、このしるしがイエスの指示に従って実現したと言うことです。

 「イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った」(7~8節)。

 結婚式の祝宴にはなくてはならないぶどう酒がなくなってしまいました。それを知ったイエスは召使いたちに指示を出します。「水がめに水をいっぱいに入れなさい」。この水瓶は80から100リッターくらい水が入る相当大きな器です。「それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」と続けてイエスは召使いたちに語ります。ところが水がいつぶどう酒に変わったのか、はっきりわかりません。確かに召し使いからそれを受け取った宴会の世話役は「ぶどう酒に変わった水の味見をした」と書かれ、確かに彼はそれがぶどう酒であること、しかもそれは水で薄められたぶどう酒ではなく、上等なぶどう酒であることを確認しているのです。
 「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで…」。そこに居合わせた人の大半はそのぶどう酒がどこから来たのか知らなかったと聖書は語ります。もしかしたら、このぶどう酒の出所について少し疑問に思った者もいるかもしれません。しかし、彼らは大半は相変わらず祝宴を続け、そのぶどう酒を味わったと言うのです。
 人の目から見たら当たり前のように結婚式は進んで行きました。多くの人はそこにイエスのみ業が働いて、この結婚式の危機が救われたことを理解していないのです。これはある意味で私たちの生活の姿を現しているのかもしれません。私たちも毎日当たり前のような生活を送っていると考えています。そして自分たちの努力で、この生活が続いているのだとも考えます。しかし、私たちの主イエスは、私たちの目には見えないところで私たちが直面しようとする危機を察知し、そこから救い出してくださっているのです。そして、その事実を知ることができるのは、イエスのしるしを理解することを許されている私たち、イエスの弟子たちなのです。
 そして私たちのこの一年の歩みもこのイエス・キリストによって支えられ、導かれることを私たちは信じます。だからこそ私たちは希望を持って、その一歩を歩みだすことができるのです。

3.父なる神の計画に信頼する
(1)特別な存在であったマリア

 第三の留意点は、この箇所を読む多くの人が必ず疑問を抱く、イエスとその母マリアとの会話の部分です。
 「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」」(3~4節)。
 イエス・キリストを人間の生きるべき正しい倫理を教える教師と考えている人はたくさんいます。そのような人々はイエスが時々語られる、家族との関係を示す言葉に首を捻ることがあるのではないでしょうか。ここでもそんな問題を投げかけるような発言が記されています。
 先ほど教会の伝承の話にふれましたが、その伝承にはここに登場するマリアについてもおもしろい言い伝えを残しています。どうしてマリアがこの結婚式にいたのか。当時の結婚式では招待客のほとんどは男性で女性はその準備や世話をするために集まっていたと考えることができます。しかし、ここでのマリアは結婚式のために準備したぶどう酒がなくなってしまったことを心配する、かなり責任ある立場にあったことがわかります。つまりマリアは単に頼まれてこの結婚式のお世話をするだけにやってきたのではなく、彼女は結婚式が無事に行われることを心配をするような立場にあったのです。しかもこの後で、その家の召使いたちにマリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったと語られています。そしてその家の召使いたちはこのマリアの命令に文句を言わずに聞き従っているのです。このような事情からマリアはこの結婚式の当事者家族とかなり深い関係があった者と考えることができるのです。そこからこの結婚式を挙げている家とマリアは親族であったと推測されているのです。ですから教会の伝承ではこのマリアとゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟の母親は姉妹であったと言うものがあるのです。確かにこの伝承を裏付ける根拠は聖書の中には見いだすことができませんが、マリアが特別な関係をこの家の人々と持っていたことはうなずけるのです。

