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礼拝説教 桜井良一牧師
あなたは幸せ

(2007.02.11)

聖書箇所:ルカによる福音書6章17〜26節

17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

1.「幸いなあなたたち」とは誰か
(1)「みなさん」ではなく「あなた」

 先日、ラジオで伝道のための番組を作っているメディアミニストリーから珍しく一通のメールが送られてきました。メールの内容は今まで一週間分の番組録音のために5本の原稿を準備していたところを、一本増やして6本の原稿を作ってほしいということでした。今まで木曜日だけはリクエストの讃美歌を放送していたのですが、著作権か何かの関係でそれが難しくなって、木曜日も聖書のメッセージを放送することになったからです。実はメールにはそれにさらに付け加えて一つの録音の際の注意が記されていました。そこには録音をする担当者がラジオの前の人々に「みなさんは」と呼びかけるのではなく、「あなたは」と呼びかけてほしいという指示が書かれていたのです。
 普通、ラジオを聞くリスナーは一人でこの放送を聞いています。そのリスナーにメッセンジャーはこれから「みなさんは」と呼びかけるのではなく、「あなたは」と呼びかけてほしいと言うのです。なるほど、「みなさん」と聞けばそこには確かに自分も含まれると聞こえますが、ときには自分ではなく他の誰かにこの話は語られているのだと聞いてしまうことが可能性があります。しかし、メッセンジャーが「あなたは」と語りかけられたら確かにこのメッセージは自分に対して語られているものだと考え、そのメッセージを真剣に聞く機会が生まれるかもしれません。聖書の話を聞いて「これをあの人に聞かせてあげたい」と思われることも確かによいかもしれません。しかし、最も大切なのはこのメッセージは今の自分に語られている、そう思って聞くことです。そのためにメッセンジャーが放送で「あなたは」と呼びかけることは福音を伝える側の大切な姿勢の一つと考えることもできるのです。

(2)マタイによる福音書との相違点

 今日の聖書の箇所はマタイによる福音書の有名な「山上の説教」(マタイ5章1〜12節)と呼ばれている部分とたいへん似通ったメッセージがイエスの口から語られている部分です。しかし、二つの箇所は似てはいますが、読んで見るといくつかの点でマタイの記述と違っている点があることが分かります。第一はこの説教がイエスによって語れた場所、その舞台です。マタイでは「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(1〜2節)とその場所は「山に登られた」ところ、つまり山の上であったことが示唆されています。ところが今日のルカの記述では「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」(17節)と語っているように、山から下りて「平らな所」つまり平地で語られたことになっています。それでこのルカの記述するイエスのお話を普通、「平地、平野の説教」と呼んで、マタイの「山上の説教」と区別することがあるのです。恩寵教会の前の牧師だった榊原康夫先生の説教集ではこの違いは語る人の視点から異なった記述が生まれたものであって、語られた場所は同じであり、二つの説教は同一のイエスのお話を伝えているものだと説明しています。そして、むしろ注目すべきなのはこの同じ説教の内容をそれぞれの福音記者が異なった視点で伝えているところにあると語っているのです。
 そのような意味でこの説教の内容に注目してみますと、マタイはそこで「八つの幸い」について語っているのに、ルカになるとその幸いは四つに減っています。そしてそれとは逆にルカはイエスの語った四つの「不幸」についての説明を付け足しているのです。
 更に、二つの福音書の記述でもっと違う点があります。それはマタイの場合はたとえば「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」と幸いな人を「彼ら」という不特定な人々を指す言葉で呼んでいます。ところがこのルカの記事では「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」と「あなたがた」と言う特定の人に語られている形になっているのです。

