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礼拝説教 桜井良一牧師
「父の思い理解できず

(2007.03.18)

聖書箇所:ルカによる福音書15章11〜32節

11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

1.律法を誤用する

 今朝はイエスの語られた有名な「放蕩息子」のたとえから学びます。このお話が語られるきっかけはこの同じルカによる福音書15章の冒頭の部分に記されています。

 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした」(1〜2節)。

 ここに登場する徴税人はローマ帝国へ収める税金を代行して徴収する仕事をしていた人々で、ローマの権力を盾に私服を肥やす人々として当時のユダヤ人たちにひどく嫌われていました。またもう一方の「罪人」と呼ばれる人々は、この場合は犯罪者を意味する言葉ではなく、当時のユダヤ人たちが大切にしていた神様の掟、律法を守ることが出来ない人を蔑視して使った呼び名です。イエスはこのような人々と進んで親しい交わりをされたと言うのです。ですからこの様子を見てファリサイ派の人々や律法学者と呼ばれる宗教家たちはイエスの行動を非難したのです。
 彼らにとってはここに登場する徴税人や罪人と呼ばれる人々は人としての価値を持っていないと判断されました。なぜなら彼らは、人間は神様が与えてくださった律法を自分の力で守れるかどうかで、その人の人間としての価値が判断されると考えていたからです。そのためその律法を守り得ない人々は人間として価値の無い者たち、神から愛される資格を持っていない人々と考えられていたのです。
 これは明らかに彼らが律法を誤って用いていたことを表わしています。なぜなら神が与えてくださった律法はその人間の価値を計るためのものではないからです。むしろ、律法はそれを知ることで、今の自分がどんなに神様と離れたところに生きているか知らせ、その人が神様に立ち戻るべきことを教えるものだからです。つまり、神様は律法を私たち人間に与えることにより、私たちが自分の居場所に気づいて、そこから私たち人間が自分の元いた場所に戻ることを望まれているのです。その意味で、神様から離れていた徴税人や罪人がイエスを通して、ご自分の元に帰ってきたことを神様は喜んでおられるのに、ファリサイ派の人々や律法逆者たちはそれに気づかず、その人々と親しく食事までしたイエスを非難したのです。
 イエスはこのように自分の行動を非難するファリサイ派の人々や律法学者たち対して、今日の放蕩息子のたとえを含む、三つのたとえを語られました。実は「放蕩息子」とこの話を読んでしまうとお話の内容はここに登場する自分の身代を持ち崩した弟だけに限定されてしまいます。しかし、このお話にはもう一人、弟の帰還を喜ばない兄が登場します。そしてこの兄の姿は最初にこのお話が語られるきっかけを作ったファリサイ派の人々や律法学者たちの姿と重なる部分があるのです。その意味でこの兄の存在も決して無視してはならない大切なものなのです。ですから、このお話はむしろ「二人の息子と父親の話」と言った方がいいとさえ考える人もあるくらいです。

2.神を離れた人間の悲惨
(1) 反逆

 この物語は二人の息子とその父親の三人が主要な登場人物です。そしてその物語の最初は弟息子が父親に「自分の分の財産の分け前をください」と言うところから始まっています。当時の慣例によればこの弟は確かに父親の財産の三分の一を受け取る権利を持っていました。しかし、その財産の相続は通例は父親の存命中に行われることはなかったようです。むしろ、存命中に財産を息子たちに分けてしまえば、その後、父親は息子たちに疎かに扱われる可能性があるので、決してそうしてはならないと言う教えもあったようです。もちろん、この場合に息子に自分の財産を分け与える決定権はこの父親にあります。しかし、この父親は自分にとっては決して益とならないような弟息子の申し出を受け入れて、二人の息子に自分の財産を分け与えたと言うのです。この父親の関心は自分の財産にあるのではなく、二人の息子にのみ向けられていたことがこの行為から読み取ることができます。
 続けて弟息子はこの財産をすべてお金に換え、遠い国に旅立ったとたとえ話は語ります。彼の関心が父親の残す財産だけにあったのなら、彼は急に遠いところに旅立つ必要はなかったでしょう。むしろここから彼の関心は、父親から遠く離れようとするところにあったことが分かります。彼は本来なら、父親が死んでから受け取るはずの財産を父の存命中に要求しました。そのような意味では彼はすでにこの時点で心の中で自分の父親を亡き者にしてしまったと言えるのです。そしてそれは心の中だけに止まらず、自分が遠い国に旅立つことによって父親の存在を行動に置いても完全に否定してしまったのです。
 この弟息子の姿こそ、私たち罪人と呼ばれる人間の姿を象徴するものと考えることができます。私たちを造り、私たちを愛し、私たちに最大の関心を持たれている神様を、私たちは心に置いても、行動に置いても否定して生きようとします。しかし、実は人間はこの神を否定することによって自らに悲劇を招いているのです。

