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礼拝説教 桜井良一牧師
「死は終わりではない」

(2007.04.08)

聖書箇所:ルカによる福音書24章1〜12節

1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

1.復活祭の喜び
(1) 復活祭についての解説

 今朝はイースター、主イエス・キリストが復活されたことをお祝いする礼拝です。この復活祭についての資料を読んでみますと、復活祭は今日一日で終わってしまうのではなく、これから50日間に渡って、ペンテコステ、つまり聖霊降臨の主日まで続けられると説明されています。つまり今日、私たちがお祝いしている主イエスの復活の出来事はペンテコステにイエスを信じるすべての者に聖霊が下った出来事で完成すると考えられているのです。

 そして、この復活祭において私たちに要求されているのは、喜びであると言われています。主イエス・キリストが私たちのような死すべき人間に代わって、死に、そしてその死に勝利してくださったことを私たちはこの復活祭の朝、心から喜びます。なぜなら、この主の勝利は私たちの勝利であり、私たちの命が死に勝利したことを表わしているからです。

(2) 信仰生活の原動力は喜びと感謝

 先日、祈祷会でキリスト教綱要を学んだとき私たちの信仰生活の原動力はどこから来るかと言う問題が取り上げられました。このことについて中世のカトリック教会は私たちの信仰生活での努力こそが、私たちが神の祝福を得ることの鍵だと主張しました。つまり、信仰生活の原動力は神の祝福を得たいと願う人間の願望とその努力にあると彼らは語ったのです。ところが、宗教改革者のカルヴァンは彼らとは全く違った意見をここで展開しています。彼は私たちの信仰生活における努力は神様から祝福をいただけるような価値を全く持ってはいないと主張するのです。彼は私たち人間の信仰的努力は神様の目からは排泄物やゴミと同じようにしか見えないと語ります。つまりそれをいくら私たちがそのゴミを集めても、神様から祝福をいただくことはできないと言うことになります。神様は決して、廃品回収業者のような方ではありません。むしろ、神様は私たち人間に向かって最上のものを要求されるのです。
 だからこそ神様はこの最上のものを私たちに代わってご自身で用意してくださったのです。それが主イエス・キリストの命です。その命が十字架の上で献げられることにより、私たちは神様のすべての恵みをいただくことができる権利を受けることができたのです。ですから主イエスの復活はこのイエスの命と引き替えに神が与えてくださった最もすばらしい祝福です。そして、このすばらしい祝福をいただくことが出来たことを私たちは心から喜ぶのです。そしてこの喜びに満たされる者は、神様に心から感謝を献げ、その神様のために生きたいと考えるようになります。カルヴァンはこの喜びから生まれる感謝の生活にこそ、私たちの信仰生活の原動力であると言っているのです。そのような意味で、私たちが自分の信仰生活をより充実して生きようとするなら、この主イエスの復活の出来事に心を向け、そこから来る喜びを十分に味わうことが大切だと言えるでしょう。

2.復活の最初の証人たち
(1) 墓に向かって女弟子

 さて、私たちは今朝、この主イエスの復活の出来事を伝えるルカによる福音書の記事から学び、その喜びを共に味わいたいと思います。まずこの物語に登場するのはイエス・キリストに従った幾人かの婦人たち、イエスの女弟子たちです。彼女たちは十字架から降ろされたイエスの遺体のアリマタヤのヨセフと言う人物によって、彼の持っていた墓に葬られたことを確認します。そして彼女たちはその後、安息日の規程に従って休みを取りました。その安息日が明けた日曜日の早朝、彼女たちはイエスの墓に再び向かったのです。それは彼女たちが準備した香料と香油を使って、イエスの遺体を飾り、丁重に葬りたいと考えたからです。おそらく、彼女たちはそうすることで、自分たちを愛してくださり、また、自分たちも心から愛した主イエスに別れを告げようと考えたのでしょう。
 なぜなら、彼女たちは皆、イエスによってその人生を大きく変えて頂いた人々だったからです。彼女たちの中のある者は悪霊に支配され、またある者は癒されることのない病に苦しんだ経験を持っていました。そして、主イエスは彼女たちのその問題から解放し、人間として生きる喜びを与えてくださったのです。今彼女たちはそのイエスへの感謝をイエスの遺体を丁重に葬ることで表わそうとしていたのです。

