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礼拝説教 桜井良一牧師
「今が悔い改めのチャンス」

(2007.03.11)

聖書箇所:ルカによる福音書13章1〜9節

1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5  決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
9  そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

1.自分と世界の間にある心の境界線
(1) 心病む兄

 もうかなり前の話しです。私が高校の時にお世話になった部活の先輩と久しぶりにお会いする機会がありました。その方、私が「今、牧師をしている」と言うと、「お互い色々な苦労をしてきたのだね…」と言いながら、こんなご自分の身の上話をされたのです。
 その方には一人のお兄さんがおられます。たいへん元気なお兄さんで高校を卒業され、自衛隊に入隊されました。ところがその自衛隊でしごきか何かにあわれたからなのでしょうか。お兄さんは心を病んでしまいました。それで、自衛隊を辞めて家に帰って来られて、結局、家族がそのお兄さんの面倒を見るようになったと言うのです。
 その方が言うには、そのお兄さんはテレビや新聞で戦争や事故のニュースを知ると、そのたびに「自分が悪いのだ」と心を痛め、「自分が何とかしなければ」と言い出して家族を困らせると言うのです。統合失調症と言う病の特徴は、自分と周りの世界の境界線が無くなってしまうことだと言う説明を聞いたことがあります。ですからこのお兄さんにとっては、世界で起こることすべての出来事が自分と深く関係してくるように思えて、じっとしてはいられなくなるのです。

(2) 自分には関係ない

 私たちはまさかテレビやニュースが伝える世界で起こる悲惨な出来事を見ても、「自分のせいだ」とか、「自分が何とかしなければ」とは思わないはずです。確かにその出来事に心を痛めたり、自分もそんな災害に遭わないように気をつけようとせいぜい、考えるくらいのものです。それはどうしてかと言えば、私たちの場合、自分と周りの世界との間にはっきりとした心の境界線を持っているからです。ここから内側は自分の問題、そしてその外側は私とは何の関係もないと領域と考えることができる、それが私たちの通常持っている、心の状態です。
 だから、たとえ目の前で悲惨な事故を目撃しても、そのことで私たちは一時的なショックを受けることはありますが、ひどく「自分が悪かった」とか、「何とかしなければ」と言った責任感を自分に引き受けることがありません。ところがそれが自分の身内の問題になると、今度は別になります。なぜならその当事者は私の心の境界線の内側に関係してくる人物だからです。
 今日の箇所では不幸な出来事、悲惨な出来事に遭遇して命を落とした人たちの問題が取り上げられています。この出来事を聞いた何人かの人がイエスのもとにそれを報告しに来たと言うのです。もちろん、彼らはこの悲惨な出来事の被害者の身内や仲間ではなかったのかもしれません。もしかしたら、彼らはこの出来事を自分の心の境界線の外に起こった出来事として考えていたのかもしれません。しかし、この報告を聞いたイエスは「あなたがたも」と言う言葉を使って、この出来事を他人事としか思わない人々に警告を発しています。イエスはどうしてこんな警告を語られたのでしょうか。

1.災難の理由はあるのか
(1) 神は何をしておられるのか

 牧師をしていてよく受ける質問の中に「神様がおられるとしたら、どうしてこんな事件が起こるのでしょうか」と言うものがあります。おそらく、皆さんも今までそのような質問を受けられたり、また自分自身でも考えられたことがあるかもしれません。ここには私たちも一度は考えたことのあるような話題が取り上げられています。