(2)没落

 弟息子は遠い国に旅立った後、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いして、すぐに何もかも失ってしまいます。「貯金をして少しずつ使えばよかったのに…」と思われる方もいるかもしれません。しかし、彼の運命は父親の元を離れたときからすでに決まっていたと言ってよいのでしょう。なぜなら人間は命の源である神から離れた時点で、その命は死に支配されることになってしまいました。ですから人間の命は減ることがあっても、決して増えることも、また一定の量で止まることもできないのです。
 やがてその地方に酷い飢饉が起こります。このことで彼は食べることにも困ってしまう状態に追い込まれます。彼は生き残るために誰かに頼ろうとします。しかし、彼の命を支える満足な助けを与える人は誰一人存在しないのです。
 神を離れた人間は、神以外のものに自分が頼るべきものを見いだそうと必死です。しかし、神以外に人間の命を本当に支えることができるものは誰もなにのです。ですからいつも期待は必ず裏切られることになります。
 彼はその地で豚のえさであるいなご豆さえ食べたいと思ったほどでしたが、それさえ自分にくれる人はいなかったと聖書は語っています。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物です。ですから今でも、ユダヤ人は豚肉をたべません。その豚を飼うと言うのはこの息子が人間としての尊厳を失う最低の状態まで追い込まれていたことを言い表しています。

3.帰還

 しかし、彼の人生の転機はその悲劇の中で起こります。彼はそこで初めて「我に返った」(17節)と言うのです。それは「自分を見つけた」と意味の言葉です。彼は今まで自分を確かに見失っていたのです。その自分を彼はここで初めて見つけ出すことになったのです。それではその出来事はどのようなきっかけから起こったのでしょうか。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ」(17節)。彼はここで初めて自分の父親のことを思い出したのです。そしてそのとき初めて自分が愚かなことをしていたことに気づきます。
 宗教改革者のジャン・カルヴァンは「神を知ることこそ、本当の自分を知る道である」と教えました。ですから神を知ることが出来ない人は、自分の本当の姿を知ることはできないのです。鏡がなければ私たちは自分の顔を見ることが出来ないようにです。私たちは自分のことは自分が一番よくしっていると思いこんでいます。しかし本当は、私たちは「我を忘れている」のです。自分の本当の姿を何も分かっていないのです。だからこそ、聖書に記された神様の言葉はその私たちに自分の置かれた悲惨な状況を悟らせる役目を持っているのです。ファリサイ派の人々や律法学者が大切にした律法は本来そのような役目を果たすはずなのに、彼らは全くそれを誤用してしまって、むしろ自分の本当の姿をごまかすものにしてしまっていたのです。
 弟息子はここで自分の父を思い出し、自分の愚かな状態を知り、その上で、自分が本来いるべき場所に戻ろうと決心します。もちろん彼は家に戻れば父親が自分を簡単に受け入れてくれるとは考えていませんでした。「自分は天に対しても自分の父親に対しても罪を犯した」。まずそのことを認めて父に許していただこう。その上で、もはや自分は息子と呼ばれる資格は持っていないのだから、雇い人の一人にしてもらおうと考えたのです。
 しかし、この息子が家に帰ってくる姿を父親は見逃しませんでした。彼がまだ遠く離れているのに、父親は彼の姿を確認し、彼の元に走り寄って彼を抱きしめたと言うのです。ある一人の女性が母親とけんかをして家出をしました。そこから彼女の不幸な転落の人生は始まります。そして何もかも行き詰まって、十数年ぶりで彼女は自分の母親の住む家にたどり着きます。すでに時間は深夜を過ぎています。不思議なことに彼女は母の住んでいる家のリビングにまだ灯がともっています。彼女は「母はまだ起きているのだろうか」と思いながら、玄関のドアにそっと手をかけると、ドアが簡単に開いてしまうではありませんか。その家のドアは真夜中なの鍵がかけられていないのです。「もしかして、母に何かがあったのではないか」と思う彼女の前に、物音に気づいた母親が現れたと言うのです。母親の話によれば彼女が家出をしたときから一度も玄関のドアの鍵は閉められたことがなく、夜は一晩中リビングの灯を消したことがなかったと言うのです。それは自分の娘がいつ帰ってきても大丈夫なようにするためです。まさに、この父親は息子の帰りを毎日待ち続けていたからこそ、息子の姿を遠くにあっても認め、その息子の元に駆け寄ることができたのです。

