Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
「自らの罪に気づかず」

(2007.03.25)

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章1〜11節

1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

1.数奇な運命を辿ったテキスト
(1) ヨハネによる福音書の古い写本にない物語

 今日、学ぶ「姦通の女」の物語、あるいは「姦淫の罪を犯した女性」の物語は聖書の中でも非常に印象的で、たくさんの人の心に残る物語であると思います。ところがこの物語、私たちの使っている新共同訳聖書の本文でも7章53節から8章11節のところがちょうど括弧で囲まれています。実はこの印はこの物語が本来のヨハネによる福音書には含まれておらず、後になって誰かによってここに付け足された疑いがあるということを示しているものなのです。ご存じのように私たちが読んでいる聖書はすべて、写本と言う形で伝えられたもので、著者が記したオリジナルなテキストは残されていません。ですから聖書学者たちはその写本を見比べて、オリジナルなテキストがどのようなものであったかを研究して、現在、私たちが読んでいるような聖書が本来のテキストに近いと結論づけたものなのです。ですから、この括弧で囲まれた箇所はオリジナルな聖書には含まれないと言うことになります。
 写本の研究ではこの物語が記されたヨハネによる福音書の写しは一番古いものでも、4世紀から5世紀にかけて記されたものにしか登場しないと言うのです。また、それ以前に記された聖書の注解や説教にもこの箇所の解説は登場していないのです。
 また、ギリシャ語の専門家の目から見るとこの物語の書き方は他のヨハネによる福音書の文章の書き方と違っていることが分かると言うのです。そのような点で日本語の翻訳でもその違いを伺い見ることができるのは3節の「律法学者やファリサイ派の人々」と言う言葉です。ヨハネの場合、このように律法学者とファリサイ派の人々と言う名前を続けて並べることはなく、ヨハネは「祭司長たちやファリサイ派の人々」(7章45節)とか「議員やファリサイ派の人々」(48節)と言う並べ方を使います。むしろ、どちらかと言うと「律法学者やファリサイ派の人々」と言う表現はルカによる福音書でよく用いられる表現だと言えます。そこで聖書学者たちの中にはこの物語が元々はルカによる福音書の一部だったのではないかと推測する人がいるのです。特にルカによる福音書の21章の最後の37節と38節には次のような言葉が記されています。
 「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」。
 この言葉と今日の物語の最初の1節から2節の箇所と読み比べて見ましょう。
 「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた」。
 ほとんど同じ文章がここに記されていることが分かります。ですからこの物語はこのルカによる福音書の21章の最後に続く部分ではないかという推論が成立するのです。

(2) 教会の教えには都合が悪い?

 それではどうしてこの部分はルカによる福音書から取り去られ、遙か後代になってこのヨハネによる福音書に付け足されたのでしょうか。これはもう推理小説を読むようなもので、確かな説明はできません。しかしここにもこんな推論が成り立つのです。初代教会では姦淫について大変に厳しい態度を取り、その当事者を厳しく裁く雰囲気があったと言うのです。そこでそのような主張をする教会にとって、イエスが姦淫の罪を犯した女性に「わたしもあなたを罪に定めない」と語り、彼女の罪を無罪放免にしたように思えるこの聖書の箇所は、非常に都合が悪かったと言うのです。「なぜ、イエスはこの女性を許されたのに、教会は同じような罪を犯した者に対してそんなに厳しい裁きを下すのか」。そう反論されたとき、教会はその説明に困ります。だからこの箇所がいつの間にか聖書から取り外されてしまったと言うのです。この物語を残せば、教会は高い倫理を教えることができないから、だからこの箇所は教会によって裁かれ、切り離されて、葬られてしまったと考える人がいるのです。
 それではどうしてこの物語が後代になってこのヨハネによる福音書に付け加えられ、復活したのでしょうか。これもまた推測の域をでませんが、この同じ8章の15節のところでイエスは次のような言葉を語ります。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」。このイエスの言葉とこの物語は繋がりがよく、この物語はイエスの言葉を理解させるための実物標本のようになるのです。しかしそれでも、この物語は5世紀以後も聖書のテキストとして読んでいいのかと言うことで長い間、論争のまとになり続けた歴史を持っているのです。

2.一石二鳥を狙う訴え
(1) 祭司ピネハスの模範に従う

 さて、この箇所がどのように取り扱われてきたかについて、このように詳しく皆さんにお話したのには一つの理由があります。それはどうもこの聖書の箇所の取り扱われ方と、この物語の主人公である姦淫の罪を犯した女性に対する人々の取り扱い方には類似点があると思われるからです。律法学者やファリサイ派の人々はこの女性を姦淫の現場で捕らえ、この女性を石で打ち殺さなければならないと叫びました。それは明らかに律法違反であり、その行為を容認することは自分たちの属する共同体の倫理に反し、その共同体を破壊してしまうことに繋がりかねないと考えたからです。だから彼女は邪魔なもの、あってはならないものと人々から考えられたのです。そしてその同じような論理で、この物語は長い間教会の中で冷たく取り扱われた可能性があるのです。
 この物語を同じように説教した人の文章の中に当時のユダヤ人が尊敬し、自分たちの模範と考えていた旧約聖書の人物を取り上げられています。それは旧約聖書の民数記25章に登場する祭司ピネハスと言う人物です。当時、イスラエルの民は40年間の荒れ野での放浪の生活を送っていました。彼らがシティムと言う地に滞在したおり、その地の女性たちと深い関係を持つようになります。そしてその結果、彼女たちを通して偶像崇拝の習慣がイスラエルの民を蝕むことになります。それが神様の怒りを買うことになりました。
 このとき臨在の幕屋というイスラエルの民にとっては神様を礼拝するために大切な場所がありました。その幕屋の入口まで一人のイスラエル人の男性が異邦人(ミディアン人)の女性を伴ってやって来たと言うのです。するとその光景をみたピネハスと言う人物は槍を手に取り彼らに襲いかかり、最後にはその男性と女性をその槍で突き刺して殺害してしまいます。そしてこのピネハスの行為によってイスラエルの民に神様が下された災いから救われることができたと言うのです。
 イエスの前に登場した律法学者やファリサイ派の人々は、もしかしたらこの女性をそのままにすれば自分たちの共同体全体が神の怒りを買い、その災いを免れることができないと考えていたのかもしれません。ですからこの旧約聖書のピネハスの模範に従い、この姦淫の場で捕らえられた女性を自分たちの共同体から取り除くようにと考えたと言うのです。

(2) イエスを訴えるための口実

 しかし彼らが、自分たちの共同体から取り除かなければならないと考えたのはこの女性だけではありませんでした。彼らはここでイエスの前に姦淫の罪を犯して現行犯逮捕された女性を連れて来て、このように尋ねています。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(4〜5節)。彼らの質問は、女性の処遇に困ってその取り扱い方についてイエスに助言を求めているように聞こえるところがありかもしれませんが、実はそうではありません。彼らの中ではすでに、祭司ピネハスの模範もあるようにこの女性の取り扱い方は決まっているのです。しかし、それも関わらず彼らがイエスにこう尋ねた理由を次のように説明しています。「(彼らは)イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」(6節)。

 彼らはこの女性だけではなく、イエスを裁きたかったのです。そしてイエスを取り除きたかったのです。聖書によれば、イエスが処刑されるとき、その裁判をしたのはローマ帝国の総督ピラトでした。どうしてユダヤ人たちはイエスをピラトの法廷に連れて行ったのでしょうか。それは当時、ユダヤ人には人を死刑にする権限がなかったからです。ですから、人に死刑判決を下し、それを実行するのはローマ帝国の役人にだけ認められている行為ですから、ここでイエスがこの「女性を死刑にしないさい」と言えば、彼をローマの権限を侵す人物として訴える口実が生まれます。そしてもし、イエスがこのときお茶を濁すようにはっきりとした回答をしなかったら、イエスの人気に汚点をつけて、人々の彼に対する関心を逸らせることができると考えたのです。ですから、この女性をイエスの元に連れてきた人々はまさに一石二鳥の効果をここで狙っていたと言うことになります。

3.罪のないものから石を投げなさい
(1) 相手のペースにはまらないイエス

 しかし、イエスはそのような人々の本心を知ってか、知らずか、彼らの質問には答えることがありません。その言葉を無視するかのように彼は地面に何かを書き始められたと言うのです。このとき、イエスが地面に何を書いていたか。これもいろいろな推測がされていますが、確かなことは何もわかりません。はっきりしていることは、決してイエスは相手のペースにはまることがなかったと言うことです。おそらく、私たちだったらこうは行かないと思います。相手のペースにまんまとはまってしまって、いつの間にかそこから抜け出すこともできなくなってしまうはずです。イエスが相手のペースにはまることがないのは、彼が、自らが何者であり、今、何をするためにここにいるのか、自分のステータスをいつもはっきりと自覚していたからではないでしょうか。そして私たちがそうは行かないのは、やはりこの自分のステータスが曖昧なために、何が大切であるかをたびたび見失ってしまうためだと思います。

(2) イエスの前を立ち去る人々

 しかし、質問者たちは自分たちを無視するイエスの態度にもかかわらず、しつこくその問いを繰り返し尋ねます。そうすることによって、イエスが自分たちの質問に答えられずに困り果てているのだと言う印象をこの論争を傍観している民衆に印象づける狙いがあったのかもしれません。そこでイエスは身を起こしてこう答えます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。それを語り終えるとまた、地面にかがみ込んで、何かを書き続けられたと言うのです。
 このイエスの言葉によってそこで変化が起こります。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)。イエスの語る「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言う言葉を聞いて、そこにいた人々は一人、二人と黙ってその場を立ち去り、最後には訴えられていた女性一人しかそこには残っていなかったと言うのです。
 「年長者から始まって」と言うところはたいへん興味深い表現です。年を取ったものほど、自分の人生で失敗を重ね、自分の弱さやその欠けを自覚していると言うことなのでしょうか。確かに、若者は大きな理想を抱きますが、年を取った者はより現実的な対応をすると言う傾向はあることも確かです。そこに集った人々は自分の胸に手を当てたとき、「自分には全く罪がない」と言い切れる人は一人もなかったと言うのです。それで彼女を訴える人々はすべていなくなってしまったのです。
 私たちはよく人に腹を立てることがあります。しかし、よくよく考えて見ると、その腹を立てている相手と同じようなことを自分もしていること気づき、そのことで腹を立てている自分の愚かさにも気づくことがあります。しかし、ここには問題はそのまま残されています。同じ問題を自分も抱えていると言うことを理解することは大切です。しかし、その問題をどのように解決できるか、それが分からなかったらどうにもなりません。ここに集まった人はイエスの言葉に促されて、自分の罪を自覚しました。しかし、それでこっそりとそこを立ち去ってしまいます。しかしそれではいったい、そこで自覚された自分の罪はどうなるのでしょうか。ここにはそこで示された自分の罪に対する解決策がうやむやにされています。

4.真の裁き主キリストのもとにとどまる
(1) 取り去ることでは解決がつかない罪

 イエスの語られた有名な山上の説教の中で「姦淫してはならない」と言うモーセの律法についての解説があることを皆さんは知っていると思います。

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(27〜30節)。

 私はこの聖書の箇所を読んでいつも疑問に思う点があります。こんなにここでイエスははっきりと「右目をえぐり出しなさい」、「右手を切り捨てなさい」と勧めているのに、私はこの言葉に従って右手をえぐり出した人を、右手を切り捨てた人を身近では知らないからです。わずかに古代のクリスチャンの中にはこの言葉に文字通り従った人がいると言う伝説を聞いたことがあります。しかし私は本気でこの言葉を実行した人を知らないのです。
 それではどうしてこの言葉をそのまま実行する人はいないのでしょうか。それはこの言葉には私たちの罪に対する本当の解決は示されていないからではないでしょうか。なぜなら人はたとえ自分の右目をえぐり出しても、残された左の目で罪を犯すからです。残された左手で罪を犯す可能性があるからです。つまり私たちは自分から何を切り離しても、その罪は解決せず、地獄に落ちる運命から免れることができないのです。

(2) 裁き主イエスの判決

 そんな私たちに本当の解決を示すのがこの聖書の物語だと言ってよいでしょう。なぜなら、自分の罪を自覚した多くの人がその場から立ち去ってしまったにも関わらず、姦淫の罪で訴えられていた女性はそこから立ち去ることがなく、イエスの前にとどまり続けたからです。そしてそこに止まり続けた彼女だけにイエスの言葉は語りかけられています。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。
 この同じ8章の18節にはこのようなイエスの言葉が語られています。「しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である」。日本の裁判制度では最高裁判所がその裁判に最終的な判断を下すようになっています。そしてその最高裁判所の判断を覆すことは容易ではありません。私たちにとってイエスはこの最高裁判所の役目を果たすと言えます。ですから、イエスが「無罪」と判断してくださったなら、もう誰もその人をそれ以上、裁くことはできなくなるのです。この女性はそのイエスから「罪に定めない」と言う無罪判決を受けたのです。そしてこれによって彼女の罪は本当に解決されたのです。私たちの罪が本当に解決される方法もここにあるのです。このイエスの元にとどまりつづけて、この方から正しい裁きを受けること、それが私たちの罪から救われる唯一の方法なのです。私たちの力で何かを都合の悪いものを取り除こうとしてもそこには何の解決もありません。不思議なことにこの物語自身も神様の摂理の中で守られて、この聖書の中に残されました。それはまさに神様がこのイエスの元に私たちも止まり、彼から正しい裁きを受けて、その罪を許していただくように勧めるためであったと言えるのです

このページのトップに戻る