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礼拝説教 桜井良一牧師
「天に昇られるイエス」

(2007.05.20)

聖書箇所:ルカによる福音書24章46〜53節

46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

1.主の昇天

 今日は主イエス・キリストが天に昇られた出来事を記念する礼拝です。本来、この昇天日は復活祭の40日後に守られることになっています。ですから今年のカレンダーで言えば5月17日がその昇天日にあたる訳です。キリスト教国ではこの日が祭日となり、教会では記念の礼拝が守られるようです。しかし、日本のような非キリスト教国のような場合はその礼拝が次の日曜日に移されることになります。そこで今日の日曜日が昇天日の礼拝になっているのです。
 以前、大会である牧師の逝去が報告されたとき、記録に誤って「○○牧師昇天」と記されていました。そこで一人の議員に「昇天されたのはイエス様だけではないですか」と指摘されたことがありました。それが適当なのかどうか疑問を投げかける方もいるようですが、私たちキリスト者が死を迎えるとき、それを「召天」と表記することがあります。しかし私の使っているワープロではこの「召天」と言う言葉はこちらで登録しない限り出てきません。おそらく誰かが作り出した造語なのだと思います。
 この「召天」の場合は通常、キリスト者の死を意味する言葉として用いられます。しかし、イエス・キリストの「昇天」の場合はこれとは全く意味が異なります。復活されたイエスは再び死を経験することなく、そのままの姿で弟子たちの目の前で天に昇られたと聖書は証言しているからです。それでは主の昇天はどのような意味があると聖書は教えているのでしょうか。この礼拝では主イエス・キリストの昇天の意味を学びたいと思います。

2.ルカの記した二つの書物と主イエスの昇天

 今日は主イエスの昇天の出来事についてルカの福音書の最後の部分を手がかりに学ぼうとしています。ルカはこの福音書と同じようにもう一つ使徒言行録と言う書物を記しました。この使徒言行録の最初には「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」(1章1〜2節)と言う言葉が記されています。この部分を読むと分かるように、ルカによる福音書と使徒言行録は第一巻と第二巻、つまり一続きの文章として記されていることが分かります。一見するとこの二つの書物の違いは、福音書は主イエス・キリストの生涯とその言動について記し、そして使徒言行録はその名前の通りイエスの弟子であった使徒たちの活動記録を記していると考えがちです。そして私たちはそれを主役の交代のように考えてしまうことがあります。しかしそれは大きな誤解と言えます。実は福音書も使徒言行録もその主役の点では主イエス・キリストお一人であると考えてよいのです。ルカは使徒言行録にも同じように主イエス・キリストの活動を記そうとしているのです。ただ、その働きの形態はこの二つの書物の間には大きな隔たりがあります。一方の福音書では弟子たちはもとより、多くの人がその目で目撃したこと、また耳で聞いた主イエスの活動と言葉が記しています。ところが、使徒言行録の場合は目で見て、耳で聞こえることができたのは実際には使徒たちの活動であり、またその言葉です。しかし、それは目に見えないイエス・キリストが彼らを通して、働かれているのだと言うことをルカはこの使徒言行録を通して知らせようとしたのです。そのような意味で今日の主イエスの昇天の物語は、主イエスの活動の形態が大きく変わる境目となった重要な出来事であると言えるのです。

3.神の約束の実現
(1) 開かれた心の目

 今日の部分はイエスの語られた次のような言葉で始まります。

 「言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」」(46〜49節)。

 この言葉の直前には次のような言葉が記されています。「イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」(44〜46節)。
 主イエスの復活の以後、弟子たちはその復活された主に出会ってもその出来事の本当の意味をなかなか理解出来ずにいました。そのような彼らにこれらの出来事はすべて聖書に記されていた預言の成就であることをイエスは教えられたのです。もちろん弟子たちは子供のときから聖書を読み親しんでいました。しかし、その本当の意味を彼らが理解するためにはイエスが彼らの心の目を開く必要があったと言うのです。
 今でも実際に聖書を手に取り、それを読む人はたくさんいます。しかし、その聖書の言葉を通して、そこに記された主イエス・キリストについての福音を理解することができるのは、主が心の目を開いてくださらなければ不可能であることをこの箇所は教えています。私たちが今、イエスを信じ、聖書の言葉に耳を傾けることができるのは、復活の主が私たち一人一人に聖霊を送り、その心の目を開いてくださったことをも、私たちはここで思い起こしたいのです。

(2) 成就され続ける預言

 さて、ここでイエスはご自分の死と復活の出来事を聖書の預言がその通り、実現したことなのだと語りながら、それに止まらず、これらの出来事に続く聖書の預言を語り続けます。「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(47節)。 聖書の預言は主イエスの復活によって完結してしまうのではありません。むしろ、そこから神様の救いの計画は世界的な広がりを持って進んで行くと言うのです。今まで、イスラエルと言う小さな国の中で起こり、伝えられていた出来事、それは主イエスの死と復活を持って、大きく変化します。今度はその国境を越えて世界に神の救いのみ業が宣べ伝えられると言うのです。
 この福音書に続く使徒言行録はその預言の言葉が続けて実現されていったことを証言するために記されています。そして、この預言の成就はこの使徒言行録に記された出来事で終わってはいないのです。その預言の成就は今でもさらに続いているのです。イスラエルから遠く離れたこの日本の地に主の福音が伝えられ、私たちが今、イエスを信じることが出来るのは、この預言が成就したからなのです。つまりイエスのこの言葉は私たちの信仰生活がこの聖書の預言の結果であることを教えているのです。

