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礼拝説教 桜井良一牧師
「わたしは去っていくが何かが残る」

(2007.05.13)

聖書箇所:ヨハネによる福音書17章20〜26節

20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

1.おろせなくなった預金

 先日も父が亡くなった後の我が家の混乱についてはお話しましたが。特にその中でも困ってしまったのは父の口座から預金が全く下ろせなくなってしまったことです。口座の持ち主が死去するとたとえその家族であっても故人の口座から簡単に預金を下ろすことができなくなってしまう仕組みになっているのです。おそらく、財産相続の権利のある人々の間に起こる問題をふせぐために銀行が取る手段なのでしょう。父の預金は自分の葬儀費用のために貯めたわずかな金額でしたが、その預金をおろすためには複雑な手続きが必要で、未だに私たちはその口座のお金に手をつけることができません。幸い、葬儀に集まってくださった家族や知人の方々からいただいたお花料や香典がありましたので、それで立て替えることで葬儀にかかった費用をひとまずは支払うことができました。
 しかし、いずれにしてもお金は口座にちゃんとあるのに肝心なときにそれを使えないと言うのはたいへんに不便なことです。私たちの神様は私たちのためにたくさんの宝を天に蓄えてくださり、それを私たちに与えてくださると約束してくださっています。私たちはイエス・キリストによって天の宝を相続することのできる相続人とされたのです。使徒パウロが記したエフェソの信徒への手紙には「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」(1章11節)と言う言葉でそのことが記されています。
 それでは私たちはこの天に蓄えられたすばらしい宝をどのように自分のものとすることができるのでしょうか。せっかく天の預金口座に豊かな宝が蓄えられているのに、肝心なときにそれを手にすることができないならば、それは全く役に立たない、私たちにとってそれは文字通り絵に描いた宝となってしまうでしょう。それでは神は私たちのためにどんな天のどんな宝をどのように与えてくださると言うのでしょうか。そのことについて今日の聖書の箇所から私たちは少し考えてみたいと思うのです。

2.大祭司の祈り
(1) 真の大祭司イエス

 ヨハネによる福音書は13章から、この17章にかけてはイエスの語られたたいへん長い講話が記されています。そしてこの講話が始まる13章の最初にはこのような言葉が記されています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。イエスはご自分が十字架にかけられるときが近づいていることを悟り、愛する弟子たちにご自分の愛を豊かに示されました。つまりこの講話にはイエスのその愛が深く示されているのです。イエスのこの話は特に残された弟子たちを励まし力づけるものであったと言えます。そしてその講話の最後になるこの17章では長いイエスの祈りの文章が記されているのです。イエスはこの祈りを終えた後にユダヤ人たちに逮捕されています(18章)。

 この17章に記されたイエスの祈りをたくさんの人は「大祭司イエスの祈り」と呼ぶことがあります。イスラエルにおいて大祭司は神様と民との間にあって、その関係を取り次ぐ重要な役目を果たしていました。ヘブライ人への手紙などを読むとこの真の大祭司こそがイエス・キリストであると言われています。そのイエス・キリストが私たちのために神様に献げられた祈りであるためにこの祈りは「大祭司イエスの祈り」と呼ばれているのでしょう。

(2) 不正使用

 最近は、銀行の預金を下ろすときに私たちはよくキャッシュカードと言うものを使うようになっています。カードがあれば印鑑や通帳がなくても必要なときに自分の預金から現金を引き出すことができます。このカードは大変大切なものですが、もし紛失してそのカードが誰か他人に渡ったとしても、他人は簡単にそのカードを使って預金を引き出すことができなくなっています。なぜなら、カードにはその本人しか分からない暗証番号のデータが入力されていて、その番号を機械に打ち込まなければお金を引き出すことができない仕組みになっているからです。
 私は経験がないのですが、キャッシュカードを読み込む機械に、誤った暗証番号を続けて三回打ち込むとそのカードは使えなくなってしまうのだと聞いています。おそらくそれはカードの不正使用を防止するための仕組みなのだと思います。
 天の宝を手に入れるために私たちが自分の名前や自分が知っている暗号を打ち込んでも、おそらく私たちは不正使用者と見なされ、その宝を手に入れることができません。なぜなら、その口座の持ち主はイエス・キリストご自身であり、その名前以外を神様は受け入れることができないからです。
 この大祭司の祈りは私たちのために天に準備されている祝福を私たちに代って引き出してくださるための祈りであると考えることができます。イエスはそのために十字架にかかり、血を流され、私たちが天の祝福の正しい相続者であることを証明しようとしてくださったからです。ですから私たちはこのイエスの祈りによってのみ、天に蓄えられた豊かな恵みの宝庫からその宝をいただくことができるのです。

3.神を信頼するところに生まれる一致
(1) 一つとなるために

 イエスがここで天の父なる神に私たちのために願って、与えようとしているものは次の二つです。一つは「すべての人を一つにしてください」と言うこと、そしてもう一つは「わたしのいる所に、共におらせてください」と言うことです。
 第一の願いについてですが。この部分の最初にはイエスの次のような言葉が記されています。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。ここで語られている「彼らは」はイエスが愛された弟子たちのことを直接には指しています。そしてこの祈りはその弟子たちが語る言葉によってイエスを信じるようになるすべて人々へとその対象が広がっていくのです。この言葉をつなげて考えると「一つにされるように」とイエスが願っているのはイエスの弟子たちだけに止まらず、その弟子たちの教えを聞いて信じた信仰者すべてのことを言っていることがわかります。
 信仰者が一つにされることを主イエスはこの祈りの中で求められました。もちろん、この一致は私たちの努力の結果ではなく、イエスの祈りの結果、天から私たち与えられる恵みなのです。そしてイエスはこの一致について次のような但し書きを記しています。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」。これはイエスのうちに父なる神がおられ、父なる神のうちにイエスがおられるという聖三位一体の関係に似るものとして例えられています。そのためにこの一致は、私たちがこの地上で普通に考えている何らかの人間の協力関係とは比べものにならない親密さを語っていることがわかります。イエスの祈りによって私たち信仰者はこのような親密な関係が与えられるのです。