(2)父なる神の計画に従う行動

 そのマリアが結婚式を心配して「ぶどう酒がなくなりました」と息子のイエスに相談しました。この相談の意図もいろいろ解釈が分かれるところがあります。ある人はイエスとその弟子たちに「もう少し遠慮するように」とマリアはたしなめていると言っています。また、ある人はぶどう酒がなくなってしまっても、招待客の心が祝福に満たされるような神様についてのお話をしてほしいとイエスに願ったと解釈しています。なぜなら、この福音書が語るようにこの奇跡はイエスの行われた最初のしるしであって、これ以前にマリアはイエスの特別な力を体験してはいないからです。そんな彼女がイエスに何かの不思議な業を願ったと言うのは不自然だと考えるのです。
 いずれにしても、マリアはこの結婚式が無事に進められるようにイエスに相談したことは確かなことです。ところがこの言葉にイエスは意外な答えを語っています。

「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。

 この「婦人」と言う言葉には相手を見下げる態度は含まれていません。ごく一般的な呼び方として用いられる言葉です。しかし、この言葉を当時の人々は自分の母親に向けることはなかったと言われています。まさに、この言葉はイエスの母マリアにとって他人行儀な言葉だったと考えることができます。さらに「わたしとどんなかかわりがあるのです」と言う言葉はこの結婚式のことを心配しているマリアに対してあまりにも無関心な冷たい態度をイエスが示したようにも思えます。
 このイエスの言葉の謎を解く鍵は最後の「わたしの時はまだ来ていません」と言う言葉に隠されています。ヨハネの福音書はこの「とき」をイエスの受難と復活、そしてイエスが父なる神様から栄光を受けられるときを示すときに用いています。つまり、父なる神様が救いのために立てられた計画に定められた「とき」とはまだ今ではないと言う意味の言葉をイエスは語ったと言えるのです。
 この言葉から考えるときイエスの救い主としての行動はいつも神様の立てられた救いの計画に従って実行されていることがわかります。そして他の何者の意見もその計画に介入することはできないのです。そう考えるとイエスはこのときマリアの息子としての発言ではなく、救い主として自分がどのような原理に基づいて行動しているかを明らかにしたと言うことになります。ただ、興味深いのはこのような言葉で「自分は一切この事柄に関係ない」と言われているようなイエスに母マリアは腹を立てるのではなく、「この人の言う通りにしてください」と使用人たちに指示を与えていることです。マリアはこんな言葉を聞いてもと言うより、この言葉によってイエスへの堅い信頼を表明していると言えるのです。
 その上で、イエスはここで水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われています。しかし、それは人間の立てた計画に従ってではなく、神の計画によってなされたことを先ほどイエスの発言は明らかにしているのです。この結婚式のために新郎新婦もまたその家族や親類も滞りなく式が終わるように計画を立てことでしょう。しかし、その計画は祝宴の際に大切なぶどう酒がなくなってしまうというアクシデントに見舞われ、失敗に終わるかもしれない危機に遭遇します。このように人間の立てる計画はどんなに緻密に準備されたとしても万全ではありません。
 しかし、マリアはイエスがそのような人間の立てた計画に従って行動するのではなく、父なる神の立てられた計画に従って行動されていることを知り、そこに信頼したのです。なぜならそこにこそ私たちの人生にとって最善の祝福が準備されているからです。
 ハイデルベルク信仰問答の問26には「「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と唱える時、あなたは何を信じているのですか」と言う問いに答えて、次のような美しい文章を記しています。「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理によって今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、ということです。
 わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なすべてを私に備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いをくだされたとしても、それらをわたしの益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでおられるからです」。
 私たちの主イエスがこの父なる神の計画に従って行動されていると言うことはどんなにすばらしいことでしょうか。だからこそ私たちはこの方に信頼して、新しい一年の信仰の歩みを始めることができるのではないでしょうか。

【祈祷】
天の父なる神様
新しい年の歩みを始めながら、再び私達の信仰生活と人生を導かれる主イエスのみ業を聖書の物語を通して示してくださったことを感謝致します。あなたが弟子としてくださったからこそ、私達は聖霊の力によって日々と私達の生活があなたによって守られていることを知らされます。また、あなたが私達のために立ててくださった最善の計画を持って私達を導いてくださることを確信します。マリアと同じように私達もあなたに信頼して生きることができるようにしてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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