(3)「あなたたち」とは

 それではここでイエスが、あるいはこのメッセージを書き記したルカの福音書が「あなたたち」と呼んでいる相手とは具体的に誰について言っているのでしょうか。それは大きく分けて三種類の人を考えることができると思います。第一は聖書に「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」と書かれている通り、このときイエスの周りに付き従っていた「弟子たち」のことだと考えられます。このときイエスの周りには十二弟子だけではなくもっとたくさんの弟子が付き従い、このイエスの話に耳を傾けていたことがわかります。また第二に、この「あなたたち」を福音記者ルカの観点から考えるなら、この福音書を書き送った最初の読者たちと考えることができます。ルカはその読者たちが抱える問題をあらかじめに考慮に入れながらこの福音書を記したと考えられるからです。おそらく、この福音書を最初に読んだ人々はキリストの福音を受ける入れることによって起こった、迫害や、困難の中に生きていたと考えることができます。つまり、彼らはイエスを信じたために実際に今、「貧しくされ」、「飢え」、「涙を流し」、「人々に憎まれる」状況にあったと思われる人たちなのです。ルカはそのような困難な状態に置かれている読者がどんなに「幸い」であるかを伝えるためにこのイエスの言葉をこの福音書に収録したと考えることができるのです。
 そして第三の「あなたたち」とは今、この聖書を読んでいる私たちのことだと言うことができます。なぜなら、神様の言葉はいつもその言葉に真剣に耳を傾ける者の上に働きかけ、聖霊の働きによって実際にそこに記された約束が実現されるようになるからです。いずれにしても、この三つの「あなたたち」に共通することは、そのすべての人が今、イエスを信じ、イエスの語る言葉に従って生きようとする「弟子」とされていることです。そのような意味で、ここで語られている「幸いなあなたたち」とはイエスを信じ、弟子とされたすべての人々を指していると言っていいのかもしれません。

2.預言者と偽預言者
(2)真の預言者の使命

 さてこのルカの福音書では、イエスによって四つの「幸い」、四つの「不幸」が語られています。このように同じような言葉の並べ方で繰り返される形式を持った文章は、当時のユダヤ人たちが大切にした格言集によく用いられる文章表現であったと言えます。そしてこのような表現形式では、その文章の最後の箇条に語られる内容が最も大切な結論を語っていると考えられるのです。つまりこのイエスの言葉では最初の「幸い」の部分では四つ目の「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」(22〜23節)と言う文章ですし、更に後半の四つの「不幸」の部分では最後の「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」(26節)という文章が最も大切な結論を語っていると考えることができるのです。
 この最後の箇条では両者とも「預言者」と「偽預言者」と言う言葉が登場しています。つまり、イエスが語られる「幸い」と「不幸」の違いは預言者と偽預言者の違いを考えればよくわかると言っているように聞こえるのです。それでは預言者と偽預言者はいったいどのように違うのでしょうか。
 まず、預言者のことを考えてみましょう。預言者の使命は神のメッセージを人々に忠実に伝えると言うところにあります。その点で、ときには罪を犯し続ける人々に、神の厳粛な裁きを告げることも預言者はしなければなりませんでした。「こんな言葉を語ったら人々は喜ばない」と思えるようなメッセージを彼らは人々に伝えなければならなかったのです。つまり、神の言葉であるならばそれがたとえどのようなものであったとしてもそれを忠実に伝えると言う使命が預言者たちには与えられていたのです。
 先日学んだイエスの言葉で「預言者は故郷では歓迎されないものだ」と言うものがありましたが、この言葉も預言者の使命と故郷の人々の期待との食い違いがあったことを説明するものなのです。このように真の預言者たちは神の言葉であるならば、ときには人々の期待、あるいは自分自身が抱いている期待に反したメッセージを語らなければなりませんでした。だからこそ彼らはそのために「貧しくされ」たり、「飢え」たり、「涙を流さ」ざるを得ず、「人々に憎まれる」と言うことが起こったのです。この預言者のことを考えるとイエスの語られる「幸いな人」とは神のために生き、神から与えられた使命を全うしようとする人たちであることが分かります。