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」(1節)。

 ここに登場するのはイエスを裁判にかけ、十字架刑を宣告したローマ帝国の役人ピラトの名前です。彼はイエスの裁判においてはユダヤ人を恐れて、イエスを有罪にせざるを得ない立場に立たされました。そのことから私たちはピラトに対して何か気弱そうな印象を抱きがちです。しかし、他の歴史書の記録によれば、ピラトは大変評判のよくない役人であったようです。人々から賄賂を公然と要求し、自分に従わない者に対して理不尽とも言える仕打ちをした人物であったようなのです。
 ここではピラトが「ガリラヤ人の血を彼らのいえけにに混ぜた」と言う行為が記されています。おそらく、ピラトの命令で彼の手下がエルサレム神殿へいけにえを献げにやってきた、ガリラヤの人々数人を殺害したのでしょう。ユダヤ人が神殿にいけにえを献げる行為は彼らにとっては最も神聖な行為と考えられていました。その行為をピラトは踏みにじりました。悲惨なことにたまたまその神殿にやってきていた巡礼者の命を彼は奪ったのです。
 ピラトが何のためにこんなことをしたのか。そのことを聖書ははっきりとは語っていません。もしかしたら、神殿にお参りにやってきた人々を殺害することで、「お前たちの神に対する信仰など実際には何の役にも立たない。お前たちの信じている神よりも自分の方が力を持っている」と言うことも示し、ユダヤ人の信仰を揺るがそうとしたのかもしれません。神に守られているはずの人々が、しかも、彼らはその神に礼拝を捧げに来た現場で命を奪われてしまったのです。「いったい神は、何をしておられるのだろうか」。もしかしたらそう思った人もいるのではないでしょうか。

(2) その原因は隠された罪?

 しかし、今日の箇所で問題になるのは、その質問に対する答えと言うよりは、ユダヤ人たちがこのような出来事にであったときに考える合理的な答え、その解釈の方法が問題となっているのです。その解釈はイエスの次の言葉から推測することができます。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」(2〜4節)。

 ここにはこの出来事だけではなく、エルサレムの町で起こったもう一つのやはり悲惨な事故の出来事が引用されています。ヨハネ福音書には当時、エルサレムの町にあった「シロアムの池に行って目をあらいなさい」とイエスに命じられた生まれつき目に見えなかった人の癒し物語りが記されています(9章1〜12節)。このシロアムの池に近いところに一つの塔が建っていて、その塔が何らかの原因で崩壊して、その下敷きになって何人かの人が死んだのです。これもまた欠陥工事か何かが引き起こした人災だったのかもしれません。しかし、彼らはそんな理不尽な人の死に出会ったとき、自分たちの信仰が揺るがされることがないように一つの答えを持っていたのです。
 それは「彼らの罪が原因だ。私たちの目には分からないが、彼らは隠れたところで特別な罪を犯していたために、その罪の裁きを受けて命を取られたのだ」と言う答えです。だからイエスは「他の誰よりも彼らは罪深いと思っているのか」とその答えを見透かして語られているのです。これは当時の人々がそのような解釈をしていたことを前提にしての言葉です。

(3) 悔い改めることが大切

しかし、イエスはここで「そうではない」と当時の人々の解釈を否定されています。
 よく身近なところで事件が起こったのに、それに幸いにして巻き込まれることがなかったとき、「神様のお陰で、無事にすむことができました」と言う人がいます。その人はそれで神様に感謝しているというのです。しかし、考えて見るとこの論理では、やはり、不幸にしてそのような事故や事件に見舞われた人たちは神様に守られていなかったと言うことになってしまうのではないでしょうか。イエスはこの考えに「そうではない」と答えられているのです。
 つまり、イエスの言葉によれば、信仰者であり、神の守りの中にある人も、同じような理不尽な事故や事件に巻き込まれて命を落とすこともありうると言うことになります。言葉を換えれば、それらの事故や事件はそれに遭遇した人々の犯した罪への裁きではないと言うことになります。そしてイエスは私たちにそんな勝手な解釈をして、今の時間を過ごすのではなく、もっと大切なことに目を向けるようにと教えてくださるのです。それが「悔い改めなさい」と言う言葉です。自分の人生の態度を180度転換して神様の方に目を向けて生きていきなさい。この神様を信頼して生きていきなさいとイエスはこのお話の結論部分で教えているのです

3.期待と忍耐と愛の神
(1) 実らないいちじく

 さらにイエスはこの悔い改めが今の私たちにとってどんなに大切かを、もう一つの譬えを通して教えられます。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった」(6節)。