4.兄の非難と父の愛
(1) 収まりきれない兄の心

 この息子を迎えた父の喜びはたいへんなものでした。

「しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』」(22〜24節)。

 「息子は死んでいたのに生き返った」と父親は語ります。私たちもまた、神を離れたときに霊的に死んだ状態にありました。ですから私たちは神様を信じ、神様と共に生きるようにされたときに「生き返った」と言えるのです。私たちの本当の復活は、神様を信じてときに起こります。そして終わりの日の体の復活は、この命の復活を体験したものに与えられる祝福なのです。
 しかし、ここで収まりがつかないのが兄息子のほうです。彼は畑仕事から帰ってきたとき、いつもと違う家の雰囲気に気づきます。そして、使用人の一人から弟息子が帰ってきたので、自分の父親はそれを喜んで宴会をしているのだと聞かされるのです。彼の怒りはそれを聞いて爆発します。そして兄の怒りはそのまま収集が着かず、彼は家の中に一歩も足を踏み入れようともしませんでした。そこで父親が彼をなだめるために外に出てくるのです。この父親に兄は語ります。

 『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』(29〜30節)。

 この言葉から分かるのは兄息子は今まで確かに父親に忠実に働いては来たのですが、それを喜んでやってきたとは言えないことです。彼は「自分は父親に奴隷のように仕えてきた」。その私に何の報いもないと語ります。彼の生活には喜びがありません。不満だけが残されるのです。
 この言葉はファリサイ派の人々や律法学者たちに語られています。彼らは確かに律法を守ることに熱心でした。しかし、彼らは自分たちが神の子とされたことに感謝を覚え、喜んでそれを守ったのではないのです。それを守らないと自分は失格者だと言われてしまうに違いない、そのような恐怖に支配されながら、仕方なく神に従う、奴隷のような信仰生活を送っていたのです。
 しかし、本当の信仰生活はこのようなものではありません。私たちはすでに救い主イエス・キリストのみ業を通して神の子とされています。ですから、そのことに感謝して、喜んで神様に従おうとするのです。つまり真のキリスト教信仰において、神が与えてくださった律法は人を恐怖の元に縛るものではなく、私たちの神様の感謝を表わすための一つの指針となるのです。

(2) 息子をとがめない父

 しかし、その私たちの感謝はどこから生まれるのでしょうか。それは私たちを愛する父の姿を私たちは知ることから生まれます。二人の息子はどちらもこの父の本当の気持ちを理解していませんでした。弟はそれを理解できず、自ら父の存在を心と行動で否定してしまいます。そして兄は、形ばかりは父と共に暮らしていても、心の中では同じようにこの父の存在を否定し、その父の愛を全く理解していないのです。
 救い主イエス・キリストの使命はこの神様の愛を私たちに知らせるためのものでした。イエスは罪を犯し、もはや息子と呼ばれる資格を持ち得ない私たちに代わって、ご自分が十字架にかかって罪の刑罰を受けることで、私たちに神の息子と呼ばれる資格を与えてくださったのです。ですから、このイエスの生涯は神様の私たちに対する変わらぬ愛を示しているのです。その上で神様はこのイエス・キリストを通してご自分の元に戻ってこられる者を心から喜んで受け入れてくださるのです。そしてそのことを知らせるためにイエスの今日の話を教えられたと考えることができるのです。

【祈り】
天の父なる神様
あなたを否定し、自分の霊的命を死へと追いやった私たちに、イエス・キリストを遣わして、私たちを生き返らせてくださったあなたの御業とその愛に感謝します。どうか私たちに、その愛を、聖霊を通していつも示してくださり、私たちが喜びを持ってあなたに仕えることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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