(2)偽預言者の関心事

 一方の偽預言者はどうでしょうか。実は彼らは神様の言葉を人々に語っているように見えましたが、実はそうではありませんでした。いつも、彼らのメッセージはそれを聞く人々の気持ちがよくなるような言葉が選ばれ、それを語る自分が人々から受け入れられ、重んじられることが目的であり、彼らの最大の関心事であったのです。つまり、彼らは神のために生きるのではなく、自分が「富むこと」、「満腹すること」、「笑うこと」、「ほめられる」ことが目的で生きている人々だったのです。
 だからこそ、彼らはその報いをすでに受けてしまっているとイエスはここで語っているのです。そして「富むこと」、「満腹すること」、「笑うこと」自体は、それを確かに一時的には手に入れたとしても決して永続的につづくものではありません。必ず、それを失うときがやってきます。ですから、それが失われるときがやってこないかと不安を持って生きなければならなくなります。偽預言者たちは人々の関心に答えるために心を砕き、同時にその人々の心が自分から離れていきはしないかと言う不安を抱いて生きなければなりません。これでは決して本当の「幸せ」を得られたとは言えませんし、実際に彼らは「不幸」な生涯を送らなければなりません。
 預言者の場合は「富む」ことや「貧しくなること」に目的があるのではありません。ですからその目的が実現できるなら「富む」ことも「貧しさ」もどちらにしても「幸せ」な状態を得ることができます。昔、アカデミー賞を受賞した映画「炎のランナー」の主人公は「自分は金メダルを取るために走るのではない。走ること自体が楽しいから走る」と語りました。そのような意味でここに語られている幸いな人とはイエスを信じ、イエスに従うことを何よりも喜びと感じる人に与えられる「幸い」だと言えるのです。

3.幸せは誰が実現できるか

 誰もが「幸せなになりたい」と考えて生きています。しかし、人々はそのために一生懸命になって生きているのにそれが実現できないのはどうしてなのでしょうか。アウグスチヌスはこのような人を、行き先を見失ったまま、走り続ける人のようだと語ったと言います。つまり、彼らは一生懸命になって、走っているのですが、走れば走るほどますます目標からは遠ざかって行ってしまうのです。イエスは今日の言葉の中で「神の国はあなたのもの」、「天には大きな報いがある」と言う言葉を語られています。つまり、イエスは幸せを目指して走る人が向かうべき目標はそこにあると言っているのです。
 しかし、「神の国」、「天の報い」とは決して、私たちが死んだ後に受ける祝福を語っているのではありません。神の国も天の報いもいずれも神様と私たちとの深い関係を語る言葉です。つまり神様が私たちと共に生きてくださることが「神の国」、「天の報い」で実現するのです。
  宗教改革者のカルヴァンは、自分が牧会する教会員の教育のために記したジュネーブ教会信仰問答書の問4に「人間の最上の幸福とは何ですか」と言う問いを記しています。そしてその答えはこの問答書の問1の答えと同じだと言っているのです。問1には「人生の主な目的とは何ですか」と言う問いが記され、それに答えて「神を知ることであります」と言う答えが書かれています。つまり、カルヴァンは人間の最上の幸福は「神を知ること」だと言っているのです。この場合の「知る」と言う言葉は単なる知識を意味する言葉ではなく、人間の経験全体を通して知る知識を語っています。ですからやはりこの答えも「神様と一緒に生きること」とを意味していると言ってよいのです。
 このように私たちの「幸せ」とは私たちが神様と共に生きることにあると考えるなら、イエスがあなた方は「幸せ」とここで大胆に語る理由も理解できるのではないでしょうか。なぜなら、イエスは私たちが神様と共に生きることができるようになるためにこの地上に来てくださった救い主だからです。そして、私たちはこの救い主のみ業を通して、初めて「神の国」と「天の報い」を自分のものとすることがでるのです。つまり真の「幸い」は私たちが自分たちの力や努力で得られるものではありません。このイエスがその命をかけて私たちに与えてくださるものなのです。ですから、ここで語られている「あなたたち」とは紛れもなく、そのイエスの救いを与えられた私たちであると言うことができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様 私達が本当の幸いを得るために救い主イエス・キリストを遣わし、あなたと共に生きる祝福を与えてくださったことを感謝いたします。私達の人生には様々な出来事が起ります。しかし、あなたは主イエスによってその出来事の中で私達を導き、祝福を与えてくださいます。そのことを知り、私達も預言者と同じように、様々な場所は人々にあなたのメッセージを忠実に伝えることができるようにしてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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