4.神のみ業をほめたたえ、喜ぶ
(1) 完全な神のみ業

 さてここでイエスは弟子たちにご自身の昇天後になすべき指示を語っています。

「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(47〜49節)。

イエスの昇天後、地上に残される弟子たちは「これらのことの証人となる」と言われています。普通、弟子たちの使命はイエスなきあと、その意志を引き継いで、伝道して改心者をたくさん起こすことだと考えられます。ところがそうなると弟子たちは、「証人」ではなく、その伝道の主人公になってしまいます。イエスはあくまでもここで弟子たちに「証人となりなさい」と語っているのです。それは人を悔い改めさせ、キリストへの信仰に導くのは人間の行為ではなく、神の行為であることが前提とされているからです。私たちは今、主人公である神様の救いのみ業が聖書の言葉通りに実現されていることを証しする証人として召されていることを忘れてはいけないと思います。

(2) 人の努力が完成させるのではない

「神様のみ業は大切だが、私たちも努力しなければならない」。「神様の救いの業が完成されるために、私たちの努力が必要とされている」と言う人がときどきいます。しかし、この考え方は完全な間違いです。神の救いのみ業には人間の努力は一つも入り込む隙間はありません。救いのみ業は神の働きの結果であり、だからこそ完全なものであり、私たちが信頼することができるものなのです。私たち人間の努力がどんなに不完全であるかを、私たちは日常の生活でよく知っているのではないでしょうか。元の木阿弥と申しますが、私たちは努力の結果にもかかわらず、すぐにだめになってしまうことを度々体験し、痛感しています。ですからもし、神の救いのみ業の内に私たちの努力が入り込むなら、それはまことに頼りのないものになってしまうでしょう。
 私の故郷には大きな川が流れています。最近はよく治水工事が進み、洪水になる心配が無くなっています。しかし、昔はよく堤防が決壊して、町が水浸しになることがあったと言います。堤防をどんなに頑丈に作っても、わずか一カ所でも手抜き工事があれば、水の力はその場所に集中し、堤防をおしくずしてしまいます。サタンは神のみ業の完全性を忘れて、自分の努力にすがろうとする人に襲いかかり、その救いをなきものとしようとするのです。

 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)。

 イエスはここで重要な使命を遂行する弟子たちに努力やがんばりを求めているのではありません。神の約束の通り聖霊が彼らにくだり、彼らがその神様の力に覆われる日を待ちなさいと命じているのです。ですから私たちに求められるのは努力ではありません。この完全な神の力に信頼すること、その神の力に覆われて、神のみ業の証人として生きることが私たちに与えられた重要な使命なのです。
 人の力ではなく神の力、人の計画や活動ではなく、神の働きを私たちは待ち望みます。なぜなら、私たちの救いはこの神のみ業を他にしては実現しないからです。この救いにおいては神様のみ業以外のものは全く何も役にたたないのです。

(3) 神を褒め称える

 「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(50〜53節)。

 ここではイエスが天に挙げられる姿が記されています。私たちはロケットが発射され、やがて大気圏を脱出して、その姿が空に消えていく、そんな姿をイエスの昇天の出来事にだぶらして想像しがちです。しかしルカはこの出来事を詳細に記すことはせず、一つだけ印象深いイエスの姿を記しました。イエスは「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」と言うのです。
 弟子たちはこのとき自分たちのために手を上げて祈り、祝福しつづけながら天に昇られるイエスの姿を目撃したのです。「私は天に昇ります。あとのことはよろしく」と言ってイエスは弟子たちに背を向けて天に昇っていかれたのではないのです。これからも、どこまでも弟子たちと深く関わり、その弟子たちのために天に昇ろうとするイエスの姿がここには記されています。
 だからこそ弟子たちはこのイエスの昇天後、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と言うのです。このようにイエスの昇天は彼らの信仰生活の喜びの源のとなったのです。先日、祈祷会で読んでいた本には「今はでは弟子たちがイエスに付き従ってきた。しかし、これからはイエスが弟子たちと共にいてくださる」と言うような言葉が記されていました。
 弟子たちはこのとき、これからはどこにあっても彼らと共にいてくださる主イエスを覚えることで喜びに満たされたのです。またそのイエスのみ業が完全なものであり、その完全なみ業がこれからこの世界に実現していくこと、そして自分たちはそのことのための証人とされたことを知り、喜んだのです。
 この日曜日の礼拝に集まる私たちもこの弟子たちと同じ喜びを神様から与えられています。イエスは聖霊を通して私たちといつも共にいてくださいます。そしてその完全な救いのみ業が地上に実現することの証人となるためにここに集められているのです。このようにイエスの昇天の出来事は私たちの信仰生活の喜びの源となっていることを今日の聖書は私たちに教えているのです。

【祈り】
天の父なる神様
私たちの心の目を開いて、聖書の福音を理解し、信じる者としてくださったことを感謝します。主の十字架と復活を実現してくださったあなたが、その福音を全世界に広げ、信じる者を起こし、教会を建ててくださることを感謝いたします。私たちがあなたの御業に信頼し、その御業の証人として生きることができるように、聖霊を遣わしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

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