(2) 私のいるところに

 それではこの信仰者の親密な関係は具体的にどのような形で私たちの世界に現れるのでしょうか。それを理解させるのが、ここで語られているイエスの第二の願い「わたしのいる所に、共におらせてください」と言う言葉です。
 実はこの「わたしのいる所に」と言う言葉は先ほどの但し書きと深く関係してきます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」。この但し書きの言葉から考えると私たちはイエスと共に父なる神の内にいることになり、また父なる神はイエスと共にいる私たちの内におられると言うことになります。つまりここで語る「所」と言う言葉は、天国とか地上と言った具体的な場所を指していると言うよりは、ここでも同じようにイエスと父なる神との親密な関係を指し、その関係の内に私たちも入ることができるようにと言う言葉なのです。
 つまり、私たち信仰者の一致は父なる神とイエス・キリストとの親密な信頼関係の中に私たち自身も入いれていただけるときに初めて可能となるものだと言うのです。
 人と人とが一つになること、また一致することは非常に困難ことです。それは私たちが罪人であって、それぞれ自分の願う方に相手をコントロールしたいと思っているからかもしれません。このようなことは信仰者の交わり、教会生活の中でも同じように起こります。それではそのような罪人の集う、教会の中で私たちが一致するためにどうしたらよいのでしょうか。お互いを理解し合うことも大切かもしれなせん。しかし、私たちのする人間的な努力は欠けが多く、たびたび失敗に終わっては、更に大きな不一致を私たちに生むのです。この人間的努力とは異なり神が私たちに与えてくださる一致とは、私たちそれぞれが神様との信頼関係に強く止まるときに生まれるものだとこの聖書の言葉は教えているのです。

(3) 神が与えて下さったものに信頼する

 このイエスの祈りを学ぶ中で私は以前に読んだ親子関係の本の言葉を思い出しました。その本には「自分の子供のために祈ることを止める」と言う不思議なアドバスが語られていました。親が子供のために祈るのは信仰者として当然の使命ではないかと皆さんは思われるかもしれません。しかし、問題はそこで私たちが何を子供のために祈っているのかが問題になってくるのです。そこで私たちはほとんど自分の子供が自分の期待通りになるようにと祈ります。そして、その祈りの前提として、今、目の前にいる子供の姿を受け入れることなく、否定しようとするのです。「神様、息子の成績がもっとよくなりますように。(どうして、息子はこんなに成績が悪いのか)」。「息子がよい子になりますように。(どうして息子はあんな出来損ないになってしまったのだろうか)」。その祈りの背後には相手の今のあり方を否定するマイナスな評価があり、現実にはその評価だけが相手に伝わっていくと言うのです。このように私たちの自己中心な期待や願いは相手のためになるよりは、その相手を傷つけたり、だめにしてしまうことが多いのです。
 神に信頼するとはその神が与えてくださったものに信頼することに繋がっていくのではないでしょうか。神様は私たちの教会のためにそれぞれ異なった個性を持ったものたちを与えてくださり、一つの教会を形作ろうとしてくださっているのです。この神様のみ業への信頼があるところに神様は信仰者の一致を与えてくださると言っているのではないでしょうか。

4.私たちが知るもの、世が知るも

 先日、基本教理の学びの中で人の命は死で終わってしまうのではなく、必ず新しい体を伴って復活するときがやってくると言う聖書の教えを学ぶ機会がありました。その席で、「すべての人が復活するとき、キリストの福音を信じなかった人は、そのときどのように思うのか」と言う面白い話題が昇りました。私たちは地上の生涯の中でも自分の過去を振り返って「あの時、ああしておけばよかったな…」と後悔することがたくさんあるのではないでしょうか。きっとそのときに感じるキリストを信じない人が味わう後悔はこれとは比べものにならないものになるかもしれません。しかし、そう考えるなら、今、イエスを信じるようにされている私たちは世の終わりに、復活の恵みにあずかるときにも決して後悔することのない人生に今導かれていると言うことになるのではないでしょうか。それはどんなに幸いなことでしょう。
 このイエスの祈りの最後の部分には「知る」と言う言葉が何度も登場しています。「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(25〜26節)。
 世は神が、私たちを愛し、私たちのためにイエスを遣わしてくださったことを知りません。しかし、私たちは今、その神をイエスを信じることによって知らされ、また信頼することができるようにされているのです。そして、そのイエスがご自分の御名を通して、私たちを天の恵みの正当な相続者としてくださり、この地上にあってもその宝にあずかることができるようにしてくださっていることを私は今知らされているのです。
 この事実を知らなかったら私たちの人生はどんなに後悔に満ちたものとなっていたか分かりません。しかし、今、私たちはこのイエスによって後悔を知らない、真に祝福された人生に導かれているので。そしてその祝福を私たちに与えるものこそがこのイエスの大祭司の祈りと言うことができるのです。

【祈り】
天の父なる神様。
大祭司イエスの祈りによってこの地上の生涯において幸いを与えられていることを感謝いたします。その祝福によって神への信頼に生き、共に一つとなってあなたに仕えることができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

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