(2) 最低の証言者

 ある説教者はこの箇所の説明をしながら、ここにイエスの復活を最初に証言した人物とし婦人たちが紹介されているのは、この出来事の信憑性を確信させるものだと言っています。なぜなら、当時の社会において女性は差別され、最も立場が弱く、その証言は信用されないものと考えられていたからです。ですから、ここで当時の人々もその証言には一目置くような人物がここで最初の証言者として登場するなら、もしかしたらここに人間的脚色がつけられているのではないかと疑う余地が生まれるのです。しかし、ここに登場するのは何人かの平凡な婦人たちです。つまり、当時の人々から見て最もあてにならないと考えられた女性たちが、この復活の出来事の最初の証言者として神様から選ばれているのです。
 しかし、そう考えてみると神様のみ業はいつも一貫しているのではないでしょうか。キリスト教会でこの復活祭と同じように祝われるクリスマスの出来事を思い出してみるとそれがよく分かります。クリスマスの物語でも最初の証言者として選ばれているのは財産も地位もなく、むしろ当時の人々からは蔑まれていた羊飼いたちでした。また、イスラエルの人から見ればその素性も分からない、胡散臭い「星占い師」たちがキリストの誕生を証言する役目を神様から与えられているのです。パウロはコリントの信徒への手紙一の1章の中でこんな言葉を語っています。

 「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(27〜29節)。

 私たちはどちらかというと人々から知恵のある者と呼ばれることを喜びとし、また力や地位を求めて一生懸命に生きています。しかし、最も幸いなことは主イエスを信じ、その復活を証しする証人として神様から選ばれることではないでしょうか。その意味でこの女性たち、そして羊飼いも、星占いの博士たちも神様に選ばれた幸いな人々であったと言えるのです。そして、このイースターの礼拝に集った私たちも、同じように神様から選ばれた幸いな者たちとであると言ってよいでしょう。

3.空の墓
(1) ころがされていた石

 イエスが葬られた墓は山の斜面に空けられた横穴のような形式をしていました。その墓の入口は大きな石で閉じられる仕組みになっていました。この石は婦人たちの力では動かすことができないような大きなものだったようです。ですからマルコによる福音書ではこの問題に婦人たちが「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(16章3節)と心配していたことが記されています。しかし、この心配は無用なものなりました。彼女たちが見るとその石が墓のわきにころがしてあったからです(2節)。
 この石のことについて東京恩寵教会の榊原牧師はこんな解説をしています。私たちは聖書には記されていませんが、復活されたイエスが墓の石をどけて外に出てこられた姿を想像することがあります。しかし、その想像は少し違っているのです。なぜなら、復活されたイエスは後に聖書で語られるように内側から扉の閉まった一室に閉じこもっていた弟子たちのところに自由に現れることができたからです。ですから復活されたイエスにとって、この墓を閉ざしていた石は決して邪魔な存在ではなかったのです。となると石がころがされていたのはイエスが外に出るためではなく、この婦人たちが墓の中に入ることができるためであったと言うことが分かります。つまり神様の側がこの婦人たちの心配を解決して下さったと言うことになります。

(2) 亡くなっていた遺体

 婦人たちはこのために簡単にイエスの墓の中に入ることができました。しかし、そこでさらに驚くべき出来事に彼女たちは遭遇します。「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」(3節)。彼女たちが別れを告げるべくやってきた墓から、イエスの遺体がなくなっていたのです。彼女たちは自分たちが今、体験している出来事の意味がわかりません。そのため彼女たちは「途方に暮れて」しまいます。
 墓にイエスの遺体がなくなっていたことはこの後、弟子のペトロも確認しています(12節)。ただ、女性たちもペトロも、墓にイエスの遺体がなくなっていたことを確認しはしますが、それだけではまだイエスの復活を信じるまでには至りません。墓に遺体が無くっているのを見ても、それだけではイエスの復活を証明するものとはなりえないからです。しかし、この後、イエスが復活された事実を様々な形で体験することになった人々とって、イエスの遺体が墓にはなかったと言う出来事は大きな意味を与えるようになります。なぜならば、復活されたイエスは体は墓にありながら、魂か何かが再び弟子たちの前に現れたような存在ではなかったことが、この空の墓の事実を通して理解されるからです。復活されたイエスは確かに十字架にかけられて死に、墓に葬られたその体を持っておられるのです。

 パウロは先ほどのコリントの信徒への手紙一でキリストの復活についてこのように語ります。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。

 キリストの遺体が葬られた墓が空であったと言うことは、キリストが死者の中から復活されたことを証しするものです。もし、キリストが死者の中から復活されなかったとしたら、キリストは死に勝利されなかったことになります。そうなると私たちがキリストにあって抱いている救いの希望は皆、偽りの空しいものになってしまうのです。だからこそ、イエスの救いを信じる私たちにとってこの空の墓の事実は大切な真理を示しているのです。そして、神様はそのことを私たちに確証させるために、墓の石をころがしてくださっていたのです。