 ぶどう園にいちじくの木を植えるという行為は、考えて見るとちょと疑問に思われるかもしれませんが、こんな説明がなされています。ぶどうの木は蔓をはわせて育っていくもので、日本ではそのために棚を作って、蔓が順調に伸びる場所を提供します。ここに登場するいちじくの木はこの棚の役目を果たしていると言うのです。そしてぶどうの蔓をはわせるために植えられたいちじくの木ですが、その木自身からもいちじくの収穫ができるのですから、それは一石二鳥と言えるかもしれません。
 しかし、それが簡単にはいかなかったのです。いくらいちじくの実ができるのを待ってもその木は実を実らせることがありませんでした。そこでその人はそのぶどう園を世話している園丁に「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と語ります。いちじくの木は飾りのためにそこに植えられたものではなく、豊かな実りを期待して植えられたものです。ですから、実を実らせることができないなら用なしの木ですから、伐採するようにと彼は園丁に命じているのです。

(2) 園丁の願いと行動

 ところがこの園丁は次のように答えます。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(9節)。
 園丁はこの人の申し出に、「もう少し待ってほしい、自分が責任をとって手入れをするから、後一年待てば実を実らせるかもしれない。そうでなかったら、そのときはこの木を切ってください」と答えます。
 このたとえ話はイエスの解釈が加えられないでそのまま終わっています。しかし、前後関係を見るとこのたとえが何を言いたいのかが分かると思うのです。それは先ほどの悔い改めを私たちはいつ行うべきなのかと言うことを語っているのです。私たちは難しいことは先延ばしにする傾向があります。しかし、この悔い改めは私たちの人生の優先順位で言えば最も最初にしなければならないことをイエスは語っているのです。そしてその理由がこの譬えで語られているのです。
今は神様が私たちの応答を待っておられるときなのです。園丁はわざわざこの神様にいちじくの木に代わって申し開きをし、その責任を引き受けてくださって、私たちに猶予の時間を与えてくださっているのです。実はこの園丁の役割を引き受けて、私たちを守ってくださっているのが救い主イエス・キリストなのです。そしてこのぶどう園の持ち主、つまり神様から実りを期待されているいちじくの木こそ私たち一人一人の人間なのです。
ここで私たちが忘れてはならないのは「どうやって私たちは神の期待通りの実を結ぶことができるか」と言うことです。実に多くの人が、「自分は本当に神様の期待されるような実を結ぶことができるのだろうか」と悩んでいます。しかし、この園丁はこう語っています。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます」。この園丁は命の実を実らす力のない木に、自分の業でその力を与えようとするのです。ですから、一年後にいちじくの木が実を結ぶことができたのなら、それはこの園丁の労苦の結果であったと考えることができるのです。
 私たちも同じです。私たちには実を自分で実らせる力がありません。ですから、イエスが救い主として私たちのところにやってきて下さったのです。そして悔い改めとは私たちが命の源である神様との関係を修復するために、この園丁であるイエスを信じ、その手に私たち自身を委ねることを言うのです。そうすればイエスは私たちの内側に神様の命を豊かなに流しいれ、実りを実らせてくださるのです。
 今は、このイエスが救い主として私たちのために働いて下さる大切なときです。ですから肝心なのは私たちがこのイエスを信じ、命の源である神様との関係を修復することなのです。それではこの命の関係を回復されたものは、この世で起こる出来事を自分にとってどのように考えることができるのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答の問26はイエスの救いによって神様を自分の父と呼べることになった私たちは、こう答えることができると語ります。
 「わたしたちはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なすべてを、わたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へ、いかなる災いが下されるとも、それをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。」

【祈祷】
天の父なる神様
私たちのためにイエスを遣わしてくださり、その救いの御業を通して、私たちとあなたとの関係を回復させ、私たちの命の祝福へと入れてくださった幸いを感謝いたします。あんたのその祝福は災いをも私たちの益としてくださるものです。そのことを信じて、あなたご自身から絶えず、この悩みと苦しみの絶えない世界で慰めと平安をいただくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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