4.何によって主イエスの復活を信じるか
(1) み言葉の中に捜す

 確かに墓にはすでにイエスの遺体がないことを確認した女性たちでした。しかし、彼女たちはそれだけではいったい、そこで何が起こったのか分かりません。そのために神様は彼女たちを助けるために御使いを遣わしてくださったのです。御使いは彼女たちに語りました。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(5〜7節)。

 生きているイエスを死者の中に捜すのは無意味なことではないかと御使いは語ります。この世の科学の結論は、人は必ず死ぬべき者であり、それで終わりだと語ります。ですから、私たちがその科学を用いて生きているキリストを捜し出そうとしても無意味なのです。私たちは生きている主イエスを別のところで捜さなければなりません。それではどこで私たちは生きておらえるイエスを捜し出すことができるのでしょうか。それは天使たちが婦人たちに指し示したように、イエスのみ言葉の中で捜すべきなのです。私たちは聖書のみ言葉の中で復活され、今も生きておられるイエスを捜し出すことができるのです。
 女性たちはここで「イエスの言葉を思い出し」(8節)ています。そして今まで途方にくれて何もすることができなかった彼女たちが、イエスの言葉を思い出すことによって、新たな行動に歩み出します。復活の証人としての歩みを始めたのです。

(2) み言葉を思い出す

 先ほどの紹介した、榊原先生のルカによる福音書の解説では、この女性たちが「イエスの言葉を思い出した」というところをとても大切だと指摘しています。なぜなら、聖書で「思い出す」と言う言葉が使われるとき、それは単に「忘れてきたことを思い出した」と言う意味を持つ言葉でなく、むしろ約束されていた救いの出来事が実現することを示す言葉として用いられているからです。そして、榊原先生はこの「思い出す」と言う行為を、自分たちが今、体験している本当の意味を理解することだと言い換えて説明しています。
 確かに、イエスの墓に向かった女性たちはそこで驚くべき出来事に直面して、途方に暮れてしまいます。なぜなら、彼女たちは自分たちが体験している出来事の意味が理解できなかったからです。しかし、彼女たちはイエスのみ言葉を思い出すことによって、自分たちが今体験していることが、どのような意味を持つのかを理解し、復活の証人としての歩みを歩き始めているのです。つまり、彼女たちはイエスのみ言葉を思い出すことを通して、それを今、彼女たちに語っている生きておられるイエスの存在に気づかされたと言うことができるのです。
 それは私たちの場合もおなじではないでしょうか。聖霊は私たち一人一人に働いてこのイエスの言葉を思い起こさせ、そのみ言葉を聞く私たちは、イエスが生きて今、自分に語りかかけてくださっていることを知ることができるのです。

(3) 死の意味を理解させるイエスのみ言葉

 私は「死は終わりではない」と言う題名を今日の礼拝の予告に記しました。確かに主イエスの復活は、私たちの死が終わりではないことを告げ知らせています。しかし、私が今日、最後に考えたいのは一般的な誰かの死ではなく、自分の死、自分の人生、自分が一度だけ体験し、そしてその意味では他の誰にも理解できない自分の死の問題についてです。私たちはよく、同じような体験をした人の話を聞いて、そこに自分の問題の解決を探ろうとします。しかし、他人の体験は決して自分の問題に解答を与えることはできません。
 その違いは死という出来事の中に明確に現れています。私たちが恐れ、また苦しむのは生物学的見地から取り上げられる動物の一般的な死と言う出来事ではありません。この地上に今、生きている私という人間がこの地上から全く消え去ってしまう、私の死であり、その意味では他人には誰も答えることができない問題です。しかし、そのような問題にこそ、主イエスはみ言葉を通して答えてくださると言えるのです。私たちがみ言葉を思い出すとき、私たちが今、体験している個別の死という問題に明確な答えを受けることができるのです。
 私たちはどうして死ななければならないのか。やがて病床の中で一人、そのことを問う日が私たちにやってくるかも知れません。しかし、そのときに復活されたイエスはみ言葉を通して答えを与えてくださるのです。そして、その死の向こうに、命の世界が待っていることを私たち一人一人に明らかにしてくださるのです。婦人たちはこの朝、このイエスによって自分たちの体験していた出来事の意味を明らかにされ、イエスの復活を証しする者としての歩みを始めたのです。

【祈祷】
天の父なる神様
主イエス・キリストの復活を心から喜ぶ礼拝に私たちを招いてくださり感謝します。空の墓を前に途方にくれた婦人たちに、み言葉を思い出させ、その意味を教えてくださったあなたは、私たちが体験する人生の問題、そして死の問題にも答えを与えてくださいます。どうか私たちが、その主の御声をいつも聞くことが出来るように豊かに聖霊を